我輩は猫である。

 名前は未だ無い。



 息を切らして走る。

 進めど進めど、追跡の手は緩まない。

 歩幅という絶対差があるためだった。

 差し向けられる無言の暴力。

 明確な目的や意図はなく、ただ愉悦に浸るだけの行為。

 向こうにしてみればからかい半分の一撃を、体格差が何倍にも増幅して 我輩に突き刺さる。

 いわれのない迫害。

 皆、我輩のこの姿形のせいであった。

 望んだわけでも。

 願ったわけでもない。

 ただ、長く生き過ぎただけ。



 視界がぼうっとかすむ。

 もうそろそろ、終わるのかもしれない。

 生きているというのは、まったく終わりの見えない徒競走のようなものであった。

 終わらない。

 その苦しみは、生きる者を何よりも激しく磨耗させる。

 終わればいい。

 そうすれば、不快なものはすべて消え去る。

 心を寄せるものなど、もうこの世には現れるまい。

 準備は整っているのだ。

 早く…。

 早く……。

「早く、こっちだ!」

 どこからか小さく、鋭く声がかけられる。

 人語を解することは出来たが、あいにく我輩にいちいち従うだけの気力はなかった。

「ほら、こっち!」

 その声の主が我輩に近づいてきた。

 人間のオス、それも子供であった。

 聞く耳を貸さない我輩に業を煮やしたのか、その子供は我輩に向かって両手を伸ばす。

 我輩はそれをじっと見ている。

 何がしたいかは伺い知れぬが、抵抗する力は残っていなかった。

 ……。

 ………?

 我輩はいぶかしむ。

 その子供は、確かに我輩を捕らえようとしている。

 しかし、出来ていない。

 なにやら我輩のいるあたりの、少し手前の地面を手で探っているのだ。

「あれ…?」

 悪戦苦闘しながら、ようやくその子供は我輩を持ち上げた。

「ははっ、やった」

 その子供はうれしそうに笑うと、我輩を抱きかかえたまま、後ろに反転して 歩いていく。

 なかなかに立派な作りの敷居をまたいで、建物に入る。

 どうやらこの子供の巣であるらしい。

「だいじょうぶ?」

 扉を閉めると、その子供は我輩の顔を覗き込むようにしてそう尋ねた。

 声色だけならいくらでも真似る。

 人間とはそういう生き物だ。

 ……なぁん。

 そうとわかってはいたのに、わざわざ答えてしまったのは、その子供が他の人間と 違うと我輩がどこかで思ったからなのであろう。

「…だいぶ元気がないね。今日もまたいじめられてたみたいだから」

 いじめる、という単語の意味を、我輩ははっきりとは把握していない。猫語に合う 言葉がなかなかないのである。

 ただ、おろぼげには理解していた。狩りや威嚇というわけでもなく、何らかの 嗜好や衝動を、複数で連帯して暴力をなにかにふるうことで満たし、その満足感、 優越感を共有すること。

 いじめと呼ばれようが呼ばれまいが、人間を長い間見ていれば、そんな行為には 山ほど出くわす。意図や対象はさまざまだったが、すべてに共通して言えるのは、 端で見ていて決して快いものではないということだ。

 我輩自身がその対象となったこともあった。そう、今回のように。

 最近は特にひどい。

 ほぼ毎日、同じ人間の子供の集団が、我輩を追いまわしては攻撃をしてくる。 子供たちは、オスもいればメスもいた。オスは例外なく知性に乏しいような卑しい 風体であったし、メスは皆、大人のメスのような人工的な香りをぷんぷんさせて、 ケタケタ甲高く笑う薄気味悪い風体だった。

「本当に、だいじょうぶ?」

 相変わらず心配そうに我輩を覗き込む子供。

 ふと、我輩はその子供の目が気になった。

 子供の目。その眼球。

 鈍く曇ったそれは、一片の光も宿していなかった。

 …にぁ。

 思わず鳴く我輩。

「ちょっと待ってて、いますぐ手当てしてあげるね」

 その子供は我輩を高い台の上に置くと、慌てて走り去る。

 ……。

 寒い。

 体が、がたがた震えだした。

 そのおかげで、今になって、我輩があの子供に抱かれていたことで、なんとも 言い難い暖かさを覚えていたことに気づく。

 ああ…。

 我輩は不意に強烈な未練に襲われた。

 もう一度還りたい。

 あの子供の腕の中へ。

 それは我輩自身にも正体不明の、しかし確かな渇望だった。

 何故であろう…。

 なぜ…であろう…。

 思考の鈍りが自覚できる。

 同調するように、瞼がゆっくりと閉じていく。

 いけない…。

 まだ…。

 我輩は抗う。

 しかしそれはあまりにもささやかだ。

 全身の筋肉という筋肉は弛緩し、感覚は途絶え、意識を編むことも ままならなくなる…。

 ふと、暖かな気配が戻ってくるのを感じた。

 ああ…。

 きてくれた…。

 しかし遅い…。


 おそすぎた…。



 我輩のすべてが闇に落ちる。

 頬に、正体不明の熱い水滴の感触を感じながら、我輩は何よりも深い眠りについた。