◇臨死体験・気功・瞑想  臨死体験の世界

『臨死体験・いのちと悟り』 (臨死体験研究読本)

 第7章 悟りと臨死体験

 1「自己」超越としての覚醒体験
◆禅の僧侶の悟り「無限の光りが私の内に輝いていた」     
◆念仏者の悟り「自分の外が内に見える」     
◆武道家の悟り「日月星辰はことごとく我がもの」
◆限界状況と悟り「架空の観念を握りしめていた」     
◆大いなる命に目覚める

以下を公開

2 臨死体験の中の自己超越   
◆宇宙との一体感とすべては一つ  
◆あるがままを愛し、受け入れる  

3 マズローの「自己実現」と「至高体験」
◆完全に発展を遂げた人間の研究
◆「これまで花を見ていなかった」
◆架空の観念を握りしめていた
◆喜びと驚きと感謝の念に満たされる

本文中のアラビア数字は、参考図書一覧の通し番号に対応しています。

 

 

2 臨死体験の中の自己超越

◆宇宙との一体感とすべては一つ◆  

 もう多くの読者がお気づきと思われるが、臨死体験者の意識変容のなかには、いわゆる「悟り」とまったく同質の変化が含まれる場合があるようだ。それは、どのような点だろうか。列挙すれば、

@「宇宙との一体感(森羅万象との合一感)」、
A「宇宙の全存在が一つにつながっているという感覚(世界の全一性)」、
B「あるがままを愛し、受け入れる能力の実感」、
C「光体験」
という四つの観点から両者を比較することによって、その共通点がいっそう明らかになると思う。 このうち最初の二つ、@「宇宙との一体感」、A「宇宙の全存在が一つにつながっているという感覚(世界の全一性)」という感覚については、臨死体験者についても第三章で詳しく見たし、宗教的な覚醒体験の場合についてもいくつかの事例を通して見てきたので、その共通性はすでにあきらかだろう。簡単に復習しよう。

 たとえばすでに第一章から何度かとりあげた鈴木秀子氏の次のような言葉を、これまでに見た「悟り」体験の内容と比べてほしい。「稲や土、光や風、自然界のありとあらゆるもの、大宇宙のさまざまなものがすべて、素晴らしい秩序の中にあって、それぞれが一つひとつの役割を果たして調和している、そうして燃えている──。それは閃きに似た強烈な感動でした。大宇宙との一体感を、頭ではなく、からだ全体で、魂の深みで悟ったような感じでした。」 彼女のこの体験が、上にみてきたような「万物と我と一体、宇宙と我と不二」という宗教的な「悟り」の体験と深く一致することは誰もが認めるだろう。

 「自己」にとらわれる限り、「自己」にまつわりつく様々な苦悩から自由になることはできない。「自己」という厚い壁が崩れ去ったときにこそ初めて、「自己」という観念の下にひっさげていた一切から、プライドや優越感や劣等感や権力欲や地位欲や名声欲といった様々な執着から、自由になる。鈴木氏が、「……あの光に包まれる体験をしてから、まるで別次元の境地に達したかのように、私の中のすべてが変化してしまいました。それまで悩んでいたいろんなことが、とても小さく見え、いっせいに霧が晴れたように、私の人生がすがすがしく晴れ渡っていました」と語るとき、おそらく「自己」にまつわりつく様々な束縛からの解放があったのである。 第三章でとりあげた高木善之氏についても同じような変化を認めることができる。高木氏は、臨死体験でつかんだものを次のように表現する。

 光の世界では生命はすべて一つにつながっている。  しかし、生きているときも生命はすべて一つにつながっていたのだ。 固体や生物を超えて、すべてがつながっているのだ。 そしてそれらはつながって一つになっているんだ。 何とすばらしいことだろう。 生命は一つ、生命はすべてつながっているのだ。 生命はワンネス、自然はワンネスなんだ。39

 これらの表現が「宇宙のすべてが一つにつながっている(宇宙の全一性=ワンネス)」という感覚や「宇宙との一体感」を端的に表していることはいうまでもない。そしてその背後には、やはり「自己」という小さな殻を超え、小さな「自己」に執着する欲望を超える体験があると思われる。意識が戻ったあと、彼の意識、価値観には大きな変化が起こったようだ。彼の次のような言葉を読んでもらいたい。   

 意識不明から目覚めたとき、私は、自分が別人であるかのように感じた。うまく言い表せないが、意識、価値観がこれまでと異なっているのだ。  記憶喪失というのではない。記憶や知識は失われていない。   外国に行くと、その国の一つひとつが新鮮で風俗習慣を不思議に感じる、そんな感覚なのだ。次々と発見や驚きがあった。  どうしてみんな競争し、大急ぎで生きているのだろう。どうしてみんな、人よりたくさんのお金や財産を求めているのだろう。どうして一生を、そんなことに使うのだろう。限りある地球で、それは不可能で、必ず戦いが起こるのに。それを続ける限り、地球が破綻して、みんな死んでしまうのに。まるで自殺を決意し、それに向かって疾走しているようだ。自分の星を破壊することに、どうしてこれほどの情熱を燃やせるのだろう。これは集団催眠なのか、集団自殺なのか。なぜ、こんな強迫観念を誰もが不思議に思わないのだろう。(中略) 自分もかつて同じだった。自分も競争していた。/競争の結果で一喜一憂していたが、心の深い部分はずっと苦しかった。/思えば教育やしつけ、社会のあらゆる仕組みが競争を強いていた。/催眠術にかけられていたような気がする。周りもみんなそうしているから、そうする他なかった。/集団催眠、悪い夢を見ていたような気がする。(中略) 今、夢から覚めた今、これからは幸せをめざして生きていこう。/幸せは、お金や出世ではなく、その反対側にあるもの。/競争しないこと、戦わないこと、なかよくすることから始まる。(原文は、/で改行=筆者注)35

 高木氏は、集団催眠か悪い夢から覚めたような気がするという。このとき高木氏は、競争にかりたてられるエゴという悪夢から目覚めたのだとはいえないだろうか。そして「自己」とは、本質的にエゴ=利己心から成り立っているのだ。現代という競争社会に適応できるように知らず知らずのうちに身につけてしまった「自己」、教育やしつけ、社会のあらゆる仕組みによっていつの間にか形成された「自己」、他者との優劣の比較や競争によって形作られた「自己」。

 人は、この世に生まれ落ちたときから、世間にあわせ、世間に期待され、要求されたものとしての「自己」を、つまり「自己」という一種の暗示を生き始めるのだ。高木氏は、臨死体験のあと、そんな集団催眠から解放されたのではないか。そして、「自己」というの暗示の力から自由になれたとき、「生命はワンネス」であり、「幸せとはワンネスを実感することなのだ。」と腹の底から悟ったのだろう。「自己がないとき、すべてが自己だ」と実感したのだろう。  

  以上でわれわれは、「宇宙との一体感(森羅万象との合一感)」、「宇宙の全存在が一つにつながっているという感覚(世界の全一性)」、という二点から臨死体験者の意識変化と悟り体験の体験内容と比較してみた。これらの事例でみるかぎり、臨死体験者の意識変化は深く悟り体験と通ずるものがあるというべきであろう。

◆あるがままを愛し、受け入れる◆

  さて、江戸時代の禅者、至道無難の歌に「我れなくて見聞覚知する人を、生き仏とはこれをいうなり」というのがある。つまり悟りとは、我執に彩られた小さな「自己」のフィルターから自由に見たり聞いたりすることだというのである。

 至道無難は次のようにもいっている。「おのれを以て、人を見るものなり、愚人の見るはおそろし。おのれに利欲あれば、人をもその心を以て見るなり。色ふかきは、色をもって見るなり。聖賢の人にあらざれば、見る事あやふし」 われわれ愚人は、利欲によって自他を比べ、劣等感や嫉妬心にとらわれて、悩み苦しみ続けるのだろう。人は、「自己」という厚い壁が崩れ去ったときにこそ初めて、他者のありのままの姿に接し、ありのままの他者を受け入れ、愛することができるのであろう。  もう一度、前章で引いた心理学専攻のある女性の手記を思い起こして欲しい。

    私が真の自己であるとき、空気のように自由であり、どこにでも流れていき、すべての物や人々と融合することができた。……私は樹であり樹は私であった。森羅万象が私と一体であった。真の自己は私の本質であると同時に他の人々の本質でもあり、自然の中にも全宇宙にもみちみちていた。真の私が流れ出していき他の人々や自然と融合するとき、いうにいわれぬ深い安らぎと歓びに浸され、その瞬間こそ永遠だと感じられた。──永遠ということも真の自己が無であると知ったとき、初めて体験されたのだ。

   この手記からも読み取れるように、「自己」と世界の垣根が超えられるとき、「自己」と他者の隔ても超えられるようだ。他者も世界の一部である以上それは当然というべきだろう。さらに自他の隔てが超えられたとき、「その瞬間こそ永遠だと感じられた」と記されている。これについては、時間という観点から臨死体験と悟り体験を比較するときに詳しく見るが、興味深い事実ではある。

 さてもちろん臨死体験者は、以上に述べたような意識の変容と類似した意識変化の報告をしている。ムーディーは、第二章で見たように多くの臨死体験者の事例から体験後に起こる意識や生活の変化をいくつかにまとめている。そのなかに「愛の大切さに気づくこと」という項目もあった。  

 すでに第二章で引用した例だが、臨死体験者のこうした方向への意識変化をみごとに語っている事例を、ここでもう一度取り上げたい。  

 病院で気がついたとき、最初に目に入ったのは一輪の花でした。私は涙を流しました。こんなことを言っても信じていただけないかもしれませんが、実はそれまで実際に花というものを見たことがなかったんです。私たちはみんな、ひとつの大きな、生きている宇宙の一部だってことを、死んでる間に教わりました。だから、人や生き物を傷つけるのは自分を傷つけることだってことがわからないとしますと、ひどい思い違いをしていることになると思います。私は今、森や花や小鳥を見て、『あれは私だ。私の一部だ』と言っています。私たちはあらゆるものとつながっているので、そういうつながりに沿って愛を送ると、幸せになるんです。75

 この体験は、表現こそ素朴だが、先の心理学を専攻した女性の体験と何と似ていることか。「私たちはあらゆるものとつながっている」という感覚は、「森羅万象と私が一体である」という「自己」超越体験とほとんど同じといってよいであろう。さらにそれは、「私たちはみんな、ひとつの大きな、生きている宇宙の一部だ」という感覚、「宇宙に存在するものはすべてがつながっている(宇宙の全一性)」という感覚に連なっている。彼はまた「私たちはあらゆるものとつながっているので、そういうつながりに沿って愛を送ると、幸せになるんです」ともいう。つまり、自分と世界が一体である、自分と他者が不二であるという「自己」超越体験は、自分と周囲の一切の存在とをつなげる愛の実感にも連なっているのだろう。

 「あるがままを愛し、受け入れる能力の実感」を語る臨死体験者の言葉を、これも第二章ですでに引いたものだが、もう一つ取り上げよう。「私は、今、いろいろな人たちを愛しています……前には私は、そういうふうに愛する能力を持っていませんでした。私は今は、非常にいろいろな人たちのいうことに耳を傾けることができます。いろいろな人たちを──ほとんどすべての人たちを──そのまま受け入れているんだと思います。私は、彼らに私のやり方を押しつけようとは思いません……そういう人びとをそのまま受け入れる能力、自分があってもらいたいと思うような彼らであるからではなく、あるがままに彼らを愛する能力──これはみんな変わったことです。」82  

 自分のなかに「あるがままに彼らを愛する能力」を発見したこの臨死体験者は、他者をまさに「我れなくて見聞覚知」することができたのだろう。彼は、その能力が「神」によって与えられたものだと感じている。


 

3 マズローの「自己実現」と「至高体験」

 さて先に、@「宇宙との一体感(森羅万象との合一感)」、A「宇宙の全存在が一つにつながっているという感覚(世界の全一性)」、B「あるがままを愛し、受け入れる能力の実感」、C「光体験」という四つの観点から臨死体験者の精神的な変容と宗教的な覚醒体験とを比較すると言った。

 ここまでで、そのうち@「宇宙との一体感」、A「世界の全一性」、B「あるがままを愛し、受け入れる能力の実感」という三つの観点を比較してきたわけだ。C「光体験」の観点については、重要な問題がふくまれるので最後に一章をさいて考えたい。ここまでのかぎりでも臨死体験者の精神的変容に、宗教的とも言ってよいような深い「自己」超越体験が含まれていることがわかるだろう。

 つぎにわたしはマズローの「自己実現」と「至高体験」の考え方から、これらの体験の意味をとらえ直してみたい。先にも言ったように、そうすることでブラックモアのメカニックな「自己モデル」崩壊理論への間接的な反論にもなるはずだからだ。

◆完全に発展を遂げた人間の研究◆ 

 前章でもふれたように、精神分析と行動主義心理学は、アメリカの心理学界の「第一と第二の勢力」をなすといわれる。マズローは、これら二つの勢力を克服することを目指し、ロジャーズとならんで「第三の勢力」としての人間性心理学を作りあげた中心人物である。さらに彼は、晩年になって自らの目覚ましい成果を超え出て「第四の勢力」としてのトランスパーソナル心理学の樹立にも積極的にかかわった。

 フロイトは、ノイローゼ患者や精神病患者の研究を基礎にし、そこから人間の心理を理解しようとした。行動主義者は、動物の研究にその大半を費やし、それをモデルにして人間行動を把握しようとした。両者とも、人間の心理をより低い次元ないしは暗い側面に還元して、そこから理解しようとした点ではかわりない。

 マズローはそうした傾向をとことん批判し、フロイト説と行動主義をともに乗り越える新しい心理学の確立を目指して、人間を見る視点を一八〇度、方向転換した。すなわち、動物や精神的な病者から出発して人間を研究するのではなく、逆に、考え得るかぎり「完全に発展を遂げた人間」、精神的に健康で成熟した人々の研究を通して人間の本質や可能性を探ろうとしたのである。

 彼によれば、人間は一般に心理的な健康に向かって成長しようとする強い内的傾向を持っている。そうした潜在的な可能性を完全に実現し、人格的に成熟し、到達しうる最高の状態へ達したと思われる人々のことを、マズローは「自己実現した人間」と呼んだ。彼は、ごく少数しか存在しないが、人間として最高の状態に到達したと思われる「自己実現人」から出発して人間の研究を進めようとしたのである。

 しかし、心理的・精神的に「最高の状態」や「完全な発展」を問おうとすれば、何が「最高の状態」で、何が「完全」であるのかという価値基準や判断の問題がつねについてまわる。そこでマズローは、客観的・分析的な心理学の方法ではなく、いわば循環的方法を採用した。  循環的方法とは何だろうか。とりあえず世間一般で通用している言葉から優れた「人間性」を意味するものを集め、その用い方や定義をつきあわせ、論理的にも事実の上でも矛盾するところがあればそれを除き、定義をしなおす。そしてその定義に適合すると思われる「自己実現した人間」のデータを集め、それによってもとの定義をもう一度検討する。

 こうして修正された定義からさらにデータを見直すという作業を繰り返す。このようにラセン階段を登るように修正を繰り返して定義を検討していくのが、循環的方法である。このプロセスをへて、最初はあいまいだった日常的な用語をますます厳密で科学的なものにするにしながら研究を深めていくのである。72

 こうしてマズローは、たとえばアインシュタイン、シュバイツァー、マルティン・ブーバー、鈴木大拙、ベンジャミン・フランクリン等の著名人を含む、多くの自己実現したと思われる人々を研究した。この研究を通してマズローが気づいたことの一つは、高度に成熟し、自己実現した人々の生活上の動機や認知のあり方が、大多数の平均的な人々の日常的なそれとはっきりとした違いを示しているということであった。71 平均的な人々の日常的な認識のあり方と区別される、自己実現人の認識のあり方を彼はB認識と呼んだ。BとはBeing(存在・生命)の略である。

 ところで、マズローがこの研究を学問的に説得力のあるものにすることが出来たのは、ごく少数の「自己実現した人間」の研究ばかりでなく、平均人の一時的な自己実現とでもいうべき「至高体験」の研究をも同時に行ったからである。  「至高体験」とは、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験のことである。それは、深い愛情の実感やエクスタシーのなかで出会う体験かも知れない。あるいは、芸術的な創造活動や素晴らしい仕事を完成させたときの充実感のなかで体験されるかも知れない。

 ともあれそれは、一人の人間の人生の最高の瞬間であると同時に、その魂のもっとも深い部分を震撼させ、その人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験でもあるといわれる。そうした体験をすすんで他人に話す人は少ないが、しかし、マズローが調査をしてみるとこうした「至高体験」を持っている人が非常に多いことに気がついたという。

 ここで大切なのは、いわゆる「平均的な人々」のきわめて多くが「至高体験」を持っており、その非日常的な体験が、「自己実現」とは何かを一時的にではあるが、ある程度は垣間見せてくれるということである。何らかの「至高体験」を持ったことがある者は誰でも、短期間にせよ「自己実現した人々」に見られるのと同じ多くの特徴を示す。つまり、しばらくの間彼らは自己実現者になるのである。

  こうしてマズローは、ごく少数の人々にしか見られない「自己実現」の姿を、多くの人々が体験する「至高体験」と重ね合わせることにより、彼の研究の意味をより一般的なものにし、その内容をより豊かなものにしたのである。

◆「これまで花を見ていなかった」◆ 

 では、「自己実現」や「至高体験」において見られるB認識とは、どのようなものだろうか。B認識は、ごくふつうの人々の日常的な認識のあり方であるD認識(D=deficiency=欠乏)と比べられて論じられる。マズローのいうB認識の特徴をいくつかまとめてみよう。71

(1)B認識において人や物は、「自己」との関係や「自己」の意図によって歪められず、「自己」自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる傾向があるという。B認識では自然がそのまま、それ自体のために存在するように見られるのだ。世界は、人間の目的のための手段の寄せ集めとして見られるのではなく、それぞれのあるがままがあるの尊厳性において実感されるのだ。

 逆にD認識においては、世界の中の物や人は「用いられるべきもの」、「恐れられるべきもの」、あるいは「自己」が世界の中で生きていくための手段の連鎖として見られる。B認識において世界は「それ自体の生命(あるがままの姿)において」見られる。

 先に触れたある臨死体験者が、「病院で気がついたとき、最初に目に入ったのは一輪の花でした。私は涙を流しました。こんなことを言っても信じていただけないかもしれませんが、実はそれまで実際に花というものを見たことがなかったんです。」と言っていた。この「それまで実際に花というものを見たことがなかった」という不思議な表現は、マズローのいうB認識とD認識の違いを念頭において考えるとよくわかるような気がする。

 つまり、この臨死体験者は、認識がD認識(手段―目的の連鎖として見る)からB認識(それ自体の尊厳性において見る)に激変したことの驚きを、「これまで花を見ていなかった」、はじめて花を見たという表現で表したのである。彼は、一輪の花を「それ自体の生命において」見直し、「なにか偉大なものを眼前にするような驚異、畏敬、尊敬、謙虚、敬服などの趣き」(マズロー)をもって接した感動を語ったのである。

(2)B認識は無我の認識であるともいえる。自己実現した人間の正常な知覚や、ふつうの人々の時折の至高体験においては、認識はどちらかといえば、「自我超越的、自己忘却的で、無我」という傾向をおびるようだ。それは「不動、非人格的、無欲、無私」とも言いかえられるだろう。それはまた、自我中心の見方から脱して、対象中心的な見方になったということである。これは、(1)で見たような違いを別の観点から表現したのだともいえる。  至道無難の歌「我れなくて見聞覚知する人を、生き仏とはこれをいうなり」というのは、まさにB認識の核心をすばりと表現しているだろうし、逆に同じ至道無難の「我ありて見聞覚知する人を、生き畜生とはこれをいうなり」というのは、まさにD認識を表現しているといってよいだろう。

 「稲や土、光や風、自然界のありとあらゆるもの、大宇宙のさまざまなものがすべて、素晴らしい秩序の中にあって、それぞれが一つひとつの役割を果たして調和している、そうして燃えている」と鈴木氏が語ったとき、世界は計算だかい「自己」の手段として価値判断されたり、比較検討されたりすることなく、そのあるがままの尊厳性において実感されていただろう。つまり「自我超越的、自己忘却的で、無我」の立場から感じとられていたのである。

(3)B認識は、ふつうの認識に比べ、受動的な性格をもつ。ふつうの認識(D認識)は、非常に能動的なプロセスである。それは観察者がおこなう一種の構成と選択によって成り立っている。観察者が見ようとするものと、見ようとしないものを選ぶのである。彼が見ようとするものを、自己の欲求やおそれや関心と結びつけて歪めて見るのである。日常わたしたちは、つねに対象に働きかけ、それを組みたて、再配列して作り上げた認識をしているのである。

 まさに「愚人の見るはおそろし」なのかも知れない。自分に利欲があれば、それを投影して人も同じようなものだと見てしまうだろうし、色情が強い人は、それを投影してすべての人を見てしまう。「聖賢の人にあらざれば、見る事あやふし」なのである。 

 それに対してB認識は、はるかに「受動的、受容的」な傾向をもつ。それは経験を前にして「謙虚で、無干渉的」であり、認識の対象を「その本然の姿にとどまらせること」である。そうした特徴をクリスナムルティは、「無選択意識」と呼び、マズローは「無欲意識」と名づけた。

◆架空の観念を握りしめていた◆

(4)B認識では、対象はまるごと一つの全体として把握されるという。B認識では、人も物も自然もふくめたこの世のすべては、「自己」の都合や目的や手段から独立した、一つの全体として、完全な一体(ワンネス)として見られやすい。その街角にたたずむ人が、あるいは道ばたの花が、そのつど宇宙のすべてであるかのように見られる。

 これに対してD認識では、「自己」のその時々の都合と必要に合わせて言葉というラベルが貼られ、そのラベルを通してしか見られない。わたしたちはふだん、この世のすべてに自分の整理の都合に合わせて言葉というラベルをぺたぺたと貼りつづけているのだ。そして、ラベルを貼ることでそれを把握できたと勘違いしている。しかし実は、ラベルの貼られた整理箱の中味については何も見ていないことが多いのだ。対象はそのまま見られるというよりも、むしろ「類の一員として、大きな範疇の一例として」見られる。

 たとえばわたしたちは、道ばたの雑草に「雑草」というラベルを貼り付けてしまえばそれで終わりでそれ以上には進まない。このようなラベル貼りによる認知をマズローは「概括」と呼んだ。しかし、雑草が咲かせた一輪の花に生命の神秘、宇宙の神秘を感じ取る人もいるかも知れないのだ。自己実現した人々は、ほとんどの人々が現実界と混同している言語化された概念、抽象、期待、信条、固定観念の世界(ラベルで整理された世界)よりも、はるかに自然の生々とした世界のうちに生きるのである。

(5)B認識にはまた、具体的であると同時に抽象的であるという特徴がある。ふつうの人々の日常的な認識は大部分は、具体的というよりむしろ抽象的という傾向をもつ。つまり日常の認識生活では多くの場合、自分の都合に合わせて分類し、図式化し、等級化し、抽象している。雑草を「雑草」として分類するのは、それ以上の必要がないからだ。園芸家は必要に応じて雑草の個々の種類まで分類するだろう。しかしそれも自分の必要からするラベル貼りにすぎない。いずれにせよわたしたちは日常、自分の必要(内面世界の構造)を投影して世界を展望しているのであり、世界の性質をありのままに認知しているわけではない。 

    それに対し自己実現的人間においては、「具体性を失わないで抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的である能力」とが同時に見出されるという。もちろん世界の個々のものや現象にラベルを貼って整理することは必要である。人間が言葉を使うということはそのようなラベル貼りをするということなのである。しかし多くの場合わたしたちは、そのラベルによる抽象を現実と取り違えてしまっている。ラベルを貼られてきれいに並んだ整理箱を見て、それが現実だと勘違いしてしまっている。

 抽象化(ラベル化)とは要するに、対象の一面を選択すること、わたしたちに役立つところとか、脅かすところなど一定の側面を言葉(ラベル)によって際立たせることである。それは日常生活に必要なことなのだが、問題はそれが固定化して生きた現実、なまの豊かな世界が見えなくなることである。B認識とは、ラベルの向こうに生き生きとした現実が同時に透けて見えることだと言ってもよいだろう。それが「具体性を失わないで抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的に見る能力」ということの意味である。  福岡正信氏の覚醒体験を思い起こしてほしい。

 そのとき思わず自分の口から出た言葉は、「この世には何もないじゃないか」ということだったんです。“ない”ということがわかったような気がしたんです。
 今まで、ある、あると思って、一生懸命に握りしめていたものが、一瞬の間になくなってしまって、実は何もないんだ、自分は架空の観念を握りしめていたにすぎなかったのだ、ということがわかったような気がしたんです。

 もう一度問おう。福岡氏が「ある、あると思って、一生懸命に握りしめていたもの」とは何だったのか。「自分は架空の観念を握りしめていたにすぎなかったのだ」というときの、「架空の観念」とは何だったのか。その根本は、おそらく「自己」という観念だろう。そして、我と汝、自と他、主体と客体、個と全体などという二分法的分類に代表される、概念的思考(ラベル貼り)の一切だろう。

 ラベルがラベルでしかないことが実感されたのである。ラベルや言葉がけっきょくは虚像だということがわかたのである。ラベルや言葉が「架空の観念」だということがわかり、「大多数の人々が現実界と混同している言語化された概念、抽象、期待、信条、固定観念の世界(ラベルの世界)よりも、はるかに自然の生々とした世界」、自己を超えた「大いなる命の世界」が見えてきたのである。そこから見るとき、一切の概念的思考は「架空の観念」としか見えないのであろう。

 ともあれ、ラベルが吹っ飛んだあとに開けた世界から振り返ると、「自分の今までのものは、一切が虚像であり、まぼろしであったのだ」と実感されるのだ。マズローの言葉で言えば、福岡氏の世界認識は、D認識からB認識へと転回したのだ。

◆喜びと驚きと感謝の念に満たされる◆

 以上のような「自己実現」や「至高体験」に見られる認識やあり方の特徴は、ロジャーズの「自己」理論を思い出しながらとらえると、いっそう理解しやすくなると思う。つまり、「自己」を強固に保持している日常的な平均人は、「自己」中心性から解放されておらず、世界は「自己」を守るために、また「自己」にとって「用いられるべきもの」や「恐れられるべきもの」などとして多かれ少なかれ歪曲されて認識されるのである。

 一方、「自己実現」や「至高体験」の状態とは、「自己」から限りなく解放された状態であり、だからこそ、その認識は「自我超越的、自己忘却的で、無我、無欲、無私、対象中心的、没価値的、没判断的」などの特徴を示すのだろう。平均人の認識は、「自己」にあわせて対象を構成したり、選択したりする能動的過程なのだが、B認識は、はるかに「受動的、受容的」な傾向をもつのである。

 B認識が、「具体的であると同時に抽象的である」とはどういうことだろうか。日常的な平均人は、言語によって「分類し、図式化し、等級化し、抽象し」たりして、「自己」に都合よく世界を切り取って見ている。一方、B認識では、言語からも「自己」からも自由に、世界や対象そのものに即して「無選択的」に具体的に見ることができる。ところで、ちょうど覚者は、「自己」に埋没しておらず、「自己」を超えておりながら、しかもそれを使うことができると前にふれた。ちょうどそれと同じように「自己」超越者は、言語に埋没しておらず、言語を超えておりながら、しかもそれを使うことができるのだ。だからこそ、その認識は必要に応じて言語的、それゆれ抽象的であることもあるが、一方でまた、言語の制約を超えて具体的でありえあるのだ。つまり「具体性を失わないで抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的である能力」とが同時に見出されるのだ。 また、「自己実現」や「至高体験」にあっては、「自己」という防御壁による世界との隔たりが超えられているため、「自己」の内外という根本的な二分法も超えられておし、それゆれそれ以外の「多くの二分法、両極性あるいは矛盾、葛藤が統一され、融合され」うるのだろう。

  以上、マズローの研究をロジャーズの「自己」理論とをごく簡単に比較しながら検討してみた。何度も触れたように、ロジャーズは「自己」という硬直化した枠組が限りなく解きほぐされて受容性を増していくところに人間の心理的成長を見ていた。だとすれば、マズローのいう「自己実現」や「至高体験」とは、「自己」が最高度に解きほぐされ、無「自己」化された状態をいうのではないだろうか。だからこそ「すべて愛し、赦し、受け容れ、賛美する」という最高度の受容性も実現されるのであろう。そしてそうした状態は、「自己実現した人々」というよりは、「自己」超越した人々と呼んだほうがふさわしいあり方を示しているのではないだろうか。

 これまでB認識の主な特徴を見てきたが、B認識のこれ以外の特徴を列挙すると次のようになる。「認識の対象にすっかり没入してしまう」、「主観的に時空を超越している」、「その情緒反応は、なにか偉大なものを眼前にするような驚異、畏敬、尊敬、謙虚、敬服などの趣きをもつ」、「多くの二分法、両極性あるいは矛盾、葛藤が統一され、融合され、超越され、解決される」、「一方で世界全体が一つの統一体として見られ、他方で世界の小一部分がしばし世界全体であるかのように見られる」、「人の行動はすべて愛し、赦し、受け容れ、賛美され、理解されて、ある意味で神のような心情をもつようになる」

 また、このような体験が人格にとってどのような意味をもつかをまとめると、「対象や世界と渾然一体と深くつながるようになり、以前には自己でなかったものとも融合する。創造者は作品と一つになり、愛する人とは一体となる」、「自己を活動や認知の責任ある能動的、創造的主体であると感じ、自由な意志と確信をもって自己の運命を開拓していく」、「自発的で表現に富み、天真爛漫に振る舞う。こだわりがなく自己を自由に表出する」、「過去や未来からも最も自由であり、経験に対して最も開かれている、つまり過去に囚われたり、現在を将来の手段と考えるのではなく、今、ここの存在として生きる」、「普通の性質の欲求や衝動を超越して、無欲、無私の立場から行動が自然に発生する」、「至高体験を体験する人は、宗教的な至福、恩寵を感じ、喜びと驚きと感謝の念に満たされる」71

 これらの特徴が、臨死体験者の体験内容の報告や体験後のありかたについての報告とどんなに類似しているかは、だれもが気づくことだろう。

 ここでもう一度、強調したいのは、ロジャーズの「自己」理論やマズローの研究、さらにはトランスパーソナル心理学の成果、そして宗教的な覚醒体験のいくつかの事例を臨死体験者の心理的変化と比較して何が明らかになったかということである。

 宗教的な覚醒体験の場合にも臨死体験の場合にも見られる「自己」からの解放、「自己」超越とは、人間の内的な成長が最高度に達した段階であるという結論であろう。「自己」超越は、ブラックモアの理論のように人間の内的成長のプロセスを度外視した機械論的な「自己モデル」崩壊理論によっては、説明できるものではないのである。脳の機能障害によって「自己モデル」が崩壊するという理論は、人間の心理的成長について何も物語ってはいないと言うことが明らかになるのである 。

00/11/26  追加


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