◇臨死体験・気功・瞑想  臨死体験の世界

『臨死体験・いのちと悟り』(臨死体験研究読本)


1 人生回顧はなぜ起きるのか(省略)

2 人生回顧で成長した人々(省略)


3 「人はなぜ変わるか」:還元主義的な説明

◆「自己」からの限りなき解放◆

 先に、ブラックモアの理論は、臨死体験を脳内現象として還元主義的に解釈しようとする理論としては、これまでに提出されたなかで最も包括的な理論であることを指摘した。そう言える理由のひとつは、彼女の理論が「臨死体験によって人はなぜ変化するのか」についても、科学的に説明しようとしているからである。この点についての彼女の理論仮説については、前章ではあえて触れなかった。

 臨死体験によって多くの体験者がプラスの方向に心理的な変化を起こすのは何故か。脳内現象説が、この一点を説得力をもって説明できないかぎり、結局、臨死体験を脳内現象として科学的に説明したことにはならないのである。臨死体験の他の要素をどれほど上手に説明できたにせよ、体験後の意識変容という臨死体験の大切な要素を説明できなければ、脳内現象説は不完全であり、これを承諾するわけいはいかない――これが私の基本的な立場である。
   しかも、この問題を還元主義的な立場から本格的に論じた試みは、ブラックモア以外に見当たらない。
それゆえ、「臨死体験によって人はなぜ変化するのか」についての彼女の理論を、本章でじっくりと論破するつもりである。

 さて、第二章「様々な意識変容」と第三章「宇宙意識の目ざめ」とで見てきたように臨死体験者の多くは、大きな精神的変容を遂げる。体験者自身は、その変化を様々な表現によって語る。しかし、「死への恐怖の減少」、「人生に対する態度の変化」、「生きる目的の自覚」、「愛、思いやり、寛容さの増大」、「物質的欲望から霊的・精神的関心へ」、「宇宙との一体感」等という変化は、混然一体となって、かなり共通性の高い一つの傾向を示していた。

 その傾向は、すでに指摘したように自分の狭く固定した殻に閉じこもってしまう防衛的・逃避的な態度とは正反対の方向への解放という傾向である。それは、自己が限りなく柔軟になり、受容性を増していくという傾向、より開かれた方向へ成長していくという傾向であった。狭く固定した自分という殻に閉じこもるのではなく、周囲のあらゆる人々や事物に心を開いて、すべてをあるがままに受け入れるようになる傾向であった。臨死体験者の多くは、自分の周囲のあらゆる人々や生物、事物に心を開き、それらをあるがままに受け入れ、愛し、慈しみ、それらとの一体感を感じるようになる傾向がある。
 

 そして、こうした傾向がもっともはっきりとした形で体験されるのが「宇宙との一体感」と表現されるような一種の至高体験であった。 ここで再び強調すべき大切なことは、「宇宙との一体感」と自己への執着や欲望からの解放とは、おそらく同じひとつの事実の裏表だということだ。
 
  例えばこれまでに何度も触れてきた鈴木秀子氏は、その「臨死体験」の最中に「花びらが散るごとに、自分が一つひとつの苦しみから解放されて、自由になっていく」のを味わったという。「人に気を遣ったり、人が言うことに煩わされなくてすむ」という限りない解放感、「見ている自分と見られている自分が一つに」なるという限りない「自己一致」。つまり自分をよく見せたいという欲望からの解放、自己への執着からの自由。ありのままの自分の受容。自分ばかりが可愛くて、自己と世界との間に垣根をめぐらして自分を守っている限り、「宇宙との一体感」を感じられるはずがないのである。「自己」という堅い殻からの限りなき解放、そして最終的には「自己」という殻の崩壊、それが臨死体験者がさし示している成長の方向である。

◆「自己」とは何か◆

 実を言えば、「臨死体験によって人はなぜ成長するのか」についてのブラックモアの理論も、「自己」モデルの崩壊ということを基本にした説である。しかし、彼女の説は、人間が心理的に成長するとはどういうことか、という点についての理解を欠いているため、ある致命的な間違いを犯しているのである。まずは、彼女の説を簡単に紹介しよう。

 まず彼女は、「自己は心的モデル以上でもなければそれ以下でもない、つまり脳の構築物である」ブラックモア306と主張する。これについては筆者も完全に同意する。そしてこれは、「悟り体験とは何か」を説明する上でも基本になる考え方である。ただ「自己は心的モデルにすぎない」という主張は、こうした思考法に慣れていないと分かりにくいかも知れない。そこでまず具体的な事例を用いながらこの点について説明したい。

 俳優の根津甚八が、かつて『徹子の部屋』というトーク番組でこんなことを語っていた。彼がまだ幼かったある日、印象深い不思議な心理的体験をしたという。彼は砂場で夢中で遊んでいた。そのとき何故か「自分は自分であって、他の人間とは違う」ということが実感として分かってしまった。その瞬間、自分の周囲の世界がすーっと自分から遠のいていくような感覚にとらわれた。それ以来今に至るまでずっと、あの幼き頃のように本当に純粋に我を忘れて何かに熱中することができなくなってしまった。そして彼が演劇の中で探し求めているものは、あの幼き日の何もかも忘れた純粋な没入感かも知れないという。

 根津甚八のようなはっきりとした自覚はないにしても、この文章を読んでいる、おそらくはすべての人々が、子供から大人へと成長する過程で根津甚八と同じような経過をたどって来たはずだ。すなわち、「幼き頃の純粋さ」「自己意識に押さえ付けられない生き生きとしたいのち」「自己意識に曇らされない純粋な眼」──そんなものをいつか知らぬまに失うことによって我々はこうして大人になったのだ。それは、自己意識という見えない壁によって自己と世界とをへだててしまったということなのかも知れない。

 大人である我々は、たいていは「自分は自分であり、自分を取り囲む世界とは別だ」と思っている。主体としての自分はここにおり、その周囲に客体としての世界が広がっている。路傍にころがる石はあくまでも石であって、自分ではない。他者はあくまでも他者であって、自分ではない。周囲の世界や他者と自分とのあいだには、やはり目に見えない境界線がある。これが普通の感覚だろう。しかし、本当に「いつもそうだった」と言い切れるだろうか。

 たとえば、海辺を歩いていて、海の波の音、大洋のうねりの音が自分の雑念をすべてを洗い流してしまったようなとき。残っているのは、砕ける波の音、涼しげな微風、遠くから聞こえる海鳥の鳴き声だけ。自分がそれを聞いているという意識すらない。そんな瞬間が誰でも一度はあったのではないか。そんなとき、自分と海、自分と風との境界線は消えていた。自分が海そのもの、風そのもの、世界そのものになっていた。しかし、それはほんの一瞬の出来事であり、次の瞬間には再び自分という意識が戻ってしまう。そして、世界はすーっと自分から遠のいていく。 

 とすれば世界と自分とを分けへだててしまう「自己意識」とは何なのか。確かにそれは、乳飲み子のころの自分にはなかった、大人になってからも何かの拍子に一瞬たわむれのように消えてしまうことはあるだろう。しかし、自分と路傍の石ころ、あるいは自分と他人との区別がつかなくなってしまえば、まともな社会生活は送れないし、それはむしろ病的な心理というべきではないか。自他の区別が完全に消えてなくなるなどということは、まともな人間にはありえないのではないか。

 確かにそうかも知れない。しかし逆に「自分はこれこれこういう人間だ」という意識が固定してしまって、そうした硬直した「自己意識」を通してしか社会とかかわれなくなっているとすれば、それもまた問題だろう。そして、「まともな社会生活を送っている」と思っている我々は、多かれ少なかれ「自己」という小さな硬い殻によって「真の自己」をがんじがらめにしばりつけてしまっているかも知れない。 

 人は誰しも、自分自身について何かしらのイメージをもっている、自己についての観念をもっている。「私は、まともな人間だ」というのもそうした自己イメージのひとつであろう。そのほか「自分は小心だ」「こつこつやるタイプだ」「数学が苦手だ」等々、自分の性格や特質について言葉であれこれに規定している。そんなふうにして意識された「自己概念」が統合されて、自分はだいたいにおいてこんな人間だという全体像が各自の頭のなかに漠然とできあがっている。これが、人間性心理学の創始者の一人、C.ロジャーズなどによって広められた心理学用語としての「自己」である。

 「自己概念」は、つねに世間や他人との比較のうえに成立している。そして、他人と比較して自分をどう評価しているかという価値意識と結びついている。たとえば、「自分は小心だ」という意識は、「気が強い人、気が大きい人」は素晴らしいという価値判断と「それに比べると自分は気が弱くてだめだ」という自己評価とをともなうことが多いだろう。「男」「夫」「父親」「部長」等といった社会的役割にもほとんどの場合、価値評価をともなった様々な「自己概念」が結び付いている。たとえば、「自分は、めめしい男だ(男らしい男でありたい)」「部下に信頼される部長だ(軽蔑される上司でありたくない)」等々。

 こうしてそれぞれの「自己」は、「世間一般」が期待する様々な社会的役割を基礎として、その期待や要求にうまく応えられたり応えられなかったりしながら、それでもその要求に対応する「自己」として形成される。結局人は、この世に生まれ落ちたときから、世間にあわせ、世間との関係において外的に規定されたものとしての「自己」を生き始めるのである。その意味で「自己」は、社会構造に密着して成立する。

 特定の社会のなかで、特定の地位と役割を持ったものとして「自己」が限定されると、その社会が存続する限り「自己」は一定の安定を得る。「自己」は、その社会に支配的な価値規範を自らのうちにとりこみ、それとの関係のなかであれこれに自身を評価し、規定する。「私は有能な部長である」という自己概念にしても「私はだめな夫である」という自己概念にしても、その社会に特有な価値規範の関係においてそう規定されるのである。それゆえ我々は、現代の日本人として生まれたというよりは、現代の日本人に加工されて生きているといってよいのかも知れない。

 ところで、多かれ少なかれ加工された「自己」を生きている我々は、その代償として「自己」からはみ出してしまう自分の一切を切り捨ててしまっているのでないか。我々の中に隠されている本来の命の可能性(「真実の自己」)は、「自己」という、規格品のような小さなガラス・ケースには、もともと収まり切れないものであるはずだ。そのように「自己」からはみ出してしまう一切のことを、精神分析学や深層心理学では「無意識」とか「潜在意識」という呼び名で呼んだのである。

◆脳機能の崩壊で「自己」モデルが破壊?◆

 以上かなり長く「自己」について説明してきたが、これはブラックモアが「自己は心的モデルである」というときの「自己」とほぼ同じ意味であると言ってよい。つまり、どちらにおいても「自己」は、心理的、社会的な一個の形成物にすぎず、それはひとつのモデルとしてつねに崩壊する可能性を秘めているのである。そして「自己」に対するこうした理解の仕方自体は、完全に正しい。それどころか、「心的モデルのしての自己」理論は、「悟り」とは何かを説明する上でもきわめて大切な考え方である。

 しかしそれを踏まえて、彼女が次のような主張をするとき、われわれはこの主張をしっかりと検討し、徹底的に批判しなければならない。彼女は次のように言う。

 「臨死体験における自己について考えてみよう。自己は心的モデル以上でもなければそれ以下でもないい、つまり脳の構築物であることはすでに述べた。そして、臨死体験中は自己のモデルに何か異変が起きているのである。感覚情報の途絶や確固としたトンネルの形、側頭葉の不安定な賦活が一緒になって、日常生活における強力な存在である一貫した自己モデルを破壊しはじめる。そして自己のモデルの崩壊にともない、連続した順序ある普段の時間モデルは消失する。引き続き活動や経験はなっても、自己を中心に据えるものではない。」ブラックモア306
 「辺縁系と側頭葉の一部は、時間、空間のなかの自己という感覚の形成に関わっている。臨死体験をしているとき、これらの場所は発作の閾値を下げるエンドルフィンが溢れ、不安定な活動を起こしやすい。この他に脳のなかでは自己のモデルを破壊するようなことが起きている。情報入力の欠落によって身体像が不安定になっている。‥‥‥かくて自己のモデルは完全に壊れはじめる。もはや、それを保持し時間に順序があるという錯覚をもつ中心的自己はいない。時間が消えうせはじめる。時間のなかの自己はもはやいない。」
 「これは真の悟りである。こうした状態をもたらすのが、薬物の使用であれ、側頭葉の発作であれ、長年の瞑想であれ、断食や祈りであれ、死にかけたことであれ、これはもともとん自己は存在しないのだという悟りである。この悟りをもたらすかぎり、こうした神秘体験はみな等しく価値をもつ。それは自己のモデルを打ち壊し、幻想を打ち壊す。」ブラックモア294
 「私の結論は、臨死体験は脳の正常な機能の崩壊に伴い自己のモデルの破壊をもたらす、というものである。これで、人間は独立した個であるという幻想を払い去ることができる。初めから『私』なぞ存在せず、したがって死ぬ『者』もいないことが分かる。おもしろいことに、人体組織が、内に死ぬ何ものかがいるという考えを捨てると、どうも付き合いやすい人間になるようである。こうしたことが起きたとき『人が変わった』というのである。ここで死への恐怖は全くなくなる。ここに臨死体験の真の変容がある。」ブラックモア339 

  この彼女の説には、完璧に正しい部分と完璧に間違っている部分とが、ともに含まれている。完璧に正しいのは、「自己モデルの破壊によって、人間は独立した個であるという幻想を払い去り、それが真の悟りを導く」という考え方である。では、どこが完璧に間違っているのか。それは、「脳の正常な機能の崩壊に伴い自己のモデルの破壊をもたらす」という主張である。以下、彼女の説の間違っている部分が、なぜ間違っているのかを明らかにしていこう。

4 成長から悟りへ:その心理学的な説明

◆自己受容と成長◆

 われわれの日常生活を成り立たせる強力な基盤である一貫した「自己」モデルは、確かに崩壊する可能性を秘めている。しかし、その崩壊には二つの場合があることを見失ってはならない。譬えていうなら、ひよこが卵の殻を割って出てくるには機が熟さなければならないのである。あるいは、サナギが脱皮して蝶に変身するには、内側でのそれなりの準備が必要なのである。

 つまり、堅い「自己」という殻が柔軟化したり崩壊したりするのは、その内部での成長とともに起こる場合と、そうでない場合とがあるということだ。機が熟さないのに外皮が破壊されてしまえば、そこには死が待つのみである。「脳の正常な機能の崩壊」は、確かに自己モデルの混乱をもたらすかもしれないが、それは、成長や悟りへつながるかどうかの心理的必然性を何も説明していないのである。単なる「脳の正常な機能の崩壊」は、成長どころか人格の破壊をもたらす場合すらあるのだ。ブラックモアの説は、こうした微妙な問題への理解を完全に欠いている。

 先に人間性心理学の創始者の一人、C.ロジャーズなどによって広められた心理学用語としての「自己」の考え方を紹介した。われわれは、自分の性格や特質について言葉であれこれに規定して意識している。そんなふうに、自分自身についての意識やイメージや記憶、感情や価値意識が全体として一つになって、自分はおおよそこんな人間だという全体像が各自の頭のなかに漠然とできあがっている。それが心理学用語としての「自己」概念であった。

 また「自己」は、この世で人が担わなければならない様々や役割と密接に関係して形成される。「なまぐさな夫」、「やさしい父」、「有能な上司」、そして時には「慎重なドライバー」、「賢い消費者」等々。この意味で「自己」は、特定の社会や文化との関係の中ではじめて形成される社会的な形成物である。人間は、複雑な社会関係の網の目のなかのどこかに「自己」という像を結び、位置づけることによって(たとえば「私は、この会社の有能な部長だ」等々として)、その社会に承認された「人間」となる。

 そして普通われわれは、こうして位置づけられ、枠づけられた「自己」という体制を通して、それに制約されて世界を見ている。つまり「自己」は、自らの周囲に広がる世界(自らがかかわりを持つ一切の人間関係や社会関係や個々の現実)を「自己」を中心にして秩序づけ、構造化して把握する。たとえば「私は、この会社の有能な部長だ」という自己概念は、「我社は、日本でもトップレベルの将来性ある会社だ」、「日本は、世界をリードする経済大国だ」等々という現実認識とからみあい、それに支えられながら、何らかの自己評価をともなった一つの「自己意識」を成立させているだろう。

 しかし「自己」は、もともと実体のない「心理的な構築物(モデル)」であり「社会関係の編み物」に過ぎないのだから、人間が成長し機が熟すれば自然にほころんで超えられていく可能性を秘めている。それがつまり、自己モデルの崩壊なのである。「私は一流会社の有能な部長だ」というような自己概念を中心とした自己体制が意味を失い崩れ去るときは、この「自己」体制を内外から支えていた一連の現実認識も意味を失い、新たな視点からの再把握を強いられるときであろう。たとえば「一流会社の部長」という自己概念にがんじがらめになっていたときには全く見えかった現実が見えてくるときではないのか。

 さて、ロージャズは、「自己」構造と経験との関係を次のように論じている(13)。ふつう、われわれの生活のなかで起こるさまざな経験は、「自己」との関係において次のどれかに当てはめて考えることができるだろう。 

 @「自己」構造と一致するので、なんらかの「自己」との関係へ意識化され、知覚され、体制化される。

 A「自己」構造との関係が全然知覚されないので無視される。

 B「自己」構造と矛盾するので意識化を拒否されるか、歪曲されたうえで意識される。 通常「自己」は、「自己」の機能と一致しないような経験を自らのなかに取り入れることに抵抗する。

 Bで指摘されるように歪曲されて意識化されるか、無意識にとどまるかである。これは、フロイト派の人々が抑圧という概念で説明しようとする現象である。「自己」構造と一致しないどのような経験も、「自己」にとって脅威として知覚される。そんな知覚が多ければ多いほど「自己」は防衛的となり、自らの構造を破壊されまいとして「自己」をより強固に体制化しようとする。「自己概念」と矛盾する経験は、その「自己概念」の全体的なまとまりを脅かし、心理的な不安定もたらすので、それを回避するためにその経験の全体なり一部なりが否定されたり、歪められたりするのである。いずれにせよ体制化された「自己概念」が、実際に経験される知覚と一致しなくなればなるほど、緊張も強くなり、場合によっては心理的不適応に陥ることもある。

 逆に「自己」は、攻撃またはそれと同様の脅威を受けない受容的な雰囲気の人間関係のなかでは、これまで拒否していた知覚を意識化し、「自己」を統合しなおし新たな体制化をおこなうことができる。防衛をする必要がないので、より現実に根差した「自己」を形成する方向へ安心して踏み出せるのである。そのような条件を意識的につくるのが、ロージャズが創始した「来談者中心療法」等による安全感のあるセラピー関係である。そのような関係のなかでクライエント(来談者)は、これまで否定されていた脅威的な経験をはっきりと意識化し、古い「自己」構造の崩壊を許容することができるようになる。そして、これまで無視された来た経験は、再体制化された「自己」に統合される。

 そこに現れた新しい「自己」は、歪曲されない現実により深く根差し、同時に彼自身の現実の姿にはるかに近い。そんなふうに経験が「自己」に同化されればされるほど、「自己」は「自己」自身を防衛する必要がなくなり、心理的不適応や緊張から解放され、快適感が強まり、また「自己」意識はより少なくなるようだ。防衛する必要がないときには、攻撃する必要もない。攻撃したり否定的に見たりする必要がないときには、他者は、その人自身の感じ方や意味付けによって行動する現にあるがままのその人として、すなわち一人の独立した人間として経験され、受容されるようになる。
  人は自分自身にたいして受容的になればなるほど、他者にたいしても受容的になるのだ。両者は、同じひとつの事実の内と外との現れである。つまり自分のあるがままの真実の姿を素直に見、許容できるようになれば、その程度に応じて他者にたいしても、そのあるがままの真実を受け入れることができるようになる。また「自己」を取り巻く環境の一切に対しても、よりリアルな把握ができるようになる。「自己」が、防衛的にならずに現実のあるがままを受容できるということは、対象が自分自身であろうと他者であろうとその他の環境の一切であろうと変わりのない、ひとつの共通な構えの問題なのである。  

 以上からもわかるように、ロジャーズが主張する人間の心理的・人格的な成長のプロセスとは、「自己」の構造がより受容性のある柔軟なものに変化していく過程である。一言でいえばそれは自己受容の増大という変化である。それは「自己」が、真実の自分を少しずつ受容しながら自らを変容させていく過程、真実の自分自身へと帰って行く過程であり、自らを癒し成長していく過程である。別の視点から言えば、自己受容とは、自己が生命に内在する本来の〈いのちの働き〉を受容し、それと調和していく過程である。

 多くの場合に「自己」は、社会という外部からの統制力を自らの内に取り込んで、生命が本来もつはずの可能性を歪めてしまい、その力を抑圧するという他律的な働きに陥っている。たとえば「一流企業の有能な部長」という「自己」に縛りつけられることで切り捨てられてしまったものが、いかに大きいかを想像してみるとよい。そして、切り捨てられ、抑圧されてしまっていた自分の命の可能性が受容されればされるほど、つまり硬直した「自己」がより柔軟に変容すればするほど、本来の生き生きとした命やエネルギーが解放されていく。人間の心理的・人格的な成長とは、「自己」が、〈いのちの働き〉と調和し「真の自己」へと変貌していく過程であり、それが、「自己が真の自己自身になる」ということなのである。

 以上で見てきたような、人間性心理学が描く人間の心理的・人格的な成長の方向は、臨死体験者が自ら語る成長の方向と似ていないだろうか。臨死体験者の変化の共通の方向を再度まとめるならば、それは自己が限りなく柔軟になり、受容性を増していくという傾向、より開かれた方向へ成長していくという傾向であった。狭く固く防衛的になった「自己」という殻に閉じこもるのではなく、周囲のあらゆる人々や事物に心を開いて、すべてをあるがままに受け入れるようになる傾向であった。彼らの多くは、自分がかかわるすべての人々や生物、事物に心を開き、それらをあるがままに受け入れ、愛し、慈しみ、それらとの一体感を感じるようになる傾向があったのである。これはまさに、ロジャーズのいう心理的・人格的な成長の方向を同じではないか。

◆内的成長による「自己」からの解放◆

 もし、「この世」のこととして人間の心理的成長を語るなら、それは肉体的な成長と同じように連続的なプロセスである。それは、堅く閉ざされていた「自己」がより柔軟になり受容性を増していく過程である。それは、何重にも塗り固められた「自己」という表皮を一枚また一枚と脱ぎ捨てていく作業にも似ている。同時にそれは、殻の内側でひな鳥が充分に成長していくプロセスでもある。  ところで一方「自己」は、少しづつ変容するという過程をとるだけではなく、ときとして一瞬のうちに飛び散ったかのように意味をなさなくなってしまう場合があるらしい。多くの場合それは、「限界状況」(哲学者ヤスパースの言葉)に直面し、そこから目をそらすことなく、限界を限界として自覚し引き受けるときにおこるようだ。

 ある青年医師の例で説明しよう。彼は、30歳のときに、右ひざに巣くった悪性腫瘍の転移を防ぐため、右脚を切断した。が、その甲斐もなく、腫瘍は両肺に転移していた。自分の命があと数カ月しか残されていないことを医師として知ってしまったとき、彼は次のような体験をしている。  

 翌日、自分が働く病院のレントゲン室へ行き胸部写真を撮ったのですが、出来あがってきた写真を見た瞬間、覚悟はしていたものの、一瞬背中が凍りました。転移です。私の右足に発生していた肉腫の肺転移。それをさせないために切断した右足でしたが、その甲斐なく、肉腫は肺へ侵入してきたのです。‥‥いかなる治療を行っても、おそらく私は死なねばならないだろうという悲しい思いと、いや、抗癌剤か免疫療法を行ってゆけば、少しの展望は開けてくるのではないか、という一縷の望みとが交錯します。 礼を言ってレントゲン室を出るとき、私は心に決めていました。免疫療法を始めよう、この治療法なら、体力のある限り仕事を続けてゆける。治療のために仕事をやめることも、入院する必要もない。歩ける限り、自分の足で歩いていこう。そう考えていました。その夕刻。自分のアパートの駐車場に車をとめながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中が輝いてみえるのです。スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いてみえるのです。アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊くみえたのでした。(8)(事例集に掲載済み)

 悪性腫瘍が両肺に転移し、自分の命があと数カ月しかないことを知ってしまったとき彼は「限界状況」に直面したのである。もちろん彼の中には抗癌剤か免疫療法に一縷の望みを託すことによって限界状況から目をそらそうとする気持ちもはたらいた。しかし、その直後に彼は、「免疫療法を始めよう、この治療法なら、体力のある限り仕事を続けてゆける。治療のために仕事をやめることも、入院する必要もない。歩ける限り、自分の足で歩いていこう」と決意した。この決意をしたとき、すでに免疫療法は限界状況から目をそらすための手段ではなく、限界を限界として直視し、引き受けたうえで、体力のある限り患者に尽くして仕事を続けていくための手段となったのである。 

   このように限界状況を自らのものとして引き受けたとき、彼はおそらく「自己」とそれにまつわりつく束縛を超えたのである。われわれが「自己」という観念の下にひっさげている様々な執着、プライドであろうと優越感であろうと劣等感であろうと権力欲であろうと地位欲であろうと名声欲であろうと、それら一切が、自らの死を直視し引き受けた彼にとっては無意味になったのである。だから、古びて色あせた飾り物のような「自己」が崩れて去っていったのである。そしておそらく、「自己」が飛び散り、「自己」というフィルターを通して見る必要がなくなったとき、世界は輝いて見えるのである。「自己」という壁が切り崩されて、あるがままの命が躍動するとき、同時に外なる世界もあるがままの姿で光り輝くのである。忘れてはならないのは、ここには、「自己」が一瞬のうちに飛び散っても大丈夫なほどに、「自己」による防衛が必要ないほどに内的な成長があったということである。それは、限界状況から逃避せずに、限界を限界として直視して引き受けるに充分なほど成長したという意味である。

 突如として「自己」から解放される例をもう一つ挙げよう。心理学を専攻していたある女性(当時23歳)の手記の一部である。この女性のおかれた状況は、自分の命があと数カ月しかないというような絶対的な「限界状況」とは違う。しかし、とことん考え、苦しみぬいたという意味では、ある種の「限界状況」を体験しているとも言える。   

 私は、自分の性格や生き方について悩んでいた。何か確かなものをつかみたいと考 え続けていた。何日も考えているうちに頭の中は鉛がつまったように重く、まるで混 沌とした地面のそこにうずくまっているような苦しい状態に落ちこんだ。思考は停滞 し、過去も未来もなくなり日常生活のできごとも心の中にはいってこない。ただ手足 のみが動いているにすぎなかった。そんな状態が一週間も続いてただろうか。(中略) 

 ある日、周囲の現象や事物が今までとはどこか違ってみえることに気づいた。ひと つひとつの事物がなんとくっきり、あざやかにみえることか、店頭の果物や野菜まで がぴちぴちと生きている。一輪の草花もその存在を主張するように明るく輝いて私に 語りかけてくるようだ。私も共にあるそう強く感じると同時に深い感動と歓びが根底 からわきあがるのを覚え、何ものかに感謝し、叫びだしたい気持ちに襲われた。(中 略)  

 そのように一瞬一瞬に生きることの素晴らしさを実感しているうちに、同時に生き ることの限りないさびしさをも感じていることに気づいた。そのさびしさは死という ことからくるものであると直感していた。それまで頭の中で考えていた死ではなく、 私の中の中心的な何かがまさに死に直面しているようであった。将来の死に対する恐 れではなく、生を感じるその瞬間に死をも強烈に感じた。(中略)

 そして、そのことが他人をみる目を変えさせてしまっていた。どんな人をみても死 を同時にみてしまうために、哀れというか、いじらしいというか、今その人が、その 人なりに短い生を生きているというだけで愛さずにはいられなくなってしまう。現在、 共に存在しているというだけで他人にも自然のものすべてにも強い親しみを感じ、私 の心が広がっていき、それらを包みこんでしまう。そこには善も悪もなく、すべてを あるがままの姿で慈しむことができるようになっていた。

 この若い女性の手記は、さらに次のように続く。彼女はある日、窓辺の紫陽花にぼんやりと目をやっていた。そのとき、五月のさわやかな風が紫陽花の若葉をゆらした。と同時に、その葉の裏側から「まばゆい光」があふれでて、そのとき真理を悟ったという。  

 それが全貌を現したのはほん一瞬であった。だがその瞬間に私を形造っていた枠組 が飛び去るのをみた。ちょうど額縁から縁をとり去ると何も残らないように、私にも 私とよんでいたものはなくなった。今まで自分だと思っていたのは周囲の枠組という か表皮のようなものであったのだ。私の見出したものは無であり、これこそ真の自己 だと確信された。(中略)  

 私が真の自己であるとき、空気のように自由であり、どこにでも流れていき、すべ ての物や人々と融合することができた。私が樹をみると、その樹と私は光の糸でつな がれ、樹から溶け出すものと真の私が混じり合い、樹と私は一体になる。私は樹であ り樹は私であった。森羅万象が私と一体であった。真の自己は私の本質であると同時 に他の人々の本質でもあり、自然の中にも全宇宙にもみちみちていた。真の私が流れ 出していき他の人々や自然と融合するとき、いうにいわれぬ深い安らぎと歓びに浸され、その瞬間こそ永遠だと感じられた。──永遠ということも真の自己が無であると 知ったとき、初めて体験されたのだ。死により外側の仮の私はなくなるけれど、真の 自己は宇宙万物と共に永遠に存在するのだ。──私は自己をみつめていき、ついに真 の自己は無であることを実感した。今まで他人の目、評価、知識など外部からとって つけたれとものにがんじがらめになっていた外側の仮の私を知った。仮の私は真の自 己の前に何と空しいものであろう。‥‥‥ 水島恵一『自己の心理学』178〜182(事例集に掲載済み)

 この手記のなかで「私を形造っていた枠組」「仮の私」「表皮」などと呼ばれているものこそ、われわれ普通の人間が多少なりとも身につけてしまっている固定化した「自己」のことであろう。彼女は、その枠組みが瞬間に飛び去るのを見たという。その時、彼女は自分を真の自己=無と感じ、自分が森羅万象と一体であると感じた。「真の自己は私の本質であると同時に他の人々の本質でもあり、自然の中にも全宇宙にもみちみちていた」のである。これは、臨死体験者によって報告された「宇宙との一体感」とまさに同じ体験である。日常生活のなかで多かれ少なかれ固定化した「自己」が徐々に緩んで行くつく先にはこのように森羅万象と一体となる体験があるのであろう。

◆離人症と「自己」◆

 では、内的な成長を伴わずに「自己」が崩壊したときには、どうなるのか。おそらくそのもっとも典型的な例が「離人症」という症状において見られるものである。離人症は、単一の疾患ではなく、さまざまな精神病や神経症の「部分症状」としても見受けられるという。しかし、時に長期間、この症状だけが持続することがあり、そのような場合は、他の疾患の部分症状としての離人症から区別して「離人神経症」と呼ばれるという。ここで取り上げるのは、そのような「離人神経症」の場合である。

  患者は二四歳の女性で、父は皮革業者である。彼女の離人症は、一七歳の頃に学校で級友から彼女の父の職業に関する侮蔑的な言葉を聞いたときにはじまった短い心理的不安定を基盤として、ある日まるで自己暗示にかかったかのように突然にはじまったという。  

 自分というものがまるで感じられない。自分というものがなくなってしまった。自分というものがどこかに遠いところへ行ってしまった。いまここでこうやって話しているのは嘘の自分です。何をしても、自分がしているという感じがしない。感情というものがいっさいなくなってしまった。嬉しくもないし悲しくもない。私が苦しいと言っているのは苦しいという感情のことではなく、苦しみそのもののことです。私が苦しいという感じを持っているのではなくて、苦しいということがあるだけ。私のからだも、まるで自分のももでないみたい。だれかの別の人のからだつけて歩いているみだい。物や景色を見ているとき、自分がそれを見ているのではなくて、物や景色のほが私の眼の中へ飛びこんできて、私を奪ってしまう。いつも周囲の世界が私の中へ入りこんできて、自分のほうからそれをそうこうするということができない。‥‥‥音楽を聞いても、いろいろの音が耳の中へ入りこんでくるだけだし、絵を見ていても、いろいろの色や形が眼の中へ入りこんでくるだけ。何の内容もないし、何の意味も感じない。‥‥‥時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも先へ進んで行かない。てんでばらばらでつながりのない無数の今が、今、今、今、今、と無茶苦茶に出てくるでけで、何の規則もまとまりもない。私の自分というものも時間といっしょで、瞬間ごとに違った自分が、何の規則もなくてんでばらばらに出ては消えてしまうだけで、今の自分と前の自分との間に何のつながりもない。‥‥‥空間の見え方も、とてもおかしい。奥行きとか、遠さ、近さとかがなくなって、何もかも一つの平面に並んでいるみたい。高い木を見てもちっとも高いと思わない。鉄のものを見ても重そうな感じがしないし、紙きれを見ても軽そうだと思わない。‥‥‥

 彼女は、この異常な体験を語ることに非常な困難を感じたらしく、その言葉はきわめて抽象的で理解しにくいものだったという。以上は、それを医者(木村敏)が理解したかぎりにおいてまとめたものである。彼女の訴えの主なものをまとめると、「自我の喪失感、自我の隔離感、感情の喪失感、事物の非実在感、時間的経過や時間そのものの非連続感、自我の非連続感、空間の非存在感」などとなるだろう。これらの症状についてどう解釈するかについては、哲学的に難しい議論もあろうが、ひとつ明らかなのは、ここにわれわれがこれまで見てきたような「自己」概念の崩壊があることである。つまり、自らの周囲に広がる時空の世界や自らがかかわりを持つ一切の人間関係や社会関係や個々の現実を「自己」を中心にして秩序づけ、構造化して把握する、その「自己」の喪失である。

 では、先に挙げた青年医師や心理学専攻の女性の場合の「自己」からの解放と、この離人症の女性の場合の「自己」の喪失との間には、どのような違いがあるのだろうか。 この問いに直接答えることにはならないと思うが、トランスパーソナル心理学の代表的な論客、ケン・ウィルバーの理論を追いながら、この問題を考えてみよう。トランスパーソナル心理学は、1960年代に生じてきた心理学の新しい潮流で、行動主義の心理学、精神分析的心理学、人間性心理学に続く第4の心理学として位置付けられている。

 行動主義、精神分析に続く第三の勢力と見なされる人間性心理学は、いわゆる自然科学的な方法によっては人間の心は理解できないとし、行動主義のみならず精神分析をも批判するかたちで一九五〇年代の後半にアメリカに出現した。人間性心理学は、人間の心を分析的に理解することに反対し、人間を全体的に把握する必要性を強調してし、人間の自由意志や自主性を重要視する理論であった。その代表的な思想家が先に触れたロジャーズや次章で触れるマズローである。

 この人間性心理学を踏まえて、心理学の第4の勢力として出現してきたのがトランスパーソナル心理学であり、人間性における超越性あるいは霊性の認知に強調点おくという点で、これまでの心理学と大いに異なっている。この心理学の大きな特徴は、東洋思想から強い影響を受けており、仏教的な人間観とも深いところで重なる面をもつことであるが、一方で現代欧米の深層心理学・発達心理学などの基礎の上にその主張をなしたことである。ケン・ウィルバーは、それまで多くの心理学の学派が入り乱れていたところに、ある種の全体的な見取り図を提供した。その理論の中心に位置するのが意識のスペクトル理論である。

 ウィルバーは言う、「東洋は絶対的本体に至る道を幅広く探究してきたのに対し、西洋は現象心理学の科学的研究にいそしんできた。‥‥‥もし、実存、自我、影のレベルに凝り固まった西洋の研究者たちが、それで意識のすべてを究めたと思うなら、彼らにとってその思い違いは不幸なことであろう。一方、意識を徹底的に究めているにもかかわらず、東洋の研究者たちは、われわれのほとんどがとどまらざるをえない意識の諸レベルを無念なことに無視している」、それゆえ「両方を合わせると、意識の全スペクトルが形成される」と。

 彼の意識のスペクトル理論の特徴は、さまざまな宗教や心理学の理論を部分真理を語るものとしてとらえ、それぞれの部分を折衷的に足し合わせて人間のこころの階層構造的な全体像を浮かび上がらせたということである。  ここで意識のスペクトル論を詳述することはできないが、その6段階のスペクトルのレベルはおおよそ次のようなものである(17)。  

@「仮面(影)のレベル」/自分だと信じられた部分〈仮面=ペルソナ〉が本来自分のものである衝動や欲求や思考〈影=シャドー〉を抑圧している。

A「自我のレベル」/影を統合しているが、身体とは分離している。からだは自分の所有物や道具であって、自分自身ではないと感じられ、そのアイデンティティは、身体を統合せず、排除している。  

B「生物社会的帯域」/自我のレベルから実存のレベルへと統合が進む途中にあり、社会的なプログラム、つまり言語、習慣、教育、文化の習得などが含まれる帯域。  

C「実存のレベル」/アイデンティティが、自我を超えて身体にまで広がっている。統合された心身=有機体が「自己」と感じられている。しかし、この心身一如の有機体は、環境とは分離している。  

D「超個の帯域」/実存のレベルと、心と呼ばれるまったく対立のない領域との間にあり、トランスパーソナルな帯域、超個の帯域と呼ばれる。そこでは環境との分裂はあってもその境界はあいまいで、実際にはESPや共時性、超常現象さえも起こりかねない帯域。 

E「心のレベル」/人間は本来、心(Mind)と呼ばれる非常に幅広く、いかなる分離分裂も二元対立もない状態、世界ないし宇宙と一体化している状態を深層にもっている。東西の神秘思想が、たとえばブラフマン、永遠、無限、空、無、宇宙意識など、さまざまな言葉で表現した、人間と全者が一つとなった究極のレベル。

 意識のスペクトルは、電磁波のスペクトルと同じように、ある一貫した連続性をもって展開する。ここで使われている「自我」・「アイデンティティー」等々との言葉は、われわれが用いてきた「自己」という概念と置き換えても大きなずれは生じないだろう。すなわち、「自己」が、その内外の現実をどれだけ統合しているかという視点から6段階のスペクトル論が展開されているといってよいだろう。ウィルバーはいう、「基本的には成長とは自己の地平の拡張と拡大であり、外に向かっては視野、内に向かっては深みにおける境界の成長である。」(18) 

 それゆえここには「自己」をプリズムとして明らかにされたスペクトルの連続性があるともいえよう。「自己」が、現実を受容・統合する能力を限りなく拡大し、世界ないし宇宙をも包み込んでしまったとき、「自己」はその仕事を終えるという。  ところで、この階層構造の基盤には、前個的状態、個的状態(自我のレベル)、超個的状態という三つの段階がある。これまでの神秘主義では、「幼児の自他の区別のできない意識(前個的状態)」と、「成人の自我確立以後の宇宙と一体化した意識(超個的状態)」とが、同じ状態だと見なされがちであった。しかし、だとすれば宗教的な覚醒体験は一種の「幼児退行」になってしまう。「自己」超越へのプロセスを歩んでいくには、その前にまず個がしっかりと確立されていなければならない。「だれでもない者になる前に、まずだれかになるということが必要」なのである。前個的状態、個的状態、超個的状態という分類があるのは、そうした意味で個的領域が重要視されるからである。

 正しい捉え方は、プレパーソナル(前個的、自我以前)の段階から、パーソナル(個的、自我確立)へ、そしてトランス・パーソナル(超個的、自我の超越)の段階へという成長段階の把握である。それに対し、まずトランス・パーソナルの状態があって、そこからパーソナルの段階へ、そして再びトランス・パーソナルの状態へのいう捉え方をしてしまえば、それは前個的状態と超個的状態とを安易に混同してしまうことになる。ウィルバーはこれを「前−超の虚偽」として厳しく批判する。 東洋の宗教で「無心になれ、無我になれ」とよくいうが、我をもっていない人間がどうして無我になれるのか。赤ん坊には自我がないだけだが、覚者は自我に埋没しておらず、それを超えており、しかもそれを使うことができるのである。自我は、人間の発達の流れのうえでどうしても必要な一つの基点である。自我を一度健全な形で確立したうえで、そこからさらなる上位の発達段階が可能となる。

 ウィルバーは、この点を明らかにしたことによって、意識のスペクトル論を展開することが可能となった。すなわち、@自我以前から自我の確立、ないし自己実現までに焦点を当ててきた西洋の発達心理学と、A自我の超越を主張してきた東洋宗教の修行の段階論とが、全体的な視野のもとで統合されることが可能となったのである。 さて、こうしたウィルバーの理論を踏まえてここで強調したいのは、「自己」からの解放、「自己」の超越とは、内的な成長の最終的な段階に位置する出来事だということである。

 内的な成長とは、「自己の地平の拡張と拡大であり、外に向かっては視野、内に向かっては深みにおける境界の成長」なのである。それゆえ、離人症とは、充分に内的な成長を伴わずに「自己」を喪失してしまった不幸な事例だとは言えないだろうか。覚者、すなわち「自己」超越者は、われわれ普通人のように「自己」に埋没せずに、それを超えている。しかも必要に応じて現実を「自己」を通して統合的に把握し、かつそれに囚われないのだろう。離人症患者は、「自己」を喪失することによって、現実の統合的な把握を完全に見失ってしまい、「自我、時間、空間、事物などすべてに通じての現実感の喪失」に苦しむのである。

 真に「自己」から解放された者が、「真の私が流れ出していき他の人々や自然と融合するとき、いうにいわれぬ深い安らぎと歓びに浸され、その瞬間こそ永遠だと感じられた」と言うときの永遠=無時間感覚と、離人症患者が「時間がばらばらになってしまって、ちっとも先へ進んで行かない。てんでばらばらでつながりのない無数の今が、今、今、今、今、と無茶苦茶に出てくるでけで、何の規則もまとまりもない」と言うときの苦しげな無時間感覚には、何と大きな隔たりがあることだろうか。

 こうしてわれわれは、同じく「自己」崩壊といっても、それは内的な成長の段階によって、まったく違った状況を生み出すことを知った。その上でもう一度ブラックモアの主張を検討して見よう。彼女は、「臨死体験は脳の正常な機能の崩壊に伴い自己のモデルの破壊をもたらす」、そしてそれが体験者の「真の変容」を説明する、と主張したのである。彼女は、どんな理由にせよ「自己のモデルの破壊」が起こりさせすれば、すぐさま「真の変容」が生ずると言っているかのようだ。しかし、「脳の正常な機能の崩壊」は、いかなる内的な成長とも無関係であり、もしかしたらそれは成長を阻害する要因にすらなるかも知れないのである。


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