◇臨死体験・気功・瞑想

「真の自己」の幸福論

               ──岸田「自我論」の批判を中心に     

                          Noboru Ishii


 岸田秀は特異な思想家だ。思春期からの頑固な強迫神経症が縁となって精神分析の研究に入り、徹底した自己分析によって自ら神経症を癒していった。それゆえ彼の理論は、苦しい強迫神経症から解放されたいと願ってフロイトを読みつつ、ひたすら自己分析を続けた体験を一つの基礎として築かれた。彼の個々の論文は、深い洞察力に富み、読んでいて興味尽きない。しかし、その「自我論」は、狭い自我を超える「真の自己」のはたらきを否定する構造になっており、この点は批判が必要であろう。以下に岸田の「唯幻論」・「自我論」の大筋を見、その批判検討を通して、「真の自己」のはたらきに基づいた幸福論が可能かどうかを吟味しよう。 

1 岸田「唯幻論」

 岸田によれば、動物は一般に本能的に規定された世界認識の中で、本能的に規定された行動パターンによって世界に適応する。本能とは、第一にこの行動パターンである。本能の第二の面はエネルギー、自己や種族の保存を求めるという目的を持ったエネルギーである。ところが人間は本能が壊れた動物である。つまり、個人の適応を保証する統一的な体系としての本能が壊れて、そのエネルギーは、バラバラに断片的に存在する。むろん本能が壊れた人間にも、自己や種族保存の衝動はある。が、その実現のためにどうしたらいいかという行動パターンが壊れている。またそれに対応して、本能による世界認識のパターンも壊れている。つまり世界をどう認識するかについて「種」としての制約がなくなっている。

 が、本能が壊れたままでは、人間の行動は混乱し、滅亡の危機にさらされる。そこで本能の代用として自我がつくられた。人間は、それぞれの身分や、役割や、立場を基礎として自我を形づくることではじめて自分の行動を決定できる。もし自我がなければ、人間の行動は支離滅裂になってしまう。自我は、本能に変わる行動規範として機能する。また、本能の世界認識の代用として言語が成立した。人間は、本能によってではなく、言語によって世界を分節し、再構造化し、それに基づいて行動する。人間にとって世界は、自我を中心にして言語によって構成されるのであり、自我の成立と言語の成立は不可分である。 

 ところで本能が壊れている以上、人間がどのように自我をつくり、どのような世界認識をするかについて、それを制約する生物学的根拠はない。根拠がなく、恣意的だという意味で、自我も世界認識も「幻想」である。本能が壊れて現実を見失った人間が仮に現実と呼んでいるのは、疑似現実、すなわち「共同幻想」に過ぎない。自己保存も種族保存もセックスも、人間の一切の行動は、その「幻想」に基づいて営まれる。こうして、自我は「幻想」であり、それに基づいた世界認識も行動もすべて「私的幻想」・「共同幻想」に基づいているという「唯幻論」と「自我論」が主張される。この理論は、一切が「幻想」だとする点で、大乗仏教、特に唯識思想に通ずるが、仏教と違うのは、自我がこの「幻想」から原理的に目覚め得ないと、岸田が主張する点である。

 さて、首尾一貫した行動規範としての本能が壊れた人間は、その代用として自我を必要とする。ところが自我は、矛盾する多くの要素(バラバラになった本能)を抱え、本質的に不統一、不安定である。この解決不能なディレンマをごまかすために自我は、多くの要素の一部だけを取りこみ、その部分だけで仮に首尾一貫した形をつくり、その形と矛盾する他の部分を抑圧する。自我とは、当人がこれが自分だと思っているところのもであり、エスとは、当人の生命全体のなかの、自我から排除されたものである。

  要するに自我は「幻想」に過ぎず、かつ常に自我よりも広大なエスの領域に脅かされているため、本質的に不安定なのである。そのため、その不安定さをごまかす何らかの支えを必要とする。たとえば欧米人は、かつて神を自我の支えとしたが、神が揺らいでからは、神の後釜として真理、国家、理性など、次々とさまざまなものを求めた。それらの支えは、次第に個人を超えたものから個人の身近なものへ、ついには個人の内部のものへと移り変わり、そして今や、個人が内部にもつ欲望に自我の支えを求めるまでに至った。

 純粋に生理学的な欲求を除いて人間の欲望はすべて、自我の強化をめざす。名誉欲にしても財産欲にいても、根底的には不安定な自我を少しでも強化しようとする動機から発している。たとえば「権力欲の強い者とは、自我が不安定なのは自分の権力が弱すぎるからだ、それが及ばない領域がまだあるからだと思っている者である。権力の不足を自我の不安定の原因と見るならば、全世界をおのれの支配下に収めている全能の神にでもならぬかぎり、そのような原因はいくらでも見つかる。」 したがってどんな欲望にせよ欲望に最終的な満足はない。自我の決定的な安定はないのだから、欲望がめざすものを実現することは不可能でなのである。

 結局、人間が自我の安定を見いだそうとするあらゆる試みは、それが「宗教」・「真理」・「欲望」その他いずれによってなされようと、こうすれば不安定な自我が安定するという「嘘の物語」に発している(もちろんそれが「嘘の物語」だという自覚は普通は欠けているが)と岸田はいう。それゆえ彼の理論では、人間は宗教その他の「嘘の物語」にかりそめの満足を見いだすか、欲望の無間地獄に陥るかしかない。

2 岸田理論を批判する

 こうした岸田理論を批判的に検討しよう。「唯幻論」によれば人間は、自我の「幻想」から決して目覚め得ない。自我は、程度の差はあれ、非常に狭く固まっている。狭く固まった自我を壊して、より広いものにすることは可能だが、広くなってもそれが自我であるかぎり限定されている。また自我は、自我である限りみずからを維持しようとするエゴイズムに囚われる。それゆえ人間は、自我とそのエゴイズムから逃れられない。自我は、家族の範囲に、あるいは国家の範囲に拡大するという形(家族エゴや国家エゴ)で広くなっても、このエゴイズムの質や強度を変化させることは出来ないというのが岸田の見方のようだ。

 岸田は、次のようにも言う。すなわち、現在の自我を首尾一貫させ、その内部的安定を確保しようとすればするほど、そこから排除される部分が多くなる。それに応じて自我は狭くなり、対立する広大なエスに脅かされる。また、現在の自我は、狭ければ狭いほど、それが消化できる経験の範囲が限られるため、それだけ範囲外の経験に出会う可能性が大きく、崩れやすく、不安定になる。かと言って、広い部分を自我に取り入れれば、それだでたくさんの矛盾した要素を抱え込むことになるから、首尾一貫性が損なわれ、内部的にはそれだけ不安定になる。どのみち自我は不安定というわけだ。

 こうした文脈のなかで岸田は、「真の自己」のはたらきに人間の幸福や安定を見ようとする立場をも否定する。19世紀はじめのヨーロッパのローマン主義は、個人の内部にありながら、何らかの普遍的価値とつながっているもの、すなわち愛や理性の能力とか、創造的才能とか、個性とか、「真の自己」とかを発達させたいという「人間的」欲望を重視し、それを実現しようとした。「個性重視」を語ったユングや、「自己実現」を説いたフロムらは、ローマン主義者の、精神分析界における後裔であった。彼らの精神分析理論はそれぞれ異なっているが、個人の内部に本当にその人自身であるところのものが潜在しており、その「真の自己」は今のところさまざまな不幸な条件のために抑えつけられているが、それを実現することが、すなわち個人の精神的健康を保証し、社会的価値をも実現すると主張する点で一致している。

 要するに岸田は、ユング、フロムらの思想を次のように捉えている。すなわち「人間にも動物における本能のようなものが存在しており、それは今のところは抑えつけられ、覆い隠され、埋もれているが、そしてそのために表面的には歪められ、変質した形で現れているが、どこか心の奥のほうに損なわれない健全な状態で潜在しており、それを引っ張りだしてくれば万事うまくゆくという思想である」と。

 人間は、本能が壊れた動物であるという、岸田の理論的な大前提からすれば、こうした「真の自己」論を認め得ないのは当然だ。彼はこう言いたいのだろう、

「本能が壊れてしまった人間は、自己防衛上やむなくその代用としての自我をつくった。 自我の幻想が崩れれば、行動の規範を失って生きていけないし、たとえ幻想から目覚め得たにしても、そこには統制不可能になった本能の残骸があるだけで、真の自己といったバラ色の健全な状態など発見できるわけがない。自我はエゴイズムをその本質とする必要悪かも知れないが、それにしがみつくしか人間の生きる道はない」と。

 人間はあくまでも「自我の不幸」に甘んじるしかないというのである。

 しかし、「真の自己」が動物の本能に替わるような実体的な「何か」として潜在するという岸田の解釈は誤解に過ぎない。問題は、自我が自らの生の営みの全体をどれだけ受容できるかどうかである。自我が、自らの生の営みの大部分を否定し押し殺して、狭く固定化すればするほど自我の無理は増大し、その無理を維持しようとするエゴの防衛も強化され、自我はますます固定化される。その悪循環のなかに「自我の不幸」の根源がある。本能が壊れていようといまいと、自らの生の全体が可能なかぎり受容されている状態こそが「真の自己」が発現した状態である。「真の自己」とは実体的な何かではなく、生がどれだけ受容されているかという、その「状態」をいう。

 岸田に欠けているのは、自我の変質の可能性という視点である。自我は絶えず崩壊と再統合を繰り返す可能性を秘めている。自我がこれまで否認してきた自らの内的・外的な経験を受容できるようになるとき、自我そのもが変質している。自我は、自らの内的・外的な経験の何を受容し、何を歪曲・否定するかという、その選択の枠組みとして機能する。自我がもし、その生の営みの全体を、すなわちその内外の経験の全体を可能なかぎりそのままに受容できるようになったとすれば、自我がそれだけ大きくゆるやかな枠組みへと変質ないしは成熟したことを意味する。
  それゆえ岸田が心配するように「広い部分を自我に取り入れれば、それだけたくさんの矛盾した要素を抱え込むことになるから、首尾一貫性が損なわれ、内部的にはそれだけ不安定になる」ということはない。むしろ、心理的不適応や緊張から解放され、より深い快適感に満たされる。自我は、より深い生の営みの全体性の上に成立した一つの機能にすぎなない。それが自覚され、固定化された虚構の自我を無理に防衛する必要がなければないだけ、ゆるやかな枠組みとしての自我は安定するからである。

 成熟した自我は、自らの内外の経験を歪曲したり否認したりする度合いがより少なく、生の営みの全体性により深く根差して、しかもその全体性のもとに自らを相対化している。そんなふうに相対化された自我は、自らを防衛する必要がないから、自我を守るはたらきとしてのエゴイズムも少なくなる。自らの生の全体性がどれだけ深く受容されているかどうかに、人間の「幸福の質」がかかっているといえよう。


《参考文献》

岸田秀『ものぐさ精神分析 (中公文庫)

同 上 『幻想の未来―唯幻論序説 (講談社学術文庫)

岸田秀、八木誠一『自我の行方 増補版

岸田秀、竹田青嗣『現代日本人の恋愛と欲望をめぐって―「対論」幻想論対欲望論 』(KKベストセラーズ)

00/8/8 追加



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