臨死体験・気功・瞑想

2001年・ヴィパッサナー瞑想合宿レポート  U

 

◆瞑想と食事 @

 ここで合宿中の食事のことに触れておく。合宿中食事は、朝と昼の2回のみ。毎回、もち米の玄米が味噌汁のお椀に三分の一程度だ。あとは味噌汁と数種類のおかずが少量づつ。

 個人面接での最初の話題は、食事の量と瞑想との関係についてであった。食事と補給をどの程度、いつとるかが瞑想の状態に大きく影響するから、早く自分の適量を把握するようにとのことであった。  最初は、その意味を実感できなかったが何日か経つうちに瞑想への食事の影響をいやというほど感じるようになる。

 私の場合、いい瞑想ができたのは、起床し掃除などをしてすぐ4時半前後からの瞑想と、朝食後すぐの瞑想、そして夕方の瞑想であることが多かった。

 食事の量が多すぎれば眠気が襲うし、少ないと体力がなくなってやはりいい瞑想ができない。適度な補給をすることによって瞑想にとってベストの状態を作ることが、いかに大切かを10日間で痛いほどに実感した。

 私は毎晩就寝前、9時過ぎにココアにたんぱく質の粉を匙に一杯くらい溶かして飲んだ。先生によると、それが朝の瞑想にとって最適だったのだろう、とのことだった。つまり夜の補給によるエネルギーがまだ体に残っていて、瞑想に活かされるのだろうとのことだった。

 最初の二日目までは、出された玄米のご飯を全部食べたが、三日目からはセーブして少し残すようになった。おかずも少な目にした。その方が眠気のない、いい瞑想ができるようだった。しかし、実際はもう少し少量にすれば、もっとクリアな瞑想が出来たかもしれない。食事の美味さの誘惑に勝てなかった。

 ある日、おかずで出た手の親指ほどの卵焼きを全部食べた。その日の午前中の瞑想は、強い眠気に襲われた。個人面接で先生は、私に一言注意しようかと思ったが、目を離している間に全部た食べてしまった、それが原因だろうと指摘された。高たんぱくの卵は、消化に時間がかかり、必ず眠気をさそう。先生のこれまでの経験からも明らかだとのことだった。
 ちなみに先生は、毎回の参加者各自の食事の量と内容を必ずチェックされ、それを頭に入れた上で面接でのアドバイスをされていた。

 


◆瞑想と食事 A

 ある夕方、座禅中に妄想と眠気に悩まされた。30分ほどで切り上げ場所を変えてまた座禅をはじめた。すると今度は、さっきの眠気とは打って変わって非常にクリアな意識で30分瞑想ができた。

 午後3時ごろ、補給で野菜ジュースを2杯飲んだ。そのエネルギーがちょうど体を活性化させ始めたとき、眠気と妄想状態がクリアな瞑想に変わったのではないかと、先生は指摘された。

 10日間の間、瞑想は良い状態と悪い状態を繰り返しながら、全体として徐々にクリアな瞑想へと変化していった。最初は何が影響して大きな差が出るのか分からなかったが、先生のアドバイスから振り返ると、やはり食事の影響が大きいと実感するようになった。食事だけではないが食事の影響も無視できない。

 瞑想の背後にある様々なことが瞑想に微妙に影響を与えているのだろう。先生は、だからこそ五戒を守る必要を何回も強調しておられた

。 地橋先生は、瞑想者の実力はどんな食事をしているかを見れば、だいたいわかる、そういう人はみな小食だとも言っておられた。私は168センチ、72キロ。痩せているとは言えない。もっとも10日間が終わった時点で67キロに減少。今は再び70キロに近づいたが。

 以下は余談。普段に比べると信じられない小食だったにもかかわらず、空腹感はまったくなかった。しかし体は正直なもので食べ物に関する不思議な「妄想」に囚われ続けた。 誰かが何かの袋をあけるカサカサという音が、ことごとくお菓子の包みを開ける音や、せんべいや菓子類を食べる音に聞こえてしまうのだ。そんなはずはありえないと分かっていてもそう聞こえた。

 それにしても毎回の玄米ご飯や味噌汁、手作りのおかずが何とおいしかったことか。毎回小一時間をかけて、噛むこと、味覚の広がり、飲むこと、その他すべてにサティを入れながら食べる。もっとも、訓練するとおいしいという判断以前にサティが入るので、おいしさも感じなくなるということだが。

 普段の食事が何ときめの荒い、そして本当に味わうといことをしていない食事であるかを、つくづく感じた。


◆裸の感覚への集中

 合宿の前半、腹の動きへの集中がなかなか出来ず意識的に気の感覚を使って集中を高めようとした。丹田に気を下ろして腹から気が出たり入ったりする感覚に集中していたのだ。  
  このことを先生に言えばダメと言われる思ったので迷ったが、結局言った。予想通り、ヴィパッサナー瞑想の方法に純粋に従った方がよいとのことだった。テクニックを使って集中を高めるよりは、集中できないなら集中できないで、その状態にサティを入れることが大切。妄想にきちんと働きをしてもらうべきだとのこと。

 ただ状態が良いときは自然に気の充実も感じられ、腹の動きに少し遅れるようにして気の動きが感じられた。
 だいたいこの研究所に入った時から脳内にシーンとしたバイブレーションが響きはじめ、それは10日間続いた。脳内のバイブレーションが気であるのは、手や丹田、眉間の気のバイブレーションと相互に共鳴するので間違いない。

 歩行瞑想では足の裏の感覚をゆっくりと追う。「離れた、移動、触れた、圧」とサティしていく。足をじゅうたんと平行に移動していくとき、足裏に微妙な変化が感じられた。これはおそらく訓練によって感覚が高まったというより、足裏とその周囲の気の変化を感じ取っていたものと思う。

 先生のアドバイスは、それを気と判断するのではなく、感じられるセンセーションそのものにサティを入れ続けよというものだった。これは丹田の気についても同じだろう。どうラベリングするかは別として、感じられるセンセーションそのものに気付き続けるのだ。

 どちらかといえば私は歩行瞑想が苦手であった。参加した皆さんは誰も歩行瞑想に非常に集中していたが、私はなかなか集中できなかった。

 合宿の8日目に初参加者は、2時間サティを切らさない状態を日に2回続けよとの課題を課せられた。座禅は、どうしてもちょっとした妄想でサティが切れやすいので私も歩行瞑想が多くなった。自己申告なので甘いサティなら結構続きそうだが、厳密にやって私は40分がやっとだった。本当のサティがいかに難しいかを実感。

 足裏の感覚に集中するのも腹の筋肉の動きに集中するのも、結局、裸の感覚に触れそれに集中する訓練として同じ意味がある。訓練によって足の感覚が何十倍にも鮮やかになればそれは腹の感覚の信じられないような高まりに連動すると言う。


◆クリアな意識での座禅

 地橋先生は、参加者の持てる力を最後の一滴まで絞り出させるのが好きだと冗談半分に言っておられた。8日目、9日目あたりになると、集中力が切れあきらめる者が出てくる。実はそこでもうひとふんばりすると目覚しい成果があがる。これまでも素晴らしい体験をした人の8割がたは、8日目、9日目だという。

 サティを2時間切らさない状態を日に2回作りなさい、という「達成ゲーム」も、持てる力を最後まで出してもらいたいという、先生の願いから工夫されたようだ。「達成ゲーム」も含めて、10日間で最大限の成果が出るようプログラムや指導法に様々な工夫がなされているのを感じた。先生自身の長い試行錯誤から得られたエッセンスが、この合宿に濃縮されていた。

 事実「達成ゲーム」で力を振り絞ることで、サティが自分の意図に関係なく間断なく飛び出すという「サティの自動化」という現象が起こる人もいるらしい。脳の回路がそう再プログラムされるというのだ。

 私自身は、合宿体験をどうレポートするかという意識が働いたり、この合宿で何とかするぞという悲壮感が欠けていたためか、最後の一滴すら出し尽したとはいえない。それでも、8日には3時間ぶっ続けで夢中で歩行瞑想に取り組んだりした。

 私にとっての成果は、非常にクリアな状態で集中が続く座禅が、最後の数日で頻繁に出るようになったことだ。それは、腹の感覚と一体となって自意識が完全に消える深いサマーディとはいえなかったが、透明な意識状態の中で腹への集中が途切れることなく30分、一時間と続いた。

 途中足が痛くなっても「痛み」とサティを入れると次第に痛みの感覚は消え、そのまま腹への集中が続いた。終わりに近い日の座禅中、チリンチリンという鈴のようなかすかな音が耳元で規則正しく続いた。それは座禅を終えてもしばらく続いた。臨死体験者が体験の最初に聞くという異音を思い出したが、何回か「音」とサティを入れた。

 合宿での体験は、もっと深い瞑想への確実な第一歩となった。続けていけばさらに瞑想を深められるという自信につながった。

 日常生活の中でのサティは、合宿で行うサティのようにきめ細かくはできないにせよ、出来限り続けていくことの大切さを実感した。  

 


◆ 空と苦

 ヴィパッサナー瞑想の修行法には非常に強い共鳴を感じる。しかしその背景をなすテーラヴァーダ仏教については、引っかかりがあってすんなり受け入れられない。  

 一番の引っかかりは、やはり現象の一切を苦(ドゥッカ)として完全に否定することだ。 合宿の前半、私の瞑想が深まらず眠気が襲う一つの理由は、その引っかかりにあるのではないかと、先生はダンマトークでもテーラヴァーダ仏教と大乗仏教の違いを語ってくださった。しかし私の引っかかりはまだ続いている。

 先生自身、大乗仏教やヨーガを10年学び、それを完全に捨ててヴィパッサナー一筋になるまでには、相当の葛藤があったようだ。

 ヴィパッサナー瞑想は、生滅変化する現象の在るがままに気付いて確認するサティの修行に励む。サティによって現象をあるがままに受け入れる訓練を続けると、やがて心が作り出すものと真に実在するものとの違いがはっきりと分かり、現象の真の姿が洞察される瞬間が来るという。

 また、心が描き出す妄想・幻影・現実の歪曲のたぐいがはっきり見えると、同時に自我(エゴ)が、元来は存在しない幻影であり錯覚であることが分かるという。

 以上は納得できる。大乗仏教も基本的には同じことを言っていると思う。凡夫は言葉と思考を介することで「対立と区別の相」の下のこの世界を見る。しかしそれは世界の真実の相ではない。蜃気楼のごとき幻の世界を真実と見間違えているに過ぎない。言葉による区別・対立・分別を超えた世界のあり方が空性と呼ばれる。

 わからないのは、テーラヴァーダ仏教では、幻影を振り払ったときに洞察される世界が、苦と捉えられ、大乗仏教ではそれが、空と捉えられるとことだ。ヴィパッサナー瞑想もエゴや言葉による歪曲以前のありのままの世界を見るという点は、大乗仏教と同じであるはずなのに、なぜそれは、空ではなく快や幸福と対立する苦なのか。現象を苦と規定したとき、それはもう「対立と区別の相」での見方ではないのか。


◆書き残したことなど

合宿について書き残したことなどを書く。

☆地橋先生が瞑想法の指導で工夫しているのは強化法だという。たとえばマハシ式では、腹の「ふくらみ、縮み」に集中せよと言われるが、腹の動きと呼吸とは必ずしも明確に区別されないらしい。先生はその点を明確にし、腹の筋肉の運動だけに注意を集中せよという。呼吸は集中すべき部位があいまいだが、集中を呼吸ではなく腹の筋肉に専一化すれば、それだけ集中しやすくなるからだ。

 私はこの辺の理解があいまいで、合宿の後半まで呼吸に集中していた。禅やヨーガをかじっていたので呼吸の大切さということが頭にこびりついていた。自分に腹の動きに帰るのだと言い聞かせて瞑想に臨んでも、まどろみ状態の中の妄想が「そんなところに帰る必要はない」と囁きかけるのだからびっくりした。

 現在は、足裏にしても腹の動きにしてもナマのセンセーションに出会うことが大切だ思うので、腹の動きに集中している。呼吸の大切さを否定しているわけではないが。  

☆合宿後、座禅はほぼ毎日20〜30分はやっている。しかし合宿の最後のころに経験した、澄んだ意識状態での瞑想はまだない。なぜか合宿の時に悩まされたような眠気はほとんどでない。どんな状態のときにいい瞑想ができるのか今後も試行錯誤していくつもりだ。

 地橋先生の指導を受けるまでは迷いがあったが、今は足裏なり、腹なりに中心対象を設定して、そこからふらついたらサティを入れることに徹しようと思う。  こう腹が据わったもの合宿の大きな成果だ。

 

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