◇臨死体験・気功・瞑想  臨死体験の世界を探求する

『臨死体験・いのちと覚り』 (臨死体験研究読本)

第9章:結び

 以下は、『臨死体験・いのちと覚り』(臨死体験研究読本)の第9章の一部です。石井
 出版社の許しを得てすでに一度その一部を公開したのですが、出版にあたっては、大幅に手をいれることになりましたので、ホームページ上では手を入る以前のものを公開することにしました。


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本文中のアラビア数字は、参考図書一覧の通し番号に対応しています。


 いよいよ最後の章にたどり着いた。この章では、これまでに語ってきたことを、ある視点からかんたんに振り返りつつ、わたしがこの本で伝えたかったことをまとめてみたい。  

 最初に、ある臨死体験者が語った夢と金貨のたとえを紹介し、そこから話を進めよう。 その臨死体験者とは、スウェーデンの麻酔医、ゴラン・グリップ。彼は、五歳のときに臨死体験をしたという。三歳になったときに弟が生まれ、しかも母は産後神経症にかかり、ひどい抑鬱症になった。彼にとってそれは大きなショックで、世界が粉々に砕けてしまったように感じた。母に無視されるようになった彼は、これは弟のせいだと思い込み、弟をいじめるようになった。機会さえあれば、弟をぶったり、つねったり、玩具を取り上げたりした。そのうち弟に意地悪することを楽しむようになった。心の底ではいけないことだとわかっていながらいじめてしまい、しかもそれを楽しんでいた。そんな子供時代の状況のなかで臨死体験をしたのである。

 その体験は、「光の存在」との出会いと、人生パノラマ回顧であった。子供の臨死体験での人生回顧は滅多に報告されないめずらしいものだ。「光の存在」は、彼が弟にした意地悪をふくめてすべてを知っていたという。それで彼は一瞬逃げようとしたが、次の瞬間には「光の存在」からたとえようもなく大きな愛があふれ出ているのに気づき、逃げる理由がなくなった。 彼の体験はすでに第六章で、本人の体験談の部分だけを紹介している。ここでもう一度その一部を抜き出そう。

  「光の存在」は、裁きを与えるようなことは一切しませんでした。ただ私に無条件の愛をそそぎつづけただけです。私は自分を弁護する必要もなければ、弟に罪をかぶせて非難する必要もありませんでした。過去をよりよいもののように見せかける必要もありませんでした。すべてはあるがままでよかったのです。良いことも悪いことも、すべてがあるがままに受け入れてもらうことができました。そして、誰も悪くはなかったのだということがわかりました。私は悪くなかった。弟も悪くなかった。母も悪くなかった。「光の存在」は、私に、「実際にお前がしたこと以外、何が可能だったか考えてごらん」といいました。彼は、「お前はこうすべきだった」とさとすようなことはいっさいいいませんでした。ただ、「他にもできることがあったかどうか考えてごらん」といっただけです。彼はモラルを強制するようなことはしませんでした。 蘇生してから、私は弟への態度を変えました。弟にやさしくふるまうようになりました。42

 彼によると、こうした体験を脳内の酸素が不足して生まれた幻覚だという考えはなっとくできるものではない。彼は、臨死体験から大切なことを学んだという。それは現実の世界を生きるうえで大いにプラスになる学びであった。である以上、臨死体験は単なる幻覚ではない。

 彼は、それをこんなたとえで説明している。夢の中で海賊の宝物を発見したとする。目がさめて何もなかったら、それは確かに夢だったのだろう。しかし、目をさましたら手の中に金貨があり、その金貨を持って買い物に行きふつうに買い物ができたとしたらどうか。それはもはやただと夢とは言えないだろう。  臨死体験も、その体験によって、ある真理をつかみ、それを実践することで生き方が充実するなら、それはもはや夢のような体験とはいえないだろう。

 ゴラン・グリップの以上のような考えに対し、立花氏は次のような反論をしている。人は小説や映画などが作り出すフィクションの世界からも、現実世界に適用できる真理を導き出すことはできる。小説や映画だけではなく、しばしば夢の世界からも現実に適用して有効な真理が導き出される。精神分析などで夢の分析をすることで、内面へのさざざまな気づきを得て、それが現実生活に有効に生かされることも少なからずあるのである。だから、体験の中でつかんだ真理が現実世界で有効あったからと言って、臨死体験の真実在性の証明にはならない。これが立花氏の反論である。

 ゴラン・グリップは、「臨死体験によってつかんだ真理」という表現をしているが、もっと一般的に言うなら臨死体験者はその体験によって多くを学び、その結果として生き方が充実し、ときに劇的ともいえる大きな人格変容を遂げる。つまり夢と金貨のたとえは、臨死体験による学びの問題だけではなく、人格変容の問題まで含めて、あるいはそこまで拡大して考えることができるだろう。つまり、臨死体験から深い真理を学んだと感じ、その後にプラスの方向に生き方を変えたとするなら、こうした学びと変化の全体から判断して、そのもととなった体験はもはや単なる夢とは言えないという考え方だ。とすると、立花氏の反論は、体験者がたとえどのように学び変化したとしても小説や映画、そして夢を見て人間が変わることもありうるのだから、それによって臨死体験の真実在性の証明とすることはできないというものに言い変えることもできるだろう。

 それはた確かにその通りである。体験者がどれほど劇的に変化しようとも、それでもって臨死体験の真実在性の証明、あるいは死後の世界の証明にはならないのである。確かなことは積極的には何も言えないのは事実である。  しかし、また逆の主張もなりたつのではないか。わたしはこれまで多くのページを費やし、さまざまな事例を紹介しながら臨死体験とは何かを考えてきた。その結果つくづく思うのは、この現象を脳の機能の混乱による一種の幻覚として片付けてしまうにはあまりに大きな謎が残るということであった。その中で最大の謎は体験者が事後になぜかくも劇的な変化をとげるのかというものだったのである。

 確かに小説や映画、あるいは夢によってさえ人は変わる場合があるだろう。しかし映画や小説、一般的な夢よって変わるかも知れない生き方と臨死体験による変化との差は歴然としている。もし仮に「映画・小説・夢によってあなたはこれまでにどうような変化をしましたか。変化の内容を具体的に挙げて見てください」といういうようなアンケートをしたとして、臨死体験者の変化と同じような結果が得られるだろうか。

 ここでもう一度、臨死体験者の変化の内容を整理して見よう。ここではリングの最新の著作 『光に学ぶ』を参考にしながらまとめる。86

@人生への評価
 ほどんどの体験者は、体験後に人生を、そして日常生活をより評価するようになる。たとえば老婆の顔の美しさ、自然の神秘な力、日常会話のないにげないユーモアなどをより評価するようになる。普通のわれわれにとってはすっかり習慣になってしまったありふれた日常のなかに大きな喜びを見いだす。人生そのものに驚異と感謝を強く感じるようになる。

A自己受容
 体験者は、自己評価と自己受容の感情を強くする。個人的な不安や羞恥、他人を喜ばせたり譲歩したりしなくてはという過度の気遣いは、自信にあふれた独立独歩の態度にとってかわられ、以前の彼らを知る人々を驚かす。

B他者への気遣い
 体験後のもっとも強烈で一貫した変化は、他者への思いやりが増大することである。他者に奉仕することは、ある体験者がいうように「この世界よりもっとリアルなこと」なのである。周囲の人々に愛を注ぐことは、光のなかで受け取ったもの一部をお返しすることである。人々に奉仕しようとする駆り立てられるような思いは、ほとんど消し難いこともある。

C生命を尊ぶ
 ほとんどの体験者にとって他者への気遣いは人間に限られず、すべての生命に及んでいる。そして生き物や自然を尊ぶ気持ちや、地球環境や生態系への関心が、多くの体験者のその後の価値観を特徴づけている。

D反物質主義
 体験後には、物質的価値を中心にした人生、物質的なものを追い求めるだけの人生は、空しくて芯が抜け落ちたような腑抜けなものに感じられる。

E反競争主義
 多くの体験者は体験後、物質的な報酬や成功のための競争をするという、社会に承認された常識的な生き方を追い求めることができなくなる。業績を残すことよりも人を手助けすることの方が、はるかに大切になるのである。

F精神性(スピリチャリティー)への指向
 興味深いことに多くの体験者は、体験後により宗教的になったとはいわず、むしろより精神的(スピリチュアル)なったという。スピリチュアルになったとは、組織としてとしの宗教、あるいは宗教の形式的な側面は彼らにとって重要でなくなり、すべての人を包み込むような、より普遍的、包括的な精神性が重要になるということだ。

G知識欲求

 多くの体験者は知識への強烈な渇きを覚えるようになる。そして多くの場合自らが、その知識を求める精神的な探求に出発する。光から学んだことにしたがって生きるということ、そのとき学んだ目的に向かって生きるということ、また、臨死体験中に植えつけられた(と彼らが信じる)知識を何とかして呼び覚ますことこそが、多くの体験者にとってまず第一の動機になるのだ。

H目的意識
 人生は意味に満ちており、すべての人生に神聖な目的があるという意識が、臨死体験者に深く根づいた確信となっている。多くの体験者は、彼ら自身の精神的なレゾンデートル(存在理由、存在根拠)を発見し人生の使命を果たしていくことが体験後の人生に与えられた任務だと感じている。

I死への恐怖
 臨死体験によって、完全かつ永久に死への恐怖が克服される傾向がある。死に逝くプロセスにともなう自然な恐怖は残るが、死それ自体の瞬間は体験者がかいま見た崇高な状態へと解放されていく変容の過程として肯定的にとらえられる。 

J死後の世界
 概して体験者は、肉体の死後にも存続する何らかの意識形態を確信するようになる。また、かなり多くの体験者が、何らかの生まれ変わりの形態について頭から否定せず開かれた態度で考えるようになる、あるいは生まれ変わりを信じるようになる。

K自殺への態度 
 臨死体験の経験者がみずから命を断つことはない。また最近の研究では、自殺未遂を何度もくりかえしてきた人たちでさえ、いったん臨死体験をするとたいてい二度と命をたとうとしないことがわかっている。ただし、自分に対しては自殺をかたく禁じる臨死体験者だが、彼らのうち何にかは自殺者に同情と悲しみを感じている。25

L神を信じる
 「神」をどんな言葉で表現するのがいちばんピッタリ来ると感じるかどうかは人それぞれであろうが、体験者は「神」が存在することを知っていると深い内的な確信をもって断言する傾向がある。その傾向は、彼らが体験以前にそれを信じていたかどうかには係わりないようである。しかし、彼らのうちの何人かは「神」という言葉のかわりに単純に「光」という言葉を使うようだ。

M「自己」超越
 上に見て来たような変化の多くが、小さな「自己」という殻を打ち破って宇宙全体へと開かれていく心の成長の方向を指し示しているのは確かなようである。事実、体験者のうち何にかは自他を隔てる壁からかぎりなく自由になって宇宙との一体となる「自己」超越あるいは悟りといってよいような体験を報告している。

Nサイキック現象
 臨死体験の事後効果には、以上のような心理的な効果のほかにたとえばサイキック現象なども含まれており、臨死体験者は非体験者に比べサイキックおよび超常的(サイ)体験をより多く経験していることを明らかにした研究もある。具体的には、ヒーリング、予知、テレパシー、透視などの体験や能力が多くなるようである。  

 以上の項目のうちのいくつかは第二章で統計的な数字も参照しながら詳しく触れたし、「自己」超越体験についてもロジャーズやマズローの心理学を参照しながら詳しく触れた。それ以外の項目についても具体的な事例や体験談のなかで頻出していたものばかりである。確認したいのは、これらのすべてがゴラン・グリップのいう「金貨」にあたると考えてよいということである。

 以上のような臨死体験者の事後変化について「脳内現象」説からはどのよう説明が可能なのだろうか。実際には満足のいく説明はほとんどなされていないのが実情だと思うが、あえて三つに整理した上で、それぞれに反論を手短かに試みておこう。

 第一に考えられるのは立花氏がゴラン・グリップの一例に対して行ったような批判だろう。体験者がたとえどのように学び変化したとしても小説や映画、そして夢や幻覚を見て人間が変わることもありうるのだから、それによって臨死体験の真実在性の証明とすることにはならない、というものである。

 この批判に対しては、では夢や幻覚がどうしてこのように一定の特徴を方向をもった変化を引き起こすのかと問い返すことだけで充分であろう。この問いを突きつけられると「脳内現象」説の研究者ははたと困ってしまい、ほとんど満足のいく答えができないのである。この問いに果敢に挑戦した唯一の例外的な研究者がスーザン・ブラックモアだったのである。

 だから臨死体験者の事後変化を説明する第二の試みは、ブラックモアの研究に見られるのだが、これについては第六章で徹底的に批判した。簡単にまとめれば、彼女は、「臨死体験は脳の正常な機能の崩壊に伴い自己のモデルの破壊をもたらす」、そしてそれが体験者の「真の変容」を説明する、と主張したのである。彼女は、どんな理由にせよ「自己のモデルの破壊」が起こりさえすれば、すぐさま「真の変容」が生ずると言っているかのようだ。しかし、「脳の正常な機能」は、いかなる内的な成長とも無関係であり、もしかしたらそれは成長を阻害する要因にすらなるかも知れないのである。つまりそれは、上に見て来たようなプラスの方向への心理的変化を何も説明したことにはならないのである。

 ところでもっと常識的に次のような説明も可能かも知れない。これは、素朴な説明だが「脳内現象」説からの第三の解釈ととらえてよいかもしれない。つまり、死に直面するような深刻な体験をすれば、誰でも多かれ少なかれ死生観が変わるだろう。またそれは肉体にも深刻な打撃を被る体験だったはずだから、そんな強烈な体験のあとで何かしら生理的な変化がおこり、ちょっとばかり超常的な体験をしたり、その方面の能力が芽生えたりしても不思議ではない、というものである。これは素朴ではあるが一見かなり説得力のある説明である。確かに生死をさまようような体験をして人生観、死生観がすっかり変化してしまう人は多いだろう。超能力にしてもありそうな感じもする。

 しかしこれについも統計的な研究は、はっきりとノーの答えを出しているのである。第一章および第二章でも触れたが、ケネス・リングは、『いまわのきわに見る死の世界』の中で事後効果」という一章をもうけ、体験後の意識変化の問題をあつかった。82 彼は、コア体験者(本格的な臨死体験者)と非コア体験者(臨死体験者とはみなされない者)とを比較し分析したのである。非コア体験者と言えども瀕死の状態から生き返ったわけであるから、そこから多くを学び、生き方や意識が変わったとしても不思議ではない。両者を比較して、なおそこに臨死体験者に特有の変化が読み取れてこそ、この体験独自の「事後効果」が確かに存在すると主張できるわけだ。

 結果はすでに確認したことなので詳細ははぶくが、重要な意識変化のすべての項目において臨死体験者の変化の方がはるかに大きかったのである。たとえば「人生に対する評価が高まった」「人生の目的が変わった」「強い人間になった」「いろいろなものに愛情を持つ要になった」「辛抱強く、協調的になった」などの項目で、はっきりと差が出ている。  一例だけ数字で再確認しよう。死への恐怖の減少という項目で見ると、コア体験者のうち「死への恐れが減った」が一八パーセント、「死を恐れない」が三一パーセント、「なんの恐れもなくなった」が一五パーセントで、あわせると八〇パーセント(四九名中三九名)になる。これに対して非コア体験者では「死への恐れが減った」、「死を恐れない」をあわせて二九パーセントであり、「なんの恐れもなくなった」とする者は一人もいなかったのである。

 同様の研究はほかにもいくつかあり、死に直面しただけでは上に見たような「金貨」は得られないことが明らかなのである。

 以上三つの説明以外に「脳内現象」説からどのような説明が可能だろうか。もしこれ以外の説明が可能であるということであれば検討してみたいのでぜひ教えていただきたい。

 ところで本書ではさらに、上のような臨死体験者の意識変化の全体をロジャーズやマズローに代表される人間性心理学の成果からとらえなおすことで、その意識変化の意味と方向性を明らかにする試みを行った。臨死体験者の変化の共通の方向を再度まとめるならば、それは自己が限りなく柔軟になり、受容性を増していくという傾向、より開かれた方向へ成長していくという傾向であった。狭く固く防衛的になった「自己」という殻に閉じこもるのではなく、周囲のあらゆる人々や事物に心を開いて、すべてをあるがままに受け入れるようになる傾向であった。彼らの多くは、自分がかかわるすべての人々や生物、事物に心を開き、それらをあるがままに受け入れ、愛し、慈しみ、それらとの一体感を感じるようになる傾向があったのである。これはまさに、ロジャーズのいう心理的・人格的な成長の方向と同じであった。人間性心理学が描く人間の心理的・人格的な成長の方向は、臨死体験者が自ら語る変化の方向とぴったりと重なるのである。

 人間性心理学が描く心理的・人格的な成長の極限には「自己」超越体験がある。この体験はトランスパーソナル心理学がさらに詳しく研究した。そして臨死体験者のなかにも、この「自己」超越体験といってよい体験をするものがな何人もいたのである。本書では、主としてマズローの研究を参照しながら人間性心理学やトランスパーソナル心理学が描く「自己」超越体験と臨死体験者のそれとの共通性を確認した。

 さらに、瞑想を実践的な基盤とする東洋の思想や宗教が「悟り」「覚醒」などと呼んできた人間の意識状態も、人間性心理学やトランスパーソナル心理学によって論じられる人間の心理的・人格的な成長の極限の状態と同じものとして理解できること明らかにした。つまり、人間性心理学やトランスパーソナル心理学の成果によって、東洋的な瞑想でいう「悟り」「覚醒」と臨死体験者の意識変容の一面とに深い共通性があることが確認されたのである。

 最後に本書では、臨死体験の核心にある「光」体験についても大乗仏教など東洋の宗教と共鳴し合う部分があることを論じた。つまり、臨死体験の「光」は東洋の修行者が瞑想の深まりのなかで体験したのと同じ根源の「光」に触れたのではないかと想定したのである。ただし「光」にまつわる謎は深い。ひとつ言えることは、人間の知的な理解を拒むかに見える、この神秘の「光」との出会いが深ければ深いほど、精神的な変容も深まるらしいということである。  臨死体験によって人はなぜこのように大きな変化を遂げるのだろうか。臨死体験や瞑想の核心で出会う「光」とは何だろうか。

 これらの謎は、脳内の酸素不足による幻覚などではとても説明できるのではない。「脳内現象」説で説明しようとしても説明仕切れい何かが残ってしまうのである。

 その事実をさまざまなな角度から明らかにしてくことが本書のテーマであった。謎を謎として残すこと、心や精神も問題も含めたこの世の一切を、物理・化学的な過程として説明し尽くせると思い込んでいる心の貧困に対して、限りなく深い精神の世界が広がっているかも知れないという可能性を残すこと、その世界を擁護すること、これが本書でめざしたことだったのである。

00/7/30 追加


 

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