本牧の歴史(その1)


有史以前から、本牧は東京湾に突き出た岬として、行き交う船の目印となり、風待ちの波止場として知られていたという。本牧の由来がアイヌ語だという説に立てば、ポン・モリ(小さな港)が訛ったものとも当て字とも考えられる。現在の小港は、まさにその意訳であり、本牧はその音訳であるといえよう。
第2次世界大戦以前の本牧神社のあった十二天の岩場とその付近の千代崎川のおりなす川尻は、風待ちの船に最適の避難場所であったに違いない。

江戸時代には、上方方面から物資を運んでくる船で栄えるとともに、本牧鼻周辺の海上交通の難所だったことから座礁船の救援基地としても重要な役割を果たしていた。
多聞院や吾妻神社の近辺は、江戸時代には、このあたり随一の町場であった。人口規模で見ても、多摩川以南の東京湾西岸沿いでは、神奈川宿に次ぐ規模の町が形成されていた。
元来、本牧の地は農業生産のために必要な水の確保が困難であり、農業生産高だけで村勢を測るのであれば、寒村と評されるような場所であった。しかし、18世紀に江戸幕府により浦方として漁業生産が認められてからは、江戸という大消費地に漁獲を卸すようになり、富裕度は増したと考えられる。それに加え、上方と江戸を結ぶ海上交通の要衝として、後背地からの物資との交易の場ともなり、急速に町場化したという。商取引で生計を立てるものも多かったと考えられよう。

江戸時代以降、本牧元町バス停付近は港であり、八王子付近は八王子海岸といわれ、砂浜であった。

吾妻神社は14世紀の創建である。江戸時代は権現宮と呼ばれていた。社殿があるところはわずかながら高台となっている。

多聞院は現在山門の真正面にある公園まで元来は境内であった。境内から真南に線を延ばすと八王子鼻、北に伸ばすと十二天の本牧神社である。多聞院由来によれば、豊臣秀吉が小田原攻略後、鬼門の押えとして十二天社を造立し、多聞院住職に別当職を兼務させたという。

多聞院とバス通りを挟んで向かい側の住宅地の陰に、千蔵寺とその墓域がある。墓域は寺の南側道路よりも更に南に延びている。江戸時代の古地図によれば、この寺は多聞院境内寺であったとされており、多聞院の境内の広さがしのばれる。現在のバス通りから千蔵寺南側の墓域までが境内だったのであろう。ここより南側は下りの坂道となっており、旧海岸通りへと降りる道である。旧海岸通りには、古い酒屋などが軒を連ね、江戸時代の町場の面影を残すたたずまいである。「本牧の歩み」によれば、本牧本郷村には船客相手の酒屋が数多くあったとされており、海岸通りに老舗の酒屋が多いという事実は、これを裏打ちするものと考えられる。

今の本牧元町東公園(三角公園)は明治時代は居留外国人のためのビーチであり、海水浴場として使われていた。バス通りは海の中であった。八王子鼻の上には八王子神社(おはちおうじ様)が祭られていた。鼻周辺は外国人のサマーハウスが立ち並んでいた。鼻は、本牧がもっとも海に突き出ているところであり、海が荒れると鼻周辺は高波に襲われた。大正6年の大海嘯により、本牧海岸は大きな打撃を受けたという。八王子鼻には立派な老松が茂り、漁師たちの山当てに使われていたが、昭和54年の台風で折れてしまったという。

八王子海岸にはかつて、八王子川が注いでおり、その痕跡はそのまま道路になっている。本牧元町交差点から八王子方面への一方通行路を数十メートル進み、右側一つ目の小道がそれである。細い道はくねくねと曲がりくねり、いかにもここが往時には川であったことがしのばれる。途中、左手にプラザ本牧元町の隣の立体駐車場がある。立体駐車場との間にはかなり段差があり、道が低い位置にあるのがよく分かる。道は山王崎(高風保育園のある高台の突端)付近で徐々に太くなり、現在のライオンズマンション付近で、大正時代に小野園のあった大谷と崎(三渓園入口の尾崎堂交差点付近の高台の突端)を結ぶ道と合流する。合流点にはプレハブの三角形をした小屋がある。川はおそらく、合流地点よりも少し手前で直角に折れ、八王子街道と交差し、三之谷公園(象公園)で終わる。おそらくこの公園が源頭であろう。かつてはこの公園は溜め池か湧水場であったかも知れない。公園の片隅に、消防分団の倉庫がある。この公園は、阿弥陀堂のある崎と多聞院とを結ぶ直線上にある。明治11年の地図上には、桜道も三渓園商店街も、影も形もない。これらは三渓園開園以降にできたものだろう。

本牧が市街地として発展していった契機は、市電の開通と、開通した電車の終点の先に次々に造られていった市民の憩いの場や娯楽施設の開業の歴史そのものである。これは三溪園開園からマイカル本牧開業まで、延々と続く本牧の物語といえる。

山王崎には、元は山王社があったという。かつては眼下に八王子川の小川が流れ、多門院の伽藍を望み、遠景には和田山から十二天、そして遙か東京湾を見渡せる場所であったことだろう。ついこの前まで、鬱蒼と茂っていた山王の森は、宅地開発によりその半分を消失した。



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