ニューエイジをめぐる対話(2)

権威主義をめぐって(2)


NOBORU「権威主義的性格」で宗教改革を説明できるか
 ところで、
さきに権威主義的な関係の中での絶対服従と、宗教的な深みに達した帰依とが、一見きわめて似ていることから、いろいろな問題が起こるのではないかと述べました。フロムが、ルターの宗教改革思想を、「権威主義的性格」によって説明したとき、もしかしたら宗教的な帰依の本当の意味を見落としていたのではないかとも述べました。

 フロムによれば、ルターの神にたいする関係は、完全な服従でした。もし人が個人としての無意味さを認め、自分を徹底的にないものにして神の前に投げ出すなら、全能の神に愛され、受け入れられ、救われるであろう。不安と疑いに満ちた個人的自我を、徹底的に自己放棄してはじめて、神の栄光に参加できるであろう。自我の滅却と完全な服従が、救済の本質的条件だというのです。

 それは、国家とか「指導者(グル)」にたいし、個人の絶対的な服従を要求する原理と、多くの共通点を持つとフロムは言うのです。そこに権威主義的なサドーマゾヒズムの関係を見ているのです。 そしてルターの思想は、中世的な秩序が崩壊し、資本主義の勃興によって脅威にさらされ、無力感と個人の無意味感に打ちひしがれた中産階級の、自由からの逃避の心理にうまくマッチしたとうわけです。

 しかし宗教改革の意味をこれだけで説明してしまっていいのでしょうか。唐突ですが、たとえば道元の次のような言葉を比較しながら考えたらどうでしょうか。

 「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、力をも入れず、心をもつひやさずじて、生死をはなれ仏となる、たれの人かこころにとどこほるべき」(正法眼蔵 生死)

 ここにも自己を無にして、自分を超えた大いなるものにみずからを投げ出していくあり方が語られています。フロムは、このような言葉も「権威主義的性格」によって説明するでしょうか。 確かに、宗教改革の思想を受け入れた近世の入り口に立つ人々の心理には、自らが直面した自由や孤独から逃れて、より大きな力に服従することで安心を得ようとする傾向があったかも知れないけど、そこにはもっと深い宗教的な真理も隠されていたのではないでしょうか。 では、権威主義的な関係の中での絶対服従と、宗教的な深みに達した帰依との違いは何なのか、それを明らかにして行くことが、グルと弟子の問題を考える上でも重要なヒントを与えてくれるような気がするのです。

paratorapa
 自己を放棄するとか,投げ出してしまうということに対して西洋人は本能的な恐怖を感じるのかもしれません。自発性,主体性,自力を重んじる文化ですから,全委任というかすべてお任せという感覚には否定的な態度を持ちやすいのだと思います。ナチズムはそれを美徳としたから余計に不気味なわけです。 

  ただ,ルターの性悪説的な思想は,徹底しているようです。人間の本性は自然的不可逆的に悪であり背徳的であると。だからこそ,神による救済がなりたつわけで,神の意志にすべてを任せることの重要性を説くわけですね。それが自由の重荷から逃避する”怖いこと”だとフロムはいっているわけです。

  フロムがこれを権威主義傾向と結びつけて考えようとしたのも無理はないように思います。というのも,自分の中に潜む否定的,攻撃的な感情,性質が自分の中にではなく,他者や外界にあるように見るという”投影”作用が権威主義的パーソナリティの1つの特性であるためです。 人間や世界の本質を悪と見,それからの救済を絶対者に委任するのは,だから権威主義なのだと。

 「権威主義的な関係の中での絶対服従と、宗教的な深みに達した帰依との違いは何なのか、それを明らかにして行くことが、グルと弟子の問題を考える上でも重要なヒントを与えてくれる」という点については、 崇拝,信仰の対象が何であるかということと関連するのではないでしょうか。この点は前の書き込みで示したところです。

NOBORU戻るのか、超えるのか
 ともあれ、
一度はしっかりとした個人的な自我が確立されなければならないのでしょう。しかし、自我が単なる自我であるかぎり、それは世界や宇宙とは分離したあり方をしており、そのかぎりで根っこに不安や孤独をかかえています。 自己の根っこにある不安を癒すために二つの道があると思います。

 そのひとつが、せっかく確立しかかった自我を自分より大きく力のある指導者や組織や国家や「神」に投げ出し、それに依存・服従することで安心を得ようする方向。せっかく確立しかかった自我を捨て、来た道をもとへ戻る方向だとおもいます。フロムはこれを権威主義的性格として説明しました。

 もうひとつは、自己が成長しきることで自己を超えていく(トランスパーソナルな)方向です。

 ところがこの両者が一見きわめて似ていて、問題をややこしくしているのです。

「個人が個人としての無意味さを認め、自分を徹底的にないものにして神の前に投げ出すなら、全能の神に愛され、受け入れられ、救われるであろう。不安と疑いに満ちた個人的自我を、徹底的に自己放棄してはじめて、神の栄光に参加できるであろう。」

 このルターの思想は、上の二つの道のどちらともとれます。多くの場合は、近代に直面した不安から逃避するために信仰として受け入れられたのでしょう。 しかし、人によってはこの信仰を生き抜くことで、自我が成長の方向へと超えられ、自己を超えた(トランスパーソナルな)聖なる栄光への参与が生られたかも知れないのです。いや、キリスト教の宗教的な深みには、確かにそういう体験があるはずなのです。

 フロムは、そういう深い宗教的な体験の意味をあえて無視しているのでしょうか。

 私は「権威主義的な関係の中での絶対服従と、宗教的な深みに達した帰依との違いは何なのか」という問を立てましたが、それは「権威主義的な関係の中での絶対服従」という形で自我の確立以前(プレーパーソナル)の状態に戻ることなのか、それとも自我を成長し切らせることによって、自己を超えた(トランスーパーソナルな)「大いなる命」に目覚めて、それに帰依していくかという違いではないか、と思うのです。

 道元の「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、力をも入れず、心をもつひやさずじて、生死をはなれ仏となる、たれの人かこころにとどこほるべき」という言葉は、もちろん「大いなる命」の側から発せられた言葉でしょう。 一般的に言えは、仏教・キリスト教・その他多くの宗教のなかで、上に述べた「前」と「超」の二つのあり方が、混在しているのかも知れません。

paratorapa
 そうですね
  「権威主的な関係の中での絶対服従という形で自我の確立以前(プレーパー >ソナル)の状態に戻ることなのか、それとも自我を成長し切らせるこ >とによって、自己を超えた(トランスーパーソナルな)「大いなる >命」に目覚めて、それに帰依していくかという違い」
 これは私もよく分かります。

スピリチュアルな成長は
1.前個的意識・・・自動的,機械的反射
2.前個的意識+自我・・・自己同一性の確立(自己実現)
3.前個的意識+自我+超個的意識・・・自己超越

というように,かならず基盤となる階層を取り込みながら意識が拡張していき,全体性へと向かっていくプロセスをたどるというのが,ウィルバーらトランスパーソナルの代表的な見解です。 この数日焦点となっている,フロムの言う権威主義的パーソナリティは,外的権威から注入されたプログラムにしたがって,自動機械的,ロボット的に動く人間をさしているのであり,自我の自律的な機能が未成熟という点において前個的状態への退行であると思います。

 ここで,前にあげたトランスパーソナル学者,バティスタの言葉から引用しておくと・・・

 「真の霊性においては,霊的信念によって,人は自分の人格の防衛的あるいは不確実な構築のされ方を認識し,直面するように導かれる。真正な霊的作業の推進は人々が,自らについての偽りのイメージと概念を捨て,自らをありのまま,つまり,人間であり個性もあるが,それ以上ではないと受け入れる手助けとなるものである。霊的な生活は,身体・感情・精神・人々を超えた生活ではない。それは身体を備えた通常の生活であり,同時に通常のものを超える生活なのである。」(pp.265)

 これがわれわれが当座の目標としてめざす前個的混乱や退行ではなく,また単なる自我の確立の段階にとどまるものでもない,一歩前に進み出た状態ではないでしょうか。 私としてはいきなり遙か先の世界にぶっ飛んでしまうことよりも,まず これまでに構築してきたものを壊さずに,一歩踏み出してみるという姿勢を重視しています。吟味や検証,ときとして自らの進んでいる道に対して批判的に見るという作業も,地に足をつけた超個への道を歩む方法であると思っています。

NOBORU前個の宗教と超個の宗教
 「 いきなり遙か先の世界にぶっ飛んでしまうことよりも,まずこれまでに構築してきたものを壊さずに,一歩踏み出してみるという姿勢。吟味や検証,ときとして自らの進んでいる道に対して批判的に見るという作業も,地に足をつけた超個への道を歩む方法である」という点は、私も全くパラトラパ雅さんと同感です。

 うえに述べた 道元の言葉ですが、 ここで言う「仏のいへ」や「仏」は、自己を超えて、かつ包む「おおいなる命」。 道元の別の言葉で言えば「仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり」という時の「万法」と同じであると言ってもよいでしょう。

 ところで上の「ただわが身をも心をも、はなちわすれて‥‥」の文の「仏」のところにたとえば「阿弥陀仏」といれると、そのままこれが浄土教の教えと言ってもいいくらいです。「阿弥陀仏のいへになげいれて、阿弥陀仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき」、彼は、すでに大いなる命に目覚めているのです。

 一方自力の修行を追求するものも、ぎりぎりのところで、己の自力の思いから解き放たれて大いなるものへなげいれてこそ、その大いなるものに目覚めるのです。

 ところでヤスパースは、「人間の自力は何ら救済の功徳となるものではない。信ずるということが、すなわち阿弥陀の慈悲と救済を信ずるということが重要なのである」と親鸞の教えを紹介し、それがルター派の根本教義と同一といってよいほどに類似していることに驚きの声をあげています。(『歴史の起源と目標』)

  私がいいたいのは、神であろうと阿弥陀であろうと何かしら人格的な対象に己をなげいれていくとことにも、自己を超えて成長し、大いなる命に目覚める体験はあるということです。

 ところが自己を無にして神的な対象になげいれるという点では、ほとんどそれと区別できないような形で、自己の確立以前の依存、服従状態に陥ってしまうような信心、信仰がありうるのです。 同じ自己を無にする言っても、前個(プレ・パーソナル)と超個(トランスパーソナル)というまったく逆の状態が存在し、それらが同じ宗教の名前で呼ばれている場合が多いのです。

 グルと弟子との関係でも同じ問題があります。先に紹介したサイババ信者だった女性の言葉は、まさにグルとの退行的、依存的、服従的な関係に気づいた言葉だと思います。

paratorapa
 
神仏意識については永久不変のものであり,そこへアクセスするルート,方法論は自力,他力などいくらでもあるように思いますので,そのこと自体(霊的覚醒,大いなる命への気づきに至る道程の優劣,ランクづけ)をここで争点にするつもりはありません。 問題は自己意識が変容,拡張していくプロセスが必ずしも「意識の進化」であるとは限らない,ということです。 自己の確立以前の依存、服従状態に陥ってしまうような信心、信仰とは,どのようなものとNoboruさんはお考えなのでしょうか?

 それは1つには,指導者の意識と信者の意識の相互作用によって方向づけがなされるものではないか,と私は考えています。水が高いところから低いところへ流れるように,(気の流れもそうでしょう)指導者の意識状態が研ぎ澄まされており,高次の覚醒に近づいているほど,それに従う者の意識も自然と同調して底上げされるのかもしれません。本来的な意味での霊的導師と弟子の関係は,こうした意識の同調を基本として展開されていくのでしょう。

 第2に,信仰,信心の動機,構えという個人内の問題も考えられます。 何のために神仏にすがり,それに身を委ねる気になるのでしょうか。仏教でいう生老病死の四苦からの解放のためでしょうか。新宗教が躍進を遂げる戦略として掲げた貧病争の克服,そして現世利益のためでしょうか。あるいは先進諸国に蔓延する空虚感,実存的危機,自分探しのためでしょうか。

 意識の拡張プロセスというのは落とし穴だらけであり,これを安易な動機で行うと一気に転落してしまう危険に満ちたプロセスだと思います。そして「尋常な人お断りの世界」へ踏み込んでしまうことでもあります。「あちらの世界」はある意味で百鬼夜行,魑魅魍魎の跋扈する世界です。リスクがつきものであり,自己の選択については責任を自分でとらなければなりません。

 信心や信仰(ニューエイジ,精神世界的なビリーフ・システムも含む)は,基本的にはトランスパーソナルな意識領域に至る道のりにおいて,個人が体験する心理的現実から培われるはずのものです。しかし,これが集団,団体になると利権,利害関係といった本来は宗教性とは無縁のものが膨らみはじめ,権威システム,集金システムとして形骸化した儀式と教義だけを切り売りするだけの実の伴わないものになってしまう可能性があるように思います。

 ニューエイジでは神仏による救済というよりも,自己の選択,自己錬磨による「癒し」を売りにする部分が特徴ですが,そういっているわりには,メンバーによる依存の構造が従来型の宗教(団体)と同じように見られますし,手に負えなくなると今度は癒す側がメンバーを放置,切り離すことで自らの責任を回避する傾向も見られます。 どのような手続き,方法論を採ろうと,一定の割合で覚醒,向上していく人は出てくると思います。しかし,他方でその他大多数は入り口くらいでストップしてしまう。

 覚醒のきっかけをつかんだ人は,そこからたゆまぬ努力を一生続けることで,さらなる成長を見込むことができるでしょうが,そこまでいかなかった人はどうなるのでしょう。 宗教性はあくまでも個人の心性の問題ですが,これが宗教団体,組織になると,常に前個的混乱と退行をもたらす可能性がでてくるように思うのですが,いかがでしょうか? 超個のプロセスは一人孤独な闇夜の道の先に,一筋の光明を見いだすべく,一歩ずつ手探りで進んでいくイメージがあります。カリフォルニア生まれのニューエイジは,青空の下で燦々とした太陽の光を浴びているような感覚ですが・・・。

NOBORU 
  私も、優劣やランクづけをする意図はまったくないのです。

 私の一連を発言をまとめます。浄土系の仏教とルターの神学は、一方は仏、一方は神の前に自己を無にして投げ入れるという点などで、とてもよく似ています。おそらくその宗教的体験の核心には、自己を無にすることによる大いなる命への気づき、覚醒という共通ものがあるのだと思います。

 にもかかわらずフロムが、個が個を超て成長する可能性の面を宗教改革の思想の中に見ようとせず、権威主義的なサドーマゾヒズム的な関係だけを見るのは片手落ちのような気がしたのです。彼は、一方で禅をとても高く評価し『精神分析と禅仏教』という鈴木大拙との共著もあるのですから。

 結局言いたかったのは、フロムのように宗教改革を一方的に権威主義的な関係で理解するのは一面的ですが、どのような宗教も、個を超えるどころか個の独立を脅かすような逃避・退行のメカニズムを、その核心部分に含んでいるのかも知れないということです。

 神聖なるものやグルや開祖への帰依が、自己を無にするという同じ言葉で語られながら、一方で個の独立以前への退行となり、一方で超個の目覚めがるある。この区別がつかないことをウィルバーは前−超の虚偽といいましたが、ここに宗教の問題の難しさがあると思います。自己を無にすると言ってもそこには、前と超の両面があるのです。

paratorapa
  確かにフロムの「自由からの逃走」を読み返してみると、至る所に宗教改革の権威主義との強引ともいえる結びつけがあったように思います。フロムはこれをルターのパーソナリティ形成の個人史、生活史にまでさかのぼって分析を試みているわけですが、この辺は精神分析学者らしいですね。 在来型の精神医学では、宗教家(そして宗教性)は多かれ少なかれ病的ととらえる向きがあるのですが、そこに建設的で、成長の契機としての側面を認めないような所に、限界があるのではないでしょうか。

 フロムが禅に関する著作を持っているのは正直、知りませんでした。そもそも「愛するということ」、「悪について」というイメージで私は読んでいましたので。 鈴木大拙の著作は英文で翻訳されて欧米人にも知られていますが、何か禅だけが紹介されて、それが仏教なのだという先入観を欧米人に与えてはいないかと思ったりします。最近はそんなこともないのでしょうが・・・

 前超の誤謬の問題ですが、それが退行へ向かうものか、成長に向かうものかを峻別する具体的、実証的な基準作りはまだまだではないかと思います。 グロフらのSEの概念も超個に向かうプロセスの危機なのか、前個的、無意識的混乱としての精神病なのかに関する医学的、心理学的基準の策定を試みたものですが、(当然ながら)医学、心理学でのコンセンサスも不十分です。外的基準だけでクリアできない問題も霊、魂のレベルの現象にはつきまといます。

 まだ十分に語り尽くしたとはいえませんが、そろそろ

2)実証的に確認していくという姿勢を失っていないか。

という問いかけに話を移していきたいのですが、どうでしょうか? 無理にまとめることはやめますが、とりあえず第一段のやりとりはここまでとしませんか?

NOBORU仏教者の戦争責任
  第一段を終えるにあたって、もう二つ言い残したことがあります。

 ひとつは、道元の「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、力をも入れず、心をもつひやさずじて、生死をはなれ仏となる、たれの人かこころにとどこほるべき」という言葉に関連してです。これををもとにして、グルと弟子の関係を振り返って見たいのです。

 「仏のいへ」は、大いなる命でもいいし、阿弥陀仏でもいいのでしょうが、生身のグルでも同じことなのだろうと思います。グルが大いなる命を生ているかぎり、そこに「わが身をも心をも、はなちわすれて」いくことによって、大いなるものが確実に伝わっていくのだろうと思うのです。大いなるものに自己を無にして投げ出していくことが、そのまま超個への道なのです。

 もうひとつは、仏教者の戦争責任の問題です。これまで話題にしてきた権威主義的な関係と前−超の虚偽との問題を考える上で、大切な事例がここにあるように思います。 岡野守也氏が、『自我と無我』(PHP新書)の中で論じていますが、戦前から戦中、日本の仏教界の要職にあた人々が、ほとんど例外なしに積極的に戦争協力の発言・行動を繰り返して来たというのです。  「もっとも典型的には、『無我とは天皇陛下のために死ぬことじゃ』とはっきり発言し、『天皇陛下のために喜んで死ぬように』と熱心に説法をして回った著名な禅僧が何人もいる」というのです。  禅僧を含め日本の仏教者たちの大半が「無我と滅私奉公は同義語だ」と考えてきたと言って間違いないだろうといいます。

  まさにフロムの言うサド-マゾヒズム的な権威主義的な関係が「無我」という言葉の下に仏教者たちによって称揚されてきたのです。「超個」を説くはずの仏教の教えが、前個的な滅私奉公の教えと混同され、ある意味では「利用」されてきたのです。    

 あの時代の国家体制や雰囲気の中では、表立った批判がいかに難しかったかは十分承知しつつ、また自分もその頃に生ていたら時代の雰囲気に飲み込まれて同じような考えをもっていただろうと予想しつつ、こうした事実があったことはしっかりと見据えて行く必要があると思います。  この問題は、これほどに根が深い。今を生る私たち一人ひとりの中に、前と超を混同してしまう同じ心性が隠されている、その危険性に十分に自覚的である必要があります。  その意味で、サイババの問題も、私たち一人一人の内側の問題であるような気がします。

paratorapa
  仏教もそして,神道もそうでしたが,時の権力,政治と密接なつながりを持ってきたし,それは形こそ違え現代でもかいま見られるます。 キリスト教,イスラム教についても政治,権力とのつながりによって,それが権威主義的装置として機能していることは否定できない面があります。

 そして,より目には見えない形でしょうが,ニューエイジも本人たちの意図や意思とは無関係にみえますが,社会運動である限りにおいて,なにがしかの権威システムを求めているようにも思えます。 実るほど頭を垂れる稲穂かな。

 真の霊的覚醒に近づいている人というのは,驚くほど謙虚で,頭が低いように思います。しかも,ただそこにいるだけで強烈な存在感を放っています。だからといって,自分が人々から崇拝され,御輿に担ぎ上げられることを好まない。できるだけ表に出ず,ふつうに,目立たないようにひっそりと暮らしている。 権威と霊性の向上は反比例するような印象を私は持っています。


01/11/23 追加

ニューエイジをめぐる対話(3)

 

 

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