◇臨死体験・気功・瞑想

人間性心理学と禅仏教−2
──成長と悟りのあいだ──

                          Noboru Ishii

 

 


目次

(赤字の部分を本ページに掲載、追ってページを分けて以下を掲載していきます。本論文は雑誌等には未発表です。)

はじめに
第1章 人間性心理学と自己理論
  1 人間性心理学とは何か
  2 成長する力

  3 自己と経験の不一致
  4 自己自身になるということ

第2章 十分に機能する人間
  1「十分に機能する人間」とは?
  2「十分に機能する人間」と「全機現」
  3 「自己理論」は「悟りの理論」たり得るか


3 自己と経験の不一致  

 ロジャーズのパーソナリティー理論は、別名、自己理論とよばれるほどに自己概念が中心的な役割を果たしている。彼の理論が打ち立てられる過程では、ミード、オルポート、レッキーなどの影響も認められるが、同時に臨床的な観察の積み重ねの中で、自己概念が重要視されていったのも事実である。彼の理論は、その「セラピー理論」も「パーソナリティー理論」も「十分に機能する人間についての理論」も、すべて自己概念を中心に組織的に体系化されており、治療理論としてだけでなく、人格の変化や成長、さらには人間関係のあり方を理解する上でもきわめて包括的な視点を提示している。臨床観察に基づき、しかも体系的一貫性をもったその理論は、きわめて優れたものだと言えるだろう。本論でのわれわれの試みは、この包括性をもった理論をさらに、広い意味での宗教性をともなった人格の転換、すなわち覚醒体験にも適用して、覚醒=悟りとは何かを考えることであるとも言えよう。

  ロジャーズによれば、「すべての人は自分がその中心であるところの絶え間なく変化している経験の世界に存在している。」 それは、私的世界、現象的場とも呼ばれ、有機体によって経験される一切を含んでいるが、それらの経験のすべてが意識されるとはかぎらない。有機体は、何らかの絶対的、客観的な実在に対して反応するのではなく、個人に経験され知覚されたままの「場」に対して、一つの体制化された全体として反応する。この知覚された「場」こそが、個人にとっての実在にほかならない。(全集8巻、92頁)

 かなり広い意味で現象学派とよばれるロジャーズの立場では、このように人間の現実とは、彼が知覚するかぎりでの世界であり、それは個人にとって意義あるものとして経験されるかぎりで意味をもつ。したがって人間を理解するには、その個人の私的世界あるいは「内的枠組み」から理解することが必要である。 こうした全体的な知覚の場の一部には、対象化された自己への知覚も含まれている。現象的場には、無意識的であれ意識的であれ、有機体の経験のすべてが含まれているが、「自己概念」とは、意識にのぼることを承認され得る、自己の知覚の体制化された形態(ゲシュタルト)である。それはたとえば、その人の特性や能力についての知覚、他者や環境との関係における自己の知覚や概念などを含む。ところで自己意識とは、自分自身に対してその時々に注がれる意識のことであり、その内容は時間の経過とともにそのつど変化し続けるものである。しかし自己概念は、ある時点で現実の意識として存在しているかどうかに関わりなく、その時点で自分自身に対して暗黙のうちにいだかれている各種のイメージや概念の全体構造として考えられる。つまり自己意識は状況的、現象的であるのに対し、自己概念はそのような自己意識にとっての暗黙の前提となっている基底的な自己観であると言えよう。(3)

 こうして経験の私的世界(現象的場)のなかで対象化され得るものとしての自己は、ひとつの体制化された全体として「自己概念」ないし「自己構造」を形成するのである。

 ところで問題なのは、自己概念が有機体にとって意識することが不快であるような経験を閉め出すための一つの基準とか、フィルターとかのような役目を果たしているということである。自己は、自己の機能と一致しないような経験を自らのなかに採り入れることに抵抗する。したがって自己概念と一致していない経験は、自己概念と矛盾しないように歪曲されて意識化されるか、意識化を拒否されて無意識にとどまるかのいずれかである。たとえば、自分は「良き夫」であるという確たる自己概念をもった人物は、自分の妻に対する奥深い怒りの経験をもっていたとしても、その内的な反応を意識することを拒絶して、ただおだやかな愛情のみを感じているように自分自身を知覚するかもしれない。

 これは、フロイト派の人々が抑圧という概念で説明しようとする現象と同じである。 ただし抑圧という概念が、社会的にタブー視されていたり、禁止されていたりする衝動に関するものとだけ考えられるなら、それは事実にそぐわない。確かに、個人の意識が文化や社会というシステムとの関係を抜きにしては成立しえない以上、抑圧が社会的な禁止やタブーによって起こる面が強いのは事実である。さらに個人がどのような自己概念を形作るかも、基本的にはその個人が属する文化によって条件づけられているだろう。しかし一方、自己概念の形成が個人の生育歴によって大きく左右される面ももっている以上、社会的に否定されたり禁止されたりする衝動だけが抑圧されるとは限らないのである。否定的な自己概念を形作ってしまったものは、肯定的な感情を抑圧することもありうる。もっとも深く否定されている衝動や感情が、愛や、優しさや、自信などのポジティブな感情であることもありうるのだ。大切なのは、経験と自己との一致ということであり、個人の自己概念と一致しないような経験は、社会的な視点からはどのようなものであろうと、意識に否定される傾向があるのである。そして自己概念こそが、意識にのぼることが不快な経験を締め出したり、歪曲したりする上で中心的な機能を果たすということは確かなのだろう。(全集8巻、192頁)

  いずれにせよ自己概念と矛盾する経験は、その自己概念の有機的統一性を脅かし、心理的な不安定もたらすので、それを回避するためにその経験の全体なり一部なりが否定されたり、歪められたりする。自己概念と一致しないどのような経験も、自己構造のゲシュタルトへと体制化されぬまま、自己にとって潜在的な脅威として残る。そんな脅威が多ければ多いほど自己は防衛的となり、自らの構造を破壊されまいとして自己をより強固に体制化しようとする。しかし、自己概念が硬直化するほど、実際に経験される知覚とますます一致しなくなり、それを無意識に歪曲したり無視しようとしたりするので緊張も強くなる。現実とのずれの大きい自己概念を持っていればいるほど、環境との相互作用において予期せぬ反応を受けやすく、心理的な当惑や混乱を招きやすくなるのである。こうして極度に緊張が強くなって、自己が頑なに体制化された状態を心理的不適応と呼ぶ。こうした脅威の経験が大きくなると、防衛の過程がさらに強くなり、自己構造は首尾一貫しなくなる。さらに自己と経験の不一致が大きくなれば、防衛過程すらも働かなくなり、そのため矛盾が噴出して不安と混乱があらわになり、自己構造のゲシュタルトが崩壊することすらあるだろう(精神病など)。

 心理的不適応の状態を人間関係のあり方に即して説明してみよう。自己概念に矛盾する経験を否定ないし歪曲する人は、それらの経験が意識化されることに対して、つねに自己自身を防衛しなければならない。そのため一切の経験が、現にあるがままのものとしてよりも、むしろ潜在的な脅威として防衛的な視点から知覚され解釈されてしまう。日常的な人間関係の中での周囲の人々の何げない言葉や行動も、その真の意図がどうであれ、ことごとく自分への脅威として経験される。彼は、そうした脅威への自己防衛のため必要以上に攻撃的な言動をとるようになるかもしれない。そのとき周囲の人々は、自分にとって脅威であるかないかという基準によってしか知覚されず、ひとりの独立した人間としてありのままに尊重し、理解することはまったくできなくなってしまう。人間関係がこのように歪んで知覚されればされるほどトラブルも多くなり、心理的不適応も増す。(全集8巻、143〜144頁) 

4 自己自身になるということ

 では逆に心理的適応とはどのような方向への変化なのだろうか。攻撃またはそれと同様の脅威を受けない安全で受容的な雰囲気の人間関係のなかでは、自己体制の固い境界がゆるんでくる。そこでは、脅威の下で頑固に体制化されていた自己構造がおのずと弛緩しはじめて、これまで拒否されてきた知覚や経験が自己の一部として新たに受け入れられるようになる。そのとき、古い自己の崩壊は安心して許容され、これまで無視された来た経験は、再体制化された新たな自己構造の下に統合される。このような過程を可能にする条件を意識的に作るのが、ロージャズが創始した「来談者中心療法」等による安全感のあるカウンセリング関係である。そのような関係のなかで来談者(クライエント)が自由な自己表現を受容され続けると、これまで否定されていた脅威的な経験をはっきりと意識化し、自己を統合しなおし、新たな体制化をおこなうことができる。そこに現れた新しい自己は、彼自身の現実の姿にはるかに近く、同時に歪曲されない現実により深く根差している。そんなふうに経験が自己構造に同化されればされるほど、自己は自己自身を防衛する必要がなくなり、心理的不適応や緊張から解放されていく。

 もちろん、これは一方向へひたすら進む単純な過程ではなく、一進一退を繰り返す過程であることが多いだろう。ロジャーズは次のように言う、「彼は、今まで意識したことのない経験、彼が自分についてもっていた概念と深く矛盾するような経験を知覚するようになるが、このことはほんとうに彼にとっては脅威なのである。彼は一時、以前の居心地のよいゲシュタルトに引きさがるけれども、やがてゆっくりとしかも用心深く動きはじめて、この矛盾する経験を、新しい、訂正されたパターンのなかに同化するようになる。」(全集8巻、77頁)  ともあれロジャーズは、来談者中心療法のセラピー関係においてクライエントの主体的経験が尊重され、受容されることによって、その自己知覚や外界の知覚に変化が起こることを発見したのである。また結果としてそれが、行動および人格の変容につながると主張するのである。個人が、硬直化して非現実的だった自己概念の崩壊を許容し、自己を今までと違った見かたで知覚できるようになると、彼を取り囲む経験の世界もこれまでとはまったく違った相貌を現すようになる。すなわち「彼は、経験的素材がもっと意識のなかに入ることを許容するようになり、その結果として、自己自身、彼のもろもろの関係、およびその環境をもっとリアルに評価できるようになる。」(全集8巻、66頁)

 経験の多くが意識化されて統合されれば、意識から排除され抑圧された経験によって脅かされることも少なくなる。それに応じて自己を防衛する必要も減少する。防衛する必要が少なくなれば、攻撃する必要も減少する。そして「攻撃する必要が全然ないとき、他人は、その人自身の知覚の場に基礎づけられ、その人自身の意味づけによって作動している、現にあるがままのその人として、すなわち、一人の独立した人間として、知覚されるのである。」(全集8巻、143〜144頁) こうして、自分を取り巻く世界やそのなかの人間関係がまったく違った表情で見えてくれば、それにふさわしい行動の変化が起こるのは必然である。

 したがって、心理的不適応から解放されていく過程とは、あるがままを尊重され受容される人間関係の中で、自己知覚や外界の知覚が再体制化される過程であるといえよう。パーソナリティーを形成し行動を決定するものは、この知覚の体制だとういことがロジャーズ理論の基本をなしている。そして、パーソナリティーや行動が変化するダイナミックスの根底には自己概念の変容・再体制化があるということも、ロジャーズのパーソナリティー理論の基本的な要素のひとつである。

  以上の議論から、自己構造がより受容性のある柔軟なものに変化していく過程こそが、人間の心理的・人格的な成長のプロセスなのだと言えるだろう。一言でいえばそれは自己受容の増大という変化である。つまり心理的・人格的な成長とは、自分のあるがままの真実の姿をより素直に見、許容できるようになることであり、それに応じて他者にたいしても、防衛によって歪曲せずに、そのあるがままの真実を受け入れることができるようになることである。また自己を取り巻く環境の一切に対しても、自己中心的な知覚から解放されて、よりリアルな把握ができるようになることである。「自己が、すべての経験を意識することを許すことのできるものとして見られる場合には、流動的で順応的な自己体制の基礎の上に自己統合と自信が発展する。」(全集8巻、45頁)  別の観点から言えば、人間の心理的・人格的な成長とは、自己と生命に内在する本来の〈いのちの働き〉とが分裂した状態から、両者がより統合された状態へ変化していく過程である。すでに述べたように多くの場合に自己は、社会という外部からの統制力を自らの内に取り込んで、生命が本来もつはずの実現傾向を歪曲し、その力を抑圧するという他律的な働きに陥っている。自己受容とは、自己が生命に内在する本来の〈いのちの働き〉を受容し、有機体の自律的な働きと調和し、それと統合されいく過程である。 もし自己が、かぎりなく再体制化されて、有機体の本来の働きが十分に発揮されることを許容しはじめるならば、自己もやがて〈いのちの働き〉と調和する「真の自己」へと変貌していくはずなのである。それが、「自己が真の自己自身になる」という過程である。

 「自己自身になるということ」、それは「人間のもっている、反省的思考によらない、有機体的な反応を恐れなくなる」ということである。またそれは「複雑に、多種多様に豊かに重なりあった感情や傾向──それは有機的なあるいは有機体的な水準において、人間に内在しているものであるが──に、ますます信頼をおくようになり、さらにそれらに対する愛着さえもますます大きくなっていく、というような意味であるように考えられる。」(全集12巻、41頁)


01/02/25 追加 (続く)

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