◇臨死体験・気功・瞑想  臨死体験の世界を探求する

『臨死体験・いのちと悟り』(臨死体験研究読本)

第4章  脳が生み出す幻覚なのか   
臨死体験の科学的研究(1)

 1 臨死体験の統計的分析
       ◆臨死体験が発生する割合は?  
              ◆「臨死」なき臨死体験はナンセンスか     
           ◆「あの世」と電磁界を比べてみると    
         ◆臨死体験の各要素が出現する割合
     ◆死に方による違いはあるのか
      ◆臨死体験の個人的背景     
             ◆インド人はあの世への誘いを拒絶する   
◆三途の川とお花畑  

以下掲載

2 臨死体験の神経生理学的な研究
   ◆酸素が欠乏すると臨死体験をする?     
◆臨死体験は脳の無秩序な興奮による?
◆脳の発火がトンネルと光を演出する?
   ◆「安らぎと至福」はエンドルフィン効果か     
      ◆エンドルフィンで光の神秘性と愛を説明できるか

 

2 臨死体験の神経生理学的な研究  

 スーザン・ブラックモアは、英国ブリストル大学の脳知覚研究所の講師で、異常心理学、体外離脱現象を科学的に解明する研究家として世界的にその名を知られるという。ここでは、彼女の『生と死の境界』を中心にし、必要に応じて他の説にも触れながら、臨死体験を脳内現象として科学的に説明しようとする説を紹介しよう。  ブラックモアの基本的な立場は、臨死体験の科学的、生理的な要因は一つではなく、体験の各要素にはそれぞれ別の説明が必要だというものである。彼女は、臨死体験の中に含まれている各々の体験要素を抽出し、「なぜトンネルを通過し、光を見るのか」「なぜ安らかな気分になるのか」などの個々の具体的な問題ごとに、その神経生理学的なメカニズムをそれぞれ解明していく。

 さらに「トンネル、明るい光、騒音等は、死にかけたのが原因で変調をきたした脳の状態に目を向けながら論じる必要があるし、体験の他の特徴や人が変わるという特性については、それとは別の方法で解明する必要があるのだ」と、体験の要素ごとに複数の要因を探ろうとする。
  ブラックモアの研究は、臨死体験を還元主義的な立場からあくまでも脳内の生理現象として、しかも複合的に解明しようとする試みとしては、これまでに発表された中でもっとも包括的で徹底したものだと言えよう。

 たとえば、『パラサイド・イヴ』に引き続き、脳をめぐる小説『BRAIN VALLEY』を発表した瀬名秀明氏もブラックモアの研究について、「酸素欠乏による神経の脱抑制が臨死体験の引き金であるという彼女の考察は、極めてわかりやすく、しかも小気味よい。本書は唯物論的な立場にたった臨死体験研究書として、いまのところ最も優れた成果を上げているといえよう」と、その内容を高く評価している。瀬名249 しかし、こうした評価にもかかわらず、その試みは成功したとは言えない。逆に臨死体験を脳内生理現象として説明することの難しさを際立たせる結果に終わっていると思う。彼女の研究を追いながら、その矛盾や不十分さを明らかにしていこう。

◆酸素が欠乏すると臨死体験をする?◆

 臨死体験を神経生理学的に説明する上で彼女が採用する要因のひとつは、酸素欠乏症である。彼女は、酸欠が臨死体験を引き起こす引き金の一つで「ありうる」こと、またそれが臨死体験のいくつかの構成要素の原因なりうることを明らかにしようとする。実をいうと臨死体験の研究が始まって以来、酸素欠乏症はこの体験の原因の有力な候補の一つと考えられてきた。

 臨床的に死の状態にあり、激しい肉体的緊張が生じれば、最後には血行が不十分になって、脳に血がまわらなくなる。脳に血がまわらなければ酸素も十分に送られず、最終的には必ず低酸素状態になる。脳は低酸素状態になると機能がマヒし、幻覚が生じるようになるという解釈である。 もちろんこれに対して、酸欠は臨死体験の引き金にならないと主張する研究者も多くいた。ブラックモアは、そうした主張の理由を次の四つに整理する。

1「臨死体験は明らかに酸欠でない者にもおこりうる」、

2「血中ガスが正常な者に臨死体験が起きた例がある」、

3「酸欠は臨死体験らしからぬ作用(たとえば、疲労や錯乱など)を引き起こす」、

4「酸欠の説明では、その時起きたことで、実際に見たことや『向こう側』で得た知識(たとえば死んだ人のこと)の説明がつかない」 

 ブラックモアは、これら一つ一つに反論していく。
  まず、1「臨死体験は明らかに酸欠でない者にも起こりうる」という主張に対する彼女の反論は、臨死体験が一つの原因だけで引き起こされるとは限らない、というものである。確かに臨死体験は酸欠でない場合にも起こりうるだろうが、それは、酸欠が時に臨死体験を誘発する、ということへの反論にはならない。われわれは、ある程度のバリエーションをもった一群の体験を総称して「臨死体験」と呼んでいるのであって、それらは様々な生理的誘因によって引き起こされる可能性があり、酸欠もその有力な可能性の一つである。酸欠でなかった者の臨死体験が報告されるからといって、酸欠を誘因とする臨死体験がありうることは否定できないというのが、彼女の主張である。

 次は、2「血中ガスが正常な者に臨死体験が起きた例がある」という具体的な事例への反論である。たとえばセイボムがあげている事例では、患者は体外離脱をし、医者が自分の股間に注射をしているのを空中に漂いながら見ていたという。実際は、大腿動脈から血液を採取していたのだが、それを上から見ていたという患者が注射と勘違いしたのだ。ところで、その採取された血中のガスはほぼ正常で、酸素濃度は上昇し、二酸化炭素は正常値より低かったという。つまり、この事例では臨死体験中にもかかわらず一見脳の酸欠はなかったように思われる。

 しかしブラックモアは、一般に動脈の酸素濃度はきわめてゆっくりとしか下がらないのに対し、脳は大量に血液を使用するので、脳静脈の酸素濃度は急速に低下すると反論する。患者のももの部分の動脈血が正常だからといって脳が酸欠を起こしていなかったとは断定できないというのである。

 3番目は、「酸欠は臨死体験らしからぬ作用(たとえば、疲労や錯乱など)を引き起こす」という説である。これに対しブラックモアは、酸素を失う速度によって酸欠の作用はまるで違ってくると反論する。酸欠が急激に起これば、臨死体験はしないまま意識を失い、一方きわめてゆっくりと進む酸欠では、臨死体験とは似ても似つかぬ混乱や倦怠感が生じるという。

 そして彼女は、酸素が中くらいの速さで減少する場合に臨死体験が起きる可能性があると推論する。たとえば溺れかけたときなどは、心臓はしばらく動いているのでこのケースに当てはまる。また、酸欠に伴い、高炭酸血症が生じると、臨死体験に似た症状を生み出すという。  一九五〇年代にイリノイ大学のある精神科医が、被験者に配合率の異なる酸素と炭酸ガスの混合物を与える実験をした。被験者のある者は、明るい光を見た、体外離脱をし、過去の記憶が蘇ったという。恐怖を感じた者、恍惚感を感じた者、宇宙的理解や普遍的愛を感じた者もいた。

 「酸欠説」否定論の4番目は、「酸欠の説明では、その時起きたことで、実際に見たことや『向こう側』で得た知識(たとえば死んだ人のこと)の説明がつかない」というもので、要するに酸欠では、体験時の超常現象が説明できないというのである。これは、とくに酸欠にかぎらず、臨死体験の自然科学的・還元主義的な解釈に対する一般的な反論になるので、後に体外離脱体験との関係を中心にして独立して論じられることになる。 ともあれブラックモアがここで主張したのは、「臨死体験には様々な引き金があり、酸欠もその一つかも知れない」ということであった。酸欠説を否定する研究者が「酸欠は臨死体験の説明にならない」とする論拠の不十分さを明らかにしたのである。彼女によれば、臨死体験の誘因に関する「一定不変説」は立証できないのである。臨死体験には、さまざまなタイプがあり、タイプや要素によって様々な解釈が必要である。酸欠もその可能な解釈の一つであることは否定できないというのがブラックモアの立場である。

◆臨死体験は脳の無秩序な興奮による?◆

 しかし彼女は、さらに脳細胞の「脱抑制」のメカニズムをもちだし、これをもとにすることで酸欠説をさらに有力で説得力のあるとして打ち出す。ネズミの脳細胞の研究によって、酸欠状態においては、抑制性の電位の方が興奮性の電位より先にやられることが明らかになったという。抑制性の電位が先にやられるということは、脳細胞が抑制のきかない状態となることであり、その結果、異常放電が起る、つまり発火すべきでない細胞があちこちで発火しはじめることが予想される。脳の神経細胞が、いっせいにデタラメにインパルスを発して、無茶苦茶な混乱が起きてしまう。立花135 酸素欠乏症によって脳の広い範囲が抑制のきかない状態になり、脳全体が無秩序に興奮するというのである。

 この脱抑制の作用が、実は酸素を失う速度が臨死体験に関係するという仮説と結びつく。急激な酸欠では、脱抑制の段階はあまりに短く、それが顕著な体験を起こすことはないだろう。酸欠がゆっくりと進み過ぎても、脳は徐々にそれに反応するので広い範囲の脱抑制は起こらないだろう。酸素が、中くらいの速さで減少する場合にのみ、かなり長い間の脱抑制があるのではないか。ここからブラックモアは、酸欠そのものというより、その結果としての脱抑制とそれがもたらす脳の興奮、異常放電にこそ臨死体験を理解するカギあると考える。  たとえば臨死体験の初期によく聞こえるという奇妙な音や轟くような音、あるいはチリンチリンと鈴が鳴るような音は、脱抑制によってかなり容易に説明される。耳の蝸牛管のあたりは特に酸欠に敏感で、この部分の無秩序な興奮が、騒々しい音を生み出すのかもしれないというのだ。ともあれ脱抑制による大脳皮質の興奮こそ、臨死体験の謎を解く共通の縦糸だというのが、ブラックモアの主張なのである。  

◆脳の発火がトンネルと光を演出する?◆

 臨死体験者のかなり多くが、トンネルを通って光の世界へ行ったという報告をする。ブラックモアは、この体験をどのような生理的メカニズムによって説明しようとするのか。ここで彼女がもちだすのも、酸素欠乏症と、その結果としての脱抑制および広い範囲での脳の興奮である。

 ここで重要なのは、大脳皮質視覚野(視覚情報を専門に処理する脳の大脳皮質の一部)での脱抑制の作用である。大脳皮質視覚野が抑制のきかない状態になると、細胞は無秩序に発火(興奮)し、神経ノイズを生じるという。細胞がいっせいに無秩序に発火・放電しはじめて、それとともに視覚野の真ん中の細胞の数がふえ、逆に外側にいくほど少なくなり、普通見える範囲からずっとはずれた所には、全然なくなるという。

 ブラックモアはこの時に見える世界を、中心部ほど明るくて、チカチカ点滅する点が浮かんだような世界であり、一見トンネルの形に似ていると推測する。そして、網膜と大脳皮質の対応関係をもとに、コンピュータでシュミレーションを行ってみると、まさにトンネルのように見えたと報告する。 臨死体験者が、このトンネルの中を光に向かって前進するような体験をするのはどう説明されるだろうか。これは、神経ノイズが最初はほとんどなくて、徐々に増していった場合に、真ん中の光がしだいに大きくなり近づいて来るように見えるということで、うまく説明できるだろう。そして、大脳皮質全体にノイズが広がると、細胞がいっせいに発火しはじめ、全体が光のように見える。つまり体験者は光の中に入ったと感じるのだ。

 このトンネル内前進の部分は、ブラックモアの説ではなく彼女が紹介するトロシャンコという研究者の説なのだが、トンネルの中の移動に関してはこれが一番説得力があるように見える。ところで多くの体験者は、光は非常に明るかったが目は痛まなかった報告する。大脳皮質視覚野の脱抑制によって体験される光は、目がまったく関与していないということから、目が痛まないという点もうまく説明できるわけだ。
  さらに体験者は、自分が見た光の色を白か黄色かのいずれかと報告しており、他の色が報告されることは少ない。これが脳のかってな想像ならもっと色々な色が見えてもよさそうなものだ。大脳皮質の無秩序な興奮という大脳生理学を基礎にした説は、この点もうまく説明する。つまり、細胞が活性化するとき、発火する色はについてがはそれこそ色々で、あらゆる色が混合していると思われる。その混合の結果、実際に体験されるのは白か黄色に近い色になると推測できるのだ。

  以上、大脳皮質視覚野での脱抑制によってトンネルと光を説明する理論は、なぜ門や入り口、アーチなどではなくトンネルが出現するのか、なぜ体験者は光に向かって前進するように感じるのか、なぜ光が強烈であるにもかかわらず目を痛めないのか、なぜ光が他の色ではなく白や黄色なのか、を矛盾なく説明するという点で非常に優れているとブラックモアは力説する。 しかしこの理論では、体験者が光に対して感じる大切な要素についての説明が抜けおちている。これまでの章で何回も触れてきたように体験者にとって光は、愛を発散する生命として、あるいは超自然的な神秘性をおびたものとして実感されることが多かった。ブラックモアの大脳生理学的な説明では、この点がまったく説明できないのである。

 念のためにもう一度、「光の生命」に出会ったという多くの報告の共通点をまとめたムーディーの一文を引用しよう。 「‥‥この光が生命であること、光の生命であることに、多少なりとも疑いを抱く人はひとりもいない。この光は単に人格を備えた生命であるばかりでなく、極めて明確な個性を持っている。死へ接近している人に対してこの生命から発散される愛と恩情は、ことばでは到底説明しきれないものであり、彼らはくつろぎ、この生命の存在を受け入れる。」 

 これは議論のポイントになるので、さらに光との出会いの典型的な場合として第一章で触れた鈴木秀子氏の事例をも、もう一度確認しておこう。「それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、交流している生きた光なのでした。これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていました。‥‥その冴えわたった意識の中で、私ははっきりと理解したのでした。『この命そのものの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、受けいれられ、許され、完全に愛しぬかれている』 これが、愛の極致なのだと。」 光を通して実感されるこの神秘性、人格性や愛、深い部分での交流等といった強烈で意味に満ちた体験は、ブラックモアのいう大脳皮質の異常な放電という生理学的な反応では、まったく説明できない。臨死体験者が味わう深い精神性は、死体が硬直する際の脳神経の痙攣だけではとうてい説明しきれないのである。彼女はこの点をどのように説明するのだろうか。

◆安らぎと至福はエンドルフィン効果か◆

 ブラックモアは、この問題に別の角度から答えようとする。最初に確認したように彼女の基本的な立場は、臨死体験の科学的、生理的な要因は一つではなく、体験の各要素にはそれぞれ別の説明が必要だというものであった。「なぜトンネルを通過し、光を見るのか」という問題について彼女は、大脳皮質の脱抑制という解釈を打ち出した。しかし、光の「温かく、意味があり、歓喜と安らぎと愛に満ちていた」というような側面については、別の神経生理学的なメカニズムで説明しようとするのだ。

 臨死体験が多くの場合、こころよく安らかなものと報告されているのはこれまで見て来た通りだ。ムーディーも、多くの事例に繰り返し登場する共通の核のひとつとして「苦痛からの解放、深い安らぎ、平和の感覚」という要素を挙げている。安らぎはリングの「コア体験」では第一段階をなし、事例のほぼ六〇パーセントがこれを報告している。(別の数字も100%) つまりこの感覚は、臨死体験にとってかなり普遍的なものなのである。  トンネル、光、異音等は実際に死にかけたときによく起きる現象であり、酸素欠乏症などで脳が直接脅威にさらされることよって引き起こされるという説明も成り立ちうる。しかし、安らぎや至福の感情は、肉体的に死に瀕した時でなくても起きる。それはたとえば、転落したが怪我はなかったとか、極度のストレスや不安に襲われたが肉体的な損傷はなかったとかの場合である。

 したがって、この快い、幸せな気分を引き出すのは、トンネルや光と違って脳の酸欠によるのではなく、もっと一般的に起きる「何か」によるものと推測される。ブラックモアは、その歓喜に満ちた安らかな気分を誘発する「何か」を、ストレス反応としてのエンドルフィンの分泌であろうと結論する。 エンドルフィンは、脳内麻薬物質の一種である。脳内の神経細胞のなかで合成され、脳や骨髄の細胞の周囲にある髄液に分泌されてはたらく一種のホルモンであるという。これがモルヒネと同じような強い鎮痛作用をもっていることが明らかになり、内因性モルヒネ様物質と呼ばれている。内因性というのは、外からあたえられるのではなく、体内で自然に生産されるという意味であるが、その機能も構造もモルヒネにきわめて近い。モルヒネの同じように強力な鎮痛作用と快感作用があるのだ。

 エンドルフィンには、アルファ、ベータ、ガンマなどいくつかの種類があり、そのなかでもっとも作用が強いのはベータ・エンドルフィンであった。これは多くの哺乳類においてストレス、交尾、交戦時などに分泌される。はたらきはいろいろ考えられるが、その一つは苦痛を取りのぞき楽な気分にすることである。それによって動物は、傷ついても交尾や戦いを続けることができ、生き残りを図るのに最も効率的な方法でそれに対応できるわけだ。

 ベータ・エンドルフィンを脳内に注入すると、強力な鎮痛作用を発揮するという。そこから、ストレスの加わったときの激痛をしずめるのに重要な役割をになっているものと考えらている。エンドルフィンは、快感、歓喜、穏やかな気分、そして苦痛からの解放など、臨死体験時に起きるとのそっくりの情動反応を誘発する力があるようだ。エンドルフィンは、実際に死にかけたときばかりでなく、病気やストレスなど臨死体験が起きるあらゆる状況下で分泌されると考えられるのである。

◆エンドルフィンで光の神秘性と愛を説明できるか◆

 エンドルフィン説は、確かに臨死体験に多く見られる共通の要素、「苦痛からの解放、深い安らぎ、平和の感覚」という気分の説明としてはかなり説得力があるといえよう。しかしだとすれば、大脳皮質の無秩序な興奮とエンドルフィンとを結び付け組み合わせれば、臨死体験における光との出会いもうまく説明できたということになるのだろうか。ブラックモアは、エンドルフィンが臨死体験時に起きる快感、歓喜、穏やかな気分、そして苦痛からの解放などを引き起こすという説明に満足してしまって、光が超自然的な神秘として、深い愛に満ちた人格として経験されるというもう一つの側面の説明はすっかり忘れてしまったかに見える。

 エンドルフィンによって生ずる快感反応の中で、大脳皮質の無秩序な興奮よる発火を見たからといって、その光が人格性を持ち、深い愛を発散する崇高な存在として体験されるとは限らない。ブラックモアの神経生理学的な解釈は、この点の説明をまったくしていないという意味で、かなり不十分なものだと言えるだろう。

  さて、臨死体験を脳内現象として還元主義的・神経生理学的に説明しようとする立場に対する批判として代表的なのは、ケネス・リングによるものだろう。彼は、従来の神経生理学的な説明を批判して次のように述べている。「いかなる神経学的な説明も、それが適切であるためには、コア経験という複合体に結びつくすべての現象(つまり、肉体から脱けでる状態、超正常というべき認識、トンネル現象、金色の光、声あるいは存在の問題、なくなった縁者の出現、美しい眺望など)が、どうして死に近づいたことによって起こることになるのかということを説明できなければならないということである。コア経験のある様相を説明できたことになるような神経学的解釈を提示することは、決して困難ではない――実際、易しい。しかし、その説明は単なる口先だけのものにしか見えず、普通は一つの例ではあるけれども、何もないのと同じことになる。受け入れられる神経学的解釈は、コア経験のすべての様相にわたって説明できるものでなければならない」いまわ248

  ケネス・リングは、これまでに提出されたさまざまな神経生理学的な説明が、結局はどれも部分的な説明にしかなっていないとして退けるわけである。彼の主張では、臨死体験の説明原理はそのすべての様相を一挙に説明できるものでなければならず、個々の科学的な説明ではそれは不可能だというのである。
  これに対してブラックモアは、ひとつの神経生理学的な説明原理ですべてを説明しなければならないという前提そのものを疑問視し、いくつかの科学的な説明原理の複合によって臨死体験を解釈しようとしている。 立花隆氏もその著『臨死体験』の中で、基本的には上のブラックモアと同様の立場に立ってケネス・リングを次のように批判している。
  「世のいかなる現象であれ、現象といものは、単一の原因で起きるものもあれば、複数の原因が複合して起きるものもある。後者に対して、単一の説明原理を求めても、無理というものである。複合原理で起きている現象については、その現象の様相の一つ一つを個別に説明できる個別の原理を探し求めていって最終的に全ての様相が説明できれば、それはそれで立派な説明というべきである」134

 たしかに臨死体験をいくつかの生理学的な要素を総合することによって納得のいく説明ができるなら、それに耳を傾けることは必要だろう。ケネス・リングのようにひとつの説明原理で一挙にきれいに説明できなければ納得しない、という主張にはやはり無理がある。しかし忘れてはならないのは、多くの体験者にとって臨死体験は豊かな意味に満ちた全体として体験されるということだ。神経生理学的な個々の説明をつなぎあわせることによって、この豊かな意味に満ちた全体としての体験を再構成できるのかどうかが問われなければならない。 ブラックモアは、「光」が超自然的な何ものかと深い愛を発散する生命として体験される場合が多いという事実については何も説明していない。もちろんこれに対しては、神経生理学的に説明できる感覚的な体験事実がまずあって、体験者はそれに対して無意識的・意識的な「解釈」をするのだという図式によって反論することはとりあえず可能だろう。しかし、そのような説明の仕方をするなら、同時に以下のこともあわせてしっかりと説明しなければならないことになる。

1、臨死体験によって、とくに神秘的な「光」と遭遇することによって、体験者はなぜ前向きに変化するのか。  

2、「光」との出会いと「人生回顧」が結びついて体験されることが多いのはなぜか。 そして、「人生回顧」がこれまでの生き方への深い洞察となり、その後の生き方が変化するひとつのきっかけとなるのはなぜか。  

3、ベットで治療を受けていた等の状態の患者が、その最中に「体外離脱」をしていたと報告し、しかも治療中の状態では絶対に知り得ない事実の報告をときにともなうのはなぜか 4、最後に、体外離脱やトンネル体験、「光」との出会い、「人生回顧」などが、体験者にとっては、相互に関連する意味に満ちたものとして体験されるのはなぜか。

 ブラックモアは、神経生理学的な立場からこれらの問いすべてに満足のいく説明をしているのだろうか。以下の章でじっくり検討していこう。

00/05/21追加


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