◇臨死体験・気功・瞑想  臨死体験の世界

『臨死体験・いのちと悟り』(臨死体験研究読本)

 

 第8章 光・仏教・日本人  

1 覚醒体験と光

◆いなずまのような「光」が横切る
◆すべての人の額が光明を放つ
◆大きな光が知的にわたしを照らし     
◆宇宙は「光」の織物だ  

2 日本人と「光」体験

◆「光」体験が少ない日本人?
◆「原始的感覚事実」を超えた神秘な「光」
◆海のような大きな力に支えられて     
◆夢で出会った「光」の懐かしさ     
◆「光」は認識機能を増大させる     
◆神様は私の最も本質的な部分     
◆臨死体験者は宗教を持たなくなる  

以下を掲載

3 仏教と臨死の「光」

◆「空」と「清く輝く心」
◆ヴィルシャナ仏と大日如来の「光」
◆阿弥陀仏の無量の「光」
◆浄土と臨死の「光」  

4 『チベットの死者の書』

◆死者を導くガイドブック
◆心の本体は純粋な「光]
◆『死者の書』を読みつづける四九日間
◆チベット仏教理論から臨死体験を見直す
◆「光」が万物の根源だとすれば  

 

本文中のアラビア数字は、参考図書一覧の通し番号に対応しています。

 

3 仏教と臨死の「光」  

 臨死体験は、その核心にある「光」体験と体験後の人格変容(悟り)において仏教とくに大乗仏教の思想と深く交わる一面をもっているのではないか。それがわたしの主張である。具体的にどのように交わるのか。そして両者に共通するものを明らかにすることによって、どのような展望が開けてくるのか、大乗仏教の思想を追いながら考えていこう。

◆「空」と「清く輝く心」◆

 大乗仏教の根本には「空」の教説がある。空の思想家たちは、その瞑想の深まりのなかで、そもそも最初から「我」という永遠不滅の実体はないということを体験的に知ったのだろう。そして、自己のせまい執われた見方を捨て、あるいは、個々の宗教のドグマや偏見を超え、さらに言葉や観念の枠組みを越え、主観・客観の対立さえ越えた世界へ踏み入る体験を得たのだろう。すべての限定的な枠組みを超え、区別・対立を超越した世界、おおいなる命の世界。そこから見れば、言語を介してなされる日常的な認識のあり方は倒錯であり、迷いなのである。

 「空」とは何かを哲学的に考え始めるとむずかしい話になってしまう。しかし体験的には、たとえば前章でみた福岡正信の「自己」超越体験の報告などからそれほど遠いものではないはずだ。彼はいう、「そのとき思わず自分の口から出た言葉は、『この世には何もないじゃないか』ということだったんです。“ない”ということがわかったような気がしたんです。今まで、ある、あると思って、一生懸命に握りしめていたものが、一瞬の間になくなってしまって、実は何もないんだ、自分は架空の観念を握りしめていたにすぎなかったのだ、ということがような気がしたんです」と。

 彼が一生懸命に握りしめていた「架空の観念」の根本とは、おそらく「自己」という観念であり、我と汝、自と他、主体と客体、個と全体などという二分法的思考に代表される、概念的思考(分別知)の一切だろう。「自己」という殻をかたく保持している日常的な平均人は、「自己」中心性から解放されておらず、「自己」を守り、拡大するために夢中になっている。金、地位、名声等々………。そのため世界は、「自己」にとって「用いられるべきもの」や「恐れられるべきもの」などとして多かれ少なかれ歪められて認識されてしまう。われわれ日常的な平均人は、言葉によって分類し、図式化し、抽象したりして、「自己」に都合よく世界を切り取り、分別して見ているのだ(マズローのD認識).

 しかも自分に都合よく切り取られ歪められた世界が本当の世界だと思っている。 一方、「自己」からかぎりなく解放された人々の認識は、「自己」という防御壁による世界との隔たりが超えられているため、「自己」の内外という根本的な二分法も超えられている。その結果、それ以外のさまざまな二分法、矛盾や葛藤などが統一され、融合されるというのだ(マズロー)。またその認識は、「自我超越的、自己忘却的で、無我、無欲、無私、対象中心的、没価値的、没判断的」(同上)などの特徴を示すという(B認識)。

 「自己」超越した人々は、「大多数の人々が現実界と混同している言語化された概念、抽象、期待、信条、固定観念の世界(概念的思考=分別知の世界)よりも、はるかに自然の生々とした世界」(同上)、自己を超えた「おおいなる命の世界」に生きるのである。そこから見るとき、一切を自分に都合よく区分け・分類してそれを実在と思い込む概念的思考は「架空の観念」=「空」としか見えないのだ。仏教の「空」の哲学は、おそらくこうした体験的事実に根差した説なのである。 しかし『般若経』は、「空」という否定的な表現をもっと積極的な表現によっても言い表す。すべてのものは「本来完全に清浄である」、あるいは「心は本来清く輝いている」という表現である。主観と客観の対立が克服され、物と心が区別されない真実の世界では、この二つの表現は元来別ではない。自己への狭いとらわれから解放され、相対的、限定的な枠組みを超えた世界にふみ入るとは、空の「本性として光り輝く心」にとけ入り、「光明の自覚」それ自身となることである。

 そして「清く輝く心」「心の清き輝き」あるいは「光り輝く心」と表現された内的な体験は、大乗仏教の高度な哲学、心理学といわれる中観派や後期の唯識派にとってもその思想の核心として継承されていく。さらに「清く輝く心」を内的な本性としてみる傾向は、すべての人々に仏性が本来そなわっていると主張する『如来蔵思想』にまで発展していく。われわれの心の深奥には、こんこんと湧きあがる清冽な泉のような、光り輝く命の流れが秘められている。誰にも仏性はたしかに隠されており、どのような凡夫にもほとけになりうる可能性があるというのである。

◆ヴィルシャナ仏と大日如来の「光」◆

 インドでは、仏教以前から「光」を精神的な最高の真実と考える思想が流れつづけてきたという。おそらくはヨーガや瞑想の実践のなかで、またはさまざまな宗教体験のなかでまぶしく輝く光に包まれる体験が何度となく繰り返され、言い伝えられてきたのだろう。現代人による、そうした体験については、すでにいくつか紹介したとおりだ。古代から同じような体験が何度となく繰りかえされ、また語り伝えられてきて、そこから「光り輝く心」を最高の存在、真実の存在として把握する思想が生まれたのだろう。

 仏教ではこの光を自性清浄心(「本性として光り輝く心」)と呼び、それこそが真如(ものの真相、真にそうであるもの)にほかならぬとした。『大乗起信論』という経典も、この世界のすべては「眩しく輝く空なる真如の心(自性清浄心)」の現れであり、世界のすべてはその内に溶けこんでゆくと言う。 『大乗起信論』は、煩悩の中に輝くほとけの命としての如来蔵や、この世界の根源としての真如という考え方を中心にしながら大乗仏教の教えを明らかにする。その如来蔵思想は、『華厳経』にもとづく華厳思想の形成にも大きな役割を果たしたという。しかし、ひるがえって『華厳経』そのものが、実はかぎりなき光明に照らされ包まれる荘厳をきわめた世界の様相を説く経典なのである。

 『華厳経』は、釈尊が「海印三昧」という深い瞑想状態に入って開いたさとりの世界のありさまをそのままに説いた経典だといわれる。海印三昧とは、海の中に一切のものが映しだされるように、意識を統一した心の中に、すべてがあるがままに映しだされているような世界だ。

 その『華厳経』のいちばん根底に脈打つ考え方は「一即多、多即一」。すなわち微塵(チリ)のように小さな一つ一つの存在の中に大きな世界のすべてが映し出され、それら一つ一つが全体として一つの大きな世界をなす、しかもそのかぎりなき全体がひとつの珠玉のように光り輝いているという考え方である。

 「一即多」を分かりやすく説明するのは、印陀羅網の譬えだろう。印陀羅網とはインドラの網、すなわち帝釈天宮にある輝く宝の網のことである。その結び目にあって光彩を放つ珠玉が互いに映じ合い、た合った珠がさらにまた映じ合って、それが無限に続いて光明を放っている。  この無限に映じ合って光る珠玉のイメージが華厳の「重々無尽」を説明している。その印陀羅網の網のA点を持ち上げると他のあらゆる点が無限にからみあって動く。B点を持ち上げると他のすべての点が互いに関係しあって無限に動いていく。C点を持ち上げればCを中心にあらゆるものがここに関係してくる。このように「一」が「一切」につらなり、互いに無限に関係しあうのが「重々無尽」の関係である。

 この『華厳経』の中心仏は、ヴィルシャナ仏(毘盧遮那仏)である。東大寺の大仏は、この毘盧遮那仏だ。ヴィルシャナ仏とは、サンスクリットのヴァイローチャナ(Vairocana)、すなわち「光の仏」を意味し「光明遍照」とも訳される。無限の光が遍く照らしだしている、その主体としての仏であり、光明そのものである。それは永遠の仏、すなわち釈尊の悟りの本体である。釈尊は、ひとりの歴史上の人物であったが、その目ざめた世界は、釈尊という個人をはるかに包越していた。

 一切の自然にかぎりなき光明を与え、おごそかに輝かせるものは、人格の光であると同時に、永遠で無限の光でなければならない。生きとし生けるもの、そしてあらゆるものが、無限の光明に照らされている。かぎりなき世界が、かぎりなく深い光によって荘厳されている。そのかぎりなき世界の実相が、『華厳経』の内容であり、釈尊の悟りであった。しかもその悟りの内容(「光り輝く心」=ほとけの正覚)は、人間を越えた超越的な世界にあるのではなく、われわれ一人一人の中にこそ秘されているというのだ。もし人間の尊厳のもっとも深い基盤を求めるとしたらここ以外のどこにあり得るだろうか。

 ところで、毘盧遮那仏にいうヴィルシャナ、すなわちヴァイローチャナ(Vairocana)は、大日如来とも訳される。大日如来とは、真言密教の報身仏(仏の本身としての永遠不滅な法そのもの)であり、密教の最高理想である。どちらにせよ毘盧遮那仏も大日如来も原語のサンスクリットはおなじヴァイローチャナ(Vairocana)なのである。つまり毘盧遮那仏の考え方が密教化して大日如来になったといってよい。

 『華厳経』はたしかに荘厳な世界観を示した。しかしそれは多分に観念的、哲学的な性格を抜け切れず、宗教的な行を説かなかった。それゆえ行を説く大日如来が出現したという面があるという。ただし真言密教に関する諸経典の中には華厳的な論理が多く見られる。真言密教は、華厳の教えと当時のインドの密教的な要素とを取り入れながら発展ないしは変質していく中であらわれたとも言えよう。

◆阿弥陀仏の無量の「光」◆

 その後、大乗仏教のもう一つの重要な仏、阿弥陀仏ないし阿弥陀如来が出現する。その出現の地はインドではなく、西方諸国との交流の多かったシルクロードのどこかだったかも知れない。最初は大日如来の一化身として、救済のみをうけもつ機能(本願)にすぎなかったのが、しだいに独立しつつ日本に入った。阿弥陀仏を主題とする経典には、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部教があり、これらにもとづいて浄土教が成立した。阿弥陀の語源は、サンスクリット語で無量の光を意味するアミターバ(Amitabha)と無量の命を意味するアミターユス(Amitayus)に由来する。毘盧遮那仏と同様、人格神でなく法そのものの名であり、かつ光明の根源である。  『無量寿経』は次のように言う、

 「無量寿仏をは、無量光仏、無辺光仏、無礙光仏、無対光仏、焔王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏と号す。それ衆生ありてこの光に遭う者は三垢消滅して身意柔軟なり、歓喜踊躍して善心生ず」

 阿弥陀仏は、宇宙の一切であって周囲に遍満している。すなわち阿弥陀如来のあり方は、一切の自然にかぎりなき光明を与え、荘厳する毘盧遮那仏と同じであり、その後身として同じ系譜に属する。  こうして一見しただけでも仏教は、「清く輝く心」「光り輝く心」(自性清浄心)といい、「ヴァイローチャナ」(光の仏、光明遍照、大日如来)といい、アミターバ(無限の光明をもつもの、無量光)といい、その根源的な部分で「光」が重要な意味をもち、「光」の宗教と言っていいほどに「光」のイメージに満ち満ちていることがわかる。

 こうした大乗仏教の「光」の教説は、高木氏のいう「光の世界」ときわめてよく似ている。『華厳経』は、「生きとし生けるもの、そしてあらゆるものが、無限の光明に照らされている。かぎりなき世界が、かぎりなく深い光によって荘厳されている。しかもそれらが、『一即多、多即一』という仕方で結びいている」という。この世界観は、「光の世界はこの世とつながり、この世のすべてを含み、生命と自然とすべては一つにつながっている」という高木氏の見方と、とりわけ深く共鳴し合っていると言えよう。

 彼はいう、  「生命は光です。……魂は一個の独立体ではなく、光のなかに包含されているものです。すべてが一つに溶け合っているのです」、地球大予測240 「光の世界はゼロ次元。ゼロ次元はすべての次元に含まれている。光の世界はこのすべての場所、すべての時間に存在する。光の世界はこの世とつながり、この世のすべてを含んでいる」、「光の世界では生命はすべて一つにつながっている。しかし、生きているときも生命はすべて一つにつながっていたのだ。 固体や生物を超えて、すべてがつながっているのだ。」、「生命は一つ、生命はすべてつながっているのだ。 生命はワンネス、自然はワンネスなんだ。」37

 彼が体験した「光の世界」は、欧米の臨死体験者に典型的に見られる「光」の体験とはかなり違う。そこには多少とも具体性をともなった存在は何も登場しない。欧米の臨死体験に人格性を帯びた「光の生命」ないし「光の存在」が頻出するのはよく知られた事実だが、高木氏の「光の世界」は無い無いづくしの世界である。時間も空間もなく、無=ゼロ次元としかいいようのない全体意識の世界。彼の表現は、「光の世界」を根源とする宇宙観あるいは世界観といったおもむきを呈している。それだけにその体験はきわめて根源的な世界を表現しているのかも知れない。彼の体験を大乗仏教の根本にある「光」の教説と比べるとき、そこに深く共通する面があることに驚かされる。

◆浄土と臨死の「光」◆

 ところで焦点をとくに『阿弥陀経』等の浄土経典、および浄土教に移すならば、仏教の「光」の教説と臨死体験との類似はさらに別の意味で際立つ。

 なぜなら第一に、浄土経典の説く「光の世界」は、悟りの世界に関係すると同時に死後の世界にも関係するからである。浄土教とは、無限の慈悲に満ちた阿弥陀仏の光明に照らされる極楽浄土に往生し、成仏することを説く教えなのである。成仏とは、悟りを開いてブッダ(仏陀=覚者)になることであるが、浄土教ではとくにこの世の命を終えて浄土に往き生まれることでもある。ただし浄土に往生すればすぐに悟りが開けるわけではない。浄土は、悟りを達成するのに障害のない場所、仏道成就のための理想的な場所なのである。だから浄土に行けば、つねに慈悲に満ちた仏から法を聞いて仏道が進み、菩薩としての自分の本願が成就する。つまり、ブッダになるためにこそ極楽往生を願うのである。そういう願いが浄土教の思想の根底に流れている。 これは、臨死体験をした多くの人々が、かぎりない愛に満ちた「光の存在」に出会い、その光の影響によってか体験後には、まるで悟りを開いたかのように人間が変わってしまうという確たる事実と不思議なほどに類似した説である。臨死体験の世界は、まさに浄土のように光り輝き、安らぎに満ち、しかも人間を成長させる力をもっている。

 第二の類似点は、浄土教における臨終時の教えである。  平安末期の浄土宗の僧侶、源信が著した『往生要集』には次のように記されている。つまり臨終に際して、まぶしく輝く無量の光の仏である阿弥陀如来を心に念じ、その姿をありありと見ることができるならば、まさしく阿弥陀如来が死に行く者を迎えにくる、と。 以下に、わたしなりにまとめて紹介しよう。

 「大悲の光明」がかならずやって来て、あなたを照らしてくれる。その光が、臨終の者に覚悟を得させてくれる。だからこそ、このように念じなさい。どうか、阿弥陀仏様、清浄の光を放ち、わたしの心を照らして、わたしの心に覚悟を得させてください。そして極楽に往生させてください。南無阿弥陀仏と。  臨終の時に臨んで大いなる喜びが、おのずと生まれてくる。それは、弥陀如来の本願によるのである。弥陀如来は、大光明を放って姿をあらわし、その時、念仏行者は、目のあたりにこれを見て歓喜し、身心ともに安楽となり、それはまるで悟りを得たかのようである。 これも臨死体験者の「光」体験と酷似する。「光」に出会った体験者は、まさに「これを見て心中に歓喜し、身心安楽なること禅定に入るが如し」なのである。臨死体験者の報告を詳しく紹介する必要はもうないだろう。体験者の多くは、「光の主に理解され、受けいれられ、許され、完全に愛しぬかれていると感じ、心は愛に満たされ、知性は冴え、能力のすべてが最高の状態で調和していた」等々と語り、まさに歓喜と至福の体験をするのである。

 さて、臨死体験と浄土教の第三の類似点は、時空体験に関するものである。とくに浄土経典の一つである『無量寿経』に示された浄土には、不思議な時空間が広がっている。空間的にはそれは無限の国である。かぎりない光に照らされる無限の世界。そしてその無限の光に照らされることによってあらゆる差別が消えてしまうという。時間については、われわれが時計によって時を計り、その前後にしたがって万事を秩序づける世界とは違い、「同時」という秩序が支配している世界だという。森羅万象がそれぞれに自由に多様に活動し息づきながら、しかも調和と多様性を失うことがない。そんな「同時」の世界であるという。 臨死体験中の時空感覚の変化については多くの報告がある。高木氏も「全体意識には過去現在未来のすべての出来事、すべての記憶がある。ここには過去現在未来という時間の流れも無い」と言っていた。他に一・二例挙げれば、たとえば「時間の感覚は、ずっと遠いものになってました。意味がなくなっていたんです」とか、あるいは「時間と空間がなくなっていたということになるんです。これの前後関係は、全く……時間的な順序をつけられないんですから、そうだったに違いないんです」など、同様の証言が多く見られるのである。

 ここで臨死体験の世界が大乗仏教の教説と共鳴し合う部分を整理して、まとめよう。臨死体験は「死後の世界」を暗示し、その核に圧倒的な「光」体験があり、しかも体験後には大きな意識変化、時に「悟り」とも言えるほど大きな変容がある。

 一方大乗仏教では、「空」や「悟り」は「光り輝く心」と関係し、それを体現する仏は世界を遍照する「光の仏」である。同時に「光の仏」の世界は浄土(死後の世界)にもつらなるのだ。つまり、大乗仏教と臨死体験は、「死」「光」「悟り」という三つの側面において不思議に交じり合い、共鳴し合う。そして両者の中心をなすのは、かぎりなき愛に満ちた無量無辺の「光」なのである。


4 チベットの死者の書

  仏教と臨死体験の交差は、チベット仏教においてさらにあざやかに浮かび上がる。浄土教ではあいまいなままにとどまっていた「光」「悟り」「死」という三者の関係が、大乗仏教の伝統に根差しつつ、深い次元で統一されているからである。これまでわたしは、臨死体験と悟り体験を、意識変化と「光」という観点から比較検討してきた。さらに「光」という観点から大乗仏教の思想を振り返ったことで、「悟り」「光」「死」というそれぞれの現象のあいだに何らかの関係がありそうだという印象は、いっそう強まったと思う。

 しかし、般若経や華厳経は「悟り」と「光」(自性清浄心)、浄土三部経は「死」と「光」(阿弥陀仏)にそれぞれ重点が置かれており、三者がどんな関係にあるのかについて必ずしも明確ではない。また自性清浄心としての「光」と阿弥陀仏の「光」との関係もはっきりと語られているわけではない。ところがチベット仏教は、「死」「光」「悟り」という三者の関係を、また自性清浄心と阿弥陀仏との「光」の関係を、個人の魂の成長にとってどんな意味があるのかという観点から自覚的、具体的、かつ徹底的に説き聞かせる。それゆえチベット仏教は、臨死体験における「死」「光」「悟り」の関係を考えるうえでも重要なヒントを与えてくれるだろう。

◆死者を導くガイドブック◆

 仏教がチベットにもたらされたのは、八世紀ごろ、インドのナーランダ大学の僧であり密教行者でもあったパドマ・サンバヴァによってである。伝えられたその教えは、大乗仏教のもっとも展開された形態、日本では密教として知られる金剛乗仏教であった。チベットには古くから、チベット人独特の宇宙観を伝えるボン教があった。ボン教は、日本の神道のようにアニミズム(精霊崇拝)的要素が強く、一方ではまた輪廻転生する生命を信じていた。その信仰は仏教がチベットに伝わった後も根強く残り、仏教的な世界観のなかに溶け込んで、チベット仏教の独自な発展をうながしたと言われる。そのためチベット仏教は、ボン教と同じように死や輪廻転生を中心とする宗教として展開したのである。有名な『チベットの死者の書』19は、そのような背景のなかで生まれた。  

  チベットでは、『チベットの死者の書』はインドからチベットに仏教をもたらしたパドマ・サンバヴァによって著された経典だとも言われるが、経典の実際の著者については、さまざまな議論があるようだ。いずれにせよ『死者の書』は、数多く存在するチベット仏教の各宗派を超えて広く読まれ、それぞれの宗派の信仰のよりどころになっているという。 ただし、この『チベットの死者の書』と同じ目的をもつ経典は、チベット仏教の他の宗派やボン教にもあり、実際にチベットの葬送儀礼において読み聞かされる「死者の書」には、いくつかの種類があるという。

 欧米で『チベットの死者の書』として知られるこの書のチベット語原名は『バルド・トドゥル』。「バルド」とは、「中間」とか「途中」という意味をもち、ここでは人間の死から再生までの間の霊的な次元(中有、中陰)を指す。「トドゥル」は、「耳で聴いて解脱する」という意味をもつ。だから『バルド・トドゥル』とは、「中有における聴聞による大解脱」という意味になる。そこで語られるのは、「死後まもない死者は、まだ聴覚を失っておらず、そこで死者の耳をとおして語られる真理が、死の意識と生と死をめぐる、高い心理の認識に導いていくことができる」という主題であるという。52

 それゆえ『バルド・トドゥル』は、まさに死者を導く道案内の経典である。チベットでは宗派を問わず、一般に死を迎えようとする人の枕辺にラマ僧が座り、耳元で声に出して「死者の書」が読み聞かせられるのだ。そこには、死者が死後に出会うだろう光景とそれへの対処の仕方が書かれている。それによれば、死者はまず目もくらむばかりのまばゆい光明に出会う。これに勇気を持って飛び込めば、真理に融合し、解脱するという。

 しかし、もし非常な畏怖を覚える大光輝に死者の魂が恐れをなして尻込みし、もっと穏やかで色彩をもつ光の方に引き寄せられるなら、七日後にまた別の光に対面して同様の状況にたたされるという。そうしたことが七日毎に、四九日まで繰り返される。その間に光への融化がなければ、その後、死者の生前の行為、心に応じて、何かしら生きているものの胎に入って生まれ変わってしまう。それゆえ『バルド・トドゥル』は、死者が再び生まれ変わってしまう輪廻への道を避けて「根源の光明」へと向かわせるための経典なのである。

◆心の本体は純粋な「光」◆

 以上のかんたんな紹介からも分かるように、チベット仏教の根底には、生命の本質は心であり、その心の本体は純粋な「光」だという教えがある。生きている間には、肉体や心も多層的な構造をとっているため、その本質の光明はなかなか現れない。しかし死者が入っていくバルドは中間的な性質をもち、物質である身体や現世の条件にとらわれないので、心そのものの本質が光明として現れやすい。『バルド・トドゥル』は、死の直後に、この純粋な光明が誰にでも現れてくると説く。われわれの仏性は肉体のベールに包まれているが、肉体が放棄されるそのときに燦然とその姿を現す。死の瞬間とは、この「光」と出会う好機なのである。

 ソギャル・リンポチェはいう、「こうして今世で悟りの心を覆っていたものがすべて取り除かれると、心の真の在りようを妨げるものは何ひとつなくなり、雲ひとつない澄みわたった空にも似た、根源なる究極の本質が顕れる。これを『根源の光明がたちのぼる』という。ここにおいて意識そのものが、法界へ、偏在する心理の空間へ溶けこんでしまう」と。  『バルド・トドゥル』では、この瞬間のことがこう述べられている。

 息が絶えたらすぐに、導師が示したとおり、根本の光明があなたの前に現れます。それこそ生命の根源を作っているダルマタ(本質、法性)です。ダルマタとは、宇宙のように広大で空虚で、光に満ちた空間、中心も境界線もなく純粋でありのままの心のことです。あなたはその心の状態を自覚し、その中に安らぎを見いだすのです。   ところで、死の瞬間に「根源の光明」を覚って解脱に達することができるのは、誰にでも可能なことではない。「大いなる精神の覚醒」を死の瞬間に得ることができるのは、むしろ高い境地を得た修行者にかぎられるだろう。ダライラマもつぎのように言う、「死の瞬間はもっとも深遠で有益な内的体験が生じる時でもある。高い境地を得た修行者は瞑想中に死のプロセスを繰り返し、それに習熟することによって、死の瞬間に大いなる精神の覚醒を得る。だからこそ熟練した修行者は、死にぎわに瞑想行を行うのである」と。81

 しかし、それ以外の人々は普通、すでに述べたように「根源の光明」に融合するどころか恐れをなしてしまい、もっと穏やかで色彩をもつ光の方に引き寄せられる。そこで『バルド・トドゥル』はつぎのように語る、

 「ああ、善い人よ、汝の身体と心とが離ればなれになるとき、存在本来の姿(法性)の純粋な現出があるであろう。この現出は微妙であり、色彩と光に満ちている。光輝で汝の心を悩ますであろう。その本性は幻惑させ、汝をおののかせるものであ」るが、しかし「これを恐れてはならない。おののいてはならない。怒りを持ってはならない。これこそ汝自身の存在本来の姿そのものの現れであると覚るべきである。」

◆『死者の書』を読みつづける四九日間◆

 それでもこの光明と融化できないならば、僧は死者の意識を観察しながら、七日ごとに、もっとも多くて七回、つまり最長で四九日間も『バルド・トドゥル』を死者に読み聞かせ続ける。この経典は、この四九日間を、死の直後の「死の瞬間の中有」、その後二週間の「存在本来の姿(法性)の中有」、その後五週間にわたる「再生へ向かう迷いの中有」の三段階に分けている。

 「死の瞬間の中有」で「根源の光明」への融合を果たせなかった者は、「存在本来の姿(法性)の中有」へと進む。ソギャル・リンポチェによれば、この段階の中有(バルド)も、万人のなかに存在し、条件づけを超えた、本来的なものである。彼は言う、「法性のバルドがたちのぼるにあたって精神的な覚醒を得ているか否かは問題にならない。ただしそれを認識できるかどうかは精神的覚醒のいかんにかかわっている」と。 

 「存在本来の姿(法性)の中有」では、魂は生存中にもっていたような体を無意識に投影して、認識してしまう。最初は七人の仏陀がまぶしい光として現れる。意識が自らを仏陀と同一視できれば、その段階で輪廻からの解脱ができるのだが、欲望や迷いから同一視ができなければ次の段階へ進む。その段階では七人の死神が次々に出現するという。しかしチベット仏教ではそれらもすべて自分自身の意識の投影であるとされる。それは自分の魂が作りだした虚像であるから、自意識の迷いや欲望の一切が「空」であると悟れば、ここでまた解脱への道が開かれるというのだ。

 ソギャル・リンポチェによれば、この「法性のバルドの顕れ」はチベット人に特有のものではない。それは万人共通の根源的な体験である。ただその知覚のありかたは、それぞれの条件づけによる。法性のバルドの顕れは本質的になにものにも制限されることはないため、いかなる形態でもとり得る。それゆえに神々はあなたにとってもっとも馴染みぶかい姿をとるだろう。

 キリスト教の修行者には、キリストや聖母マリアの姿で現れるかもしれない。総じて仏の化身たちは衆生の救済だけを目的としている。それゆえ彼らはわたしたちにもっともふさわしい、役立つ姿をとって現れるのである。神々がいかなる姿をとって現れようとも、その根源的な本質はまったく同じであることを認識することが肝心である。81 「法性のバルドの顕れ」が、キリスト教徒にはキリスト教徒の、仏教徒には仏教徒の、それぞれに特有な形態をとるという彼の指摘は、臨死体験者が見るイメージの違いを考えるうえでも重要な指摘であるだろう。  このように死者にはさまざまな解脱の道が示されるが、たとえば死神を本物ととらえて恐れて逃れようとすると、解脱の機会を失った死者は最後の「再生へ向かう迷いの中有」へと移行してしまう。ここでも解脱のチャンスはわずかに残されているのだが、再生のときが刻一刻と近づいている。そのため、「再生へ向かう迷いの中有」での経典の目標は、輪廻からの解脱よりも、死者をよりよい状態に、たとえば教養と信仰のある家庭に再生させることに切り替えられていくという。

◆チベット仏教理論から臨死体験を見直す◆

  以上、『バルド・トドゥル』が死者の枕辺で語る教えをかんたんに紹介した。さきに、般若経や華厳経は「悟り」と「光」(自性清浄心)、浄土三部経は「死」と「光」(阿弥陀仏)にそれぞれ重点が置かれており、「死」「光」「悟り」の三者が深い次元でどう関係するのかについて必ずしも明確ではない、と言った。しかし、チベット仏教は、三者の関係を明快に語る。  まず根源的な「光」は死の瞬間だけにたちのぼるのではない。この偉大な「光明」は、生成する全存在者の根底をなし、あらゆる想念のもとになる。そしてこの「光」は、瞑想やヨーガの修行によって、自分の内面に深く分けいり、そのもっとも深い部分に触れたときにも、内なる「光」として燦然と輝きはじめる。修行者たちは、その「光」と融合することを願いつづけてきた。何度も言ったように仏教では、これを「本性として光り輝く心」(自性清浄心)と呼んでいたのである。

 しかもチベット仏教は、その「光」が、死とそれに続く期間であるバルト(中有)においても出現するという。そしてもし、死者がその「光」をそのまま宇宙意識、絶対的存在であると認めたならば、そのときにこそ真の「悟り」が、つまり解脱が達成されるというのだ。

 チベット仏教が阿弥陀仏をどうとらえているかを見れば、三者の関係はなおはっきりするだろう。阿弥陀仏信仰は中国や日本にだけではなく、チベットやヒマラヤ地域にも広まったが、チベット仏教の阿弥陀仏の理解は、きわめてはっきりしている。ソギャル・リンポチェは言う、「阿弥陀仏は人間の清浄なる本性をあらわし、人間界に蔓延している煩悩、貪りが智慧と化したものを象徴する。もっと本質的にいえば、阿弥陀仏はわたしの心の無量に輝く本性である。死の根源の光明がたちのぼった瞬間に、心の真のありようが現れる。しかしわたしたちのすべてがそれを認識できるほど親しんでいるわけではない」と。81

  つまり、阿弥陀仏とは、心の本性としての「光」であり、それが「死」に際してたちのぼった瞬間に融合できれば、真の「悟り」にいたるというのだ。 以上のようなチベット仏教の教説から臨死体験と悟り体験の関係を振り返るとき、どのような展望が開けるのか。ある現代のチベット僧(ディンゴ・キェンツェ・リポンチェ)は、「臨終体験者の光の体験は、根源の光明の顕れに似通っているだろうか?しかしそれは巨大な太陽が昇る前に、闇にさしこむ曙光を目撃するようなものではないだろうか」530という。

 つまり臨死体験は、真に死後のバルドを体験するのではなく、現世に属する体験であり、そこで見る「光」は、死後のバルドで出会う「光」にくらべ、「闇にさしこむ曙光」と「真昼の巨大な太陽」ほどの差があるというのだ。しかし、それが事実だとしても、チベット仏教の教えは、臨死体験者の意識変化と悟り体験とのあいだの類似性を考えるうえでさまざまな示唆をあたえてくれる。

  臨死体験者の多くが体験後にかなりの程度の意識変化を起こすこと、ときにそれは宗教者の覚醒体験とほとんど変わらないような人格変容ですらあること、また、臨死体験者も覚醒体験者も、しばしばまばゆい不思議な「光」を見ていること―――これらが、本章以前にわれわれが確認できた最低限の事実である。もちろん、これだけの事実すら近代科学は充分に納得のいく説明をできるわけではない。つまり、こうした事実を説明できる明快な科学的理論は、いまのところない。

  では、もしかりにチベット仏教の教えを真理であると想定して、その立場から臨死体験と悟り体験の問題を考えるとどうか。たしかにチベット仏教が主張する内容は、いわゆる「科学的な」方法によって検証できるものではない。しかしその教説は、なぜ両者に共通するものがあるのかを「光」の問題を中心にして、一つの立場から少なくとも互いに矛盾なく説明することを可能にする。

 チベット仏教では、「根源の光明」こそが全存在の根底にある真実在であり、あらゆる想念のもとであるという。それゆえ心の本体もまた純粋な「光」だと考える。その「光」は、現世での瞑想や修行によって自分の内面に深く沈潜したときにも出現するが、死後に肉体やさまざまな現世的な条件から解放されたときにも出現しやすい。そのような前提に立って考えるかぎりでは、「自己」超越者がしばしば「光」を体験し、また臨死体験者も「光」に出あうことが多いことは納得しやすい。

 両者はともに、その体験によって「本性として光り輝く心」に接したことになる。もちろん、どれだけ根源的なレベルで「光」に接し、どれだけ深いレベルで自己の本性に出会ったのか、その深さの違いによって意識変化の大きさにも違いが生ずるだろう。ともあれ、その意識変化が「悟り」とよべるほどの深さに達することもしばしばあると考えられる。

◆「光」が万物の根源だとすれば◆

 またこうした前提に立って考えると、この章の「日本人と『光』体験」のところで触れたいくつかの問題も互いに矛盾なく説明できることが多いのである。

 まず第一に、欧米の臨死体験者はしばしば「光」を神あるいはキリストなど聖なる存在として語るが、日本ではそう言う体験者はほとんどいないという点。立花氏は、これをキリスト教文化の背景があるかないかの違いだろうという。つまり「原始的感覚事実」「無機質の環境条件」がまずあって、それに対する宗教的意味づけがなされるという解釈である。

 しかし、であるなら「原始的感覚事実」としての「光」とは何なのだろうか。それは、ブラックモアがいうように、酸素欠乏症で脱抑制状態になった大脳皮質の細胞が無秩序に発するインパルスの結果でしかなく、超自然性など入りこむ余地のない現象なのだろうか。

 ところが、もしそうだとすれば「光」と出会うことによって人がなぜ変化するのかをうまく説明できない。メルヴィン・モースの研究では、臨死体験で「もっとも大きな変化を遂げているのは、光を体験した人々」であり、光の体験が深いほどその後の変化も大きいということだったが、この研究結果はどのように説明されるのか。

 チベット仏教の立場からすれば、この問に答えることは難しくない。なぜなら、体験者が出会う「光」は、「全存在の根底にある真実在としての光明」、「本性として光り輝く心」に関係するからである。臨死体験者は、接触の深さに違いはあるにせよ、ともあれその超自然的な「光」に接触するのである。それは「本性として光り輝く心」であるから、接触の深さに応じて意識の変容が起ったとしても不思議ではない。ただし、その「光」をどう意味付けするかは、体験者の文化的な背景によって左右される可能性もある。

 欧米の臨死体験者はそれを神あるいはキリストなどとして体験する傾向があるかも知れない。宗教的でない現代の日本人は、ただ超自然的な美しさをもった「光」として体験するのかも知れない。「光」をキリスト教的な神やイエスととらえるのは、たしかに特定の宗教による解釈や意味づけだろう。しかし「光」には、文化や宗教による解釈や意味付けの違いを超えて、何かしら神秘な、あるいは超自然的な性質や働きがあると仮定すれば、「光」にまつわるいくつかの疑問は解けるのである。

 たとえば、第二につぎのような問題もあった。一般的に欧米の臨死体験者が、一方で「光」をキリスト教的な人格神として解釈する傾向があり、他方、その結果としては、東洋的、インド哲学的な世界観に近づくことが多いという、二つの相反する傾向についてである。立花氏が言うように「原始的感覚事実」・「無機質の環境条件」とそれに対する解釈としての宗教的意味づけというふうに単純に図式的に分けてしまっうと、これら二の傾向を矛盾なく説明することは非常に難しくなる。無機質の光を自分でキリスト教に意味付けをしておきながら、結果としては伝統的キリスト教の教義を超えてスピリチュアルな方向へ変化するということは、非常に考えにくいことである。

 しかし、「光」をもともと超自然的な性質のもとと想定したらどうであろうか。欧米の臨死体験者がとりあえず自分が慣れ親しんだ言葉や名称で「光」を呼ぶにしても、実際はその表面的な意味づけを超えて「光」の神秘的な働きに触れ、影響されている、と考えることが可能になる。つまり東洋の修行者が瞑想の深まりのなかで体験したのと同じ根源の「光」、「本性として光り輝く心」(自性清浄心)に触れたものと想定するのである。

 その結果が、「神様は私の一部です。神様は私の最も本質的な部分です。」「存在する全てのものに、神のエッセンスが内在しているのです。それを私はいまここに実感しています。」、「神というのは、ものすごこ巨大なエネルギー源のようなものです。神は我々すべての中にいる。我々はみんな神の一部だと思います」というような普遍的な宗教心ないしはさらにインド的、東洋的見解になって現れているのではないか。

  また、日本人の臨死体験者が「光」に出会ったという報告率が少ないという「印象」についてはどうか。立花氏がいうように、キリスト教の伝統によって「光」が神と結びつけられて重要視されれば、その結果、報告率も高くなるが、一方、日本ではそういう意味づけがないからあまり重要視されず、報告率も低いということなのか。この推測は、ある程度うなずけるものである。あるいは現代の日本では、近代科学主義が蔓延し、宗教的な心性がかなり抑圧されてしまっていて、たとえ臨死体験のような場合ですら「光」の次元にまで到達することが少ない、ということなのだろうか。この点について真実がどこにあるかはわからないが、気になることではある。  

 いずれにせよ、臨死体験者をあれほどに変えてしまう「光」に、現代の科学では解明できないなにかしら神秘な部分を想定したほうが、酸素欠乏症で大脳皮質細胞が無秩序に発火したためという説よりは、この体験にともなうさまざまな現象をはるかに包括的に互いに矛盾なく説明しているというのが、わたしの結論である。  ここまで読みすすめてきていただいた読者の方々は、どのような結論をくだすだろうか。 

00/12/17  追加

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