五月中旬。

 梅雨が早めに開けたその時期、太陽は夏が待ちきれないと言わんばかりに さんさんと輝き、地面に影をくっきりと刻みながら、徐々にその高度を増していく。

 ハイツ室井。

 三○二号室。

 立地と設備の良さを反映した家賃のそのマンションの一室。

 表札には「浅岸川」という文字が記されていた。

 時刻は午前七時半。がちゃり、とドアが開くと、この部屋の主が身支度をして 出てきたところであった。

 ばたん、とドアを閉め、しっかりと施錠する。

 学生鞄を持ち直し、ブレザの襟を少しいじると、彼は共通廊下を階段に 向かって歩きだした。

 浅岸川 達也。高校二年生である。そして、この部屋唯一の住人であった。

 どう考えても相応しくない我が家をあとにして、達也は自分の学校へと向かった。



 達也の行く先――つまり私立戸根来学園へのアクセスは、いたって 平凡な道程である。

 まずはマンションから歩いて五分の駅につき、空いているとも混んでいるとも 言い難い電車に乗り込み、二駅進んで降りる。

 あとは駅前の通りを少し進んでから曲がれば、もう校門が見える。

 特筆するとしても、そこから校門までの間に、地味にしんどい坂道があったり することくらいであろう。

 そういう道のりを普段どおり歩んできた達也は、その坂道の前で友人と出会った。

「うっす」

「おっ、達也。うーっす」

「おはよう、達也くん」

 一人は二見 健。長身の男子生徒である。

 もう一人は長澄 真緒子。長髪の女子生徒だった。

 この二人は恋人同士で、この三人は親友であった。

「いやー、まったく暑いな、今日は。ところで達也、最近景気はどうだ?」

「ぼちぼちだ」

「そうか。それは結構なことだ」

 うんうんと頷く健。

「健。何かいいたいことがあるんだろ」

「なっ。お、お前、さては俺の心の中をのぞき見たな?!」

「見てない見てない」

 冷静な真緒子のつっこみ。まるで計算しつくされたトリオ漫才のようだか、 これがだいたい普段のこの三人の関係性である。

「あのね達也くん。実は、少し頼みたいことがあって」

 自分が言うことにしたようで、真緒子がそう切り出す。

「何だ?」

「実はね、私最近猫を飼い出したの」

「…猫」

「うん、それでね、飼ったはいいんだけど、私今まで猫なんて一回も飼ったこと ないから右も左も判らなくて。健にも相談したの」

「けど、オレも猫飼ったことないからさ」

「それで、健が『達也に訊いてみればどうだろう』って。

けどね、自分で言い出したことなのに、途中で何か思い出したみたいにいきなり、 やっぱり止めておいたほうがいいって……達也くん?」

 真緒子は説明を止めた。

 達也は少し俯き、苦いものを噛み締めるような顔をしていた。

「どうしたの、大丈夫?」

「…ああ、いや。何でもない」

 取り繕って無理に笑ってみせる。

「本当に? 私、なにか気を悪くさせるようなこと言ったんじゃ…」

「本当にそうじゃないって。

それで、あー…、猫の飼い方だっけか」

 真緒子はその取り繕った笑顔の狭間によぎった影を見逃さなかった。

 自嘲。それも、ひどく後ろ暗そうな。

「まあ、できる限り助言はするけど、あまりあてにしないほうがいいぞ。

飼っていたのは何年も前だし、それに…」

 後半のほうは、小声になって聞き取れなかった。

「う、うん。それでも構わないよ。ありがとう」

 真緒子が話題を終わらせるように言う。

「あ、もう少しで予鈴だね。遅刻しないように急ご。ほら、健も」

「わーってるよ。そんなに背中をたたくな」

「背骨が曲がってるんだから、叩いてたら治るかもしれないでしょ」

 いつもの朝の風景。

 しかし達也は、あまり思い出したくない思い出を思い出していた。

 苦々しい記憶。

 自分などまったくの無力なのだと思い知らされた――二つの別れの記憶。

 それらは、今でも薄れることはない。

 誰にも話したことはなかったが、健は真緒子よりも付き合いが長いので、達也が 猫の話題を避けているのを知っていたのだ。それで、気をつかってくれたのだろう。

 友人の気遣いを嬉しく思うことで、達也は少しだけ鬱々とした気分を振り払えた。

「おい、急げよ達也。もしオレが間に合ってお前が間に合わなかったら、お前は 学校中の笑いものだぞ」

「自分のことをよくわかった発言ね…。それはともかく、急ぎましょ、達也くん」

 これから一日が待っている。どんな気分だろうと、とりあえずは進まなくては ならない。

「悪い。行こう」

 達也はやや駆け足で再び歩みを始めた。



 光の奔流が駆け巡る…。


 光は熱を孕み…。


 熱は命の律動を孕む…。


 あたたかい…。


 あたたかい…。


 これは祝福なのかもしれない…。


 生まれ出ずるものに、等しく分け与えられる神の恩寵…。


 さぁ…。


 始まる…。


 始まるのだ…。



 達也は健と真緒子と別れて帰路についた。

 猫の相談は後日受けることになった。

 頼ってばかりではなく、自分でもできる限り、資料を集めてみるとのこと。

 真緒子は義理堅くて真面目な女性である。

 健とは対照的であった。

「ふぅ…」

 勉強が頭に残した疲労の圧力を、ため息にして逃がす。

 進学を希望する達也としては、授業はひとコマも疎かにはできなかった。 身の回りのことをすべて自分でしていると、復習する時間が取れないことが あるので、授業でしっかりと内容を把握しなければならないという理由もある。

 のんびりと階段を昇って、三階の共同廊下に出る。

「あん…?」

 見晴らしがよいので、達也はすぐ自分の部屋の玄関先の異変に気がついた。

 人影がある。長い髪の女の子だ。

 なにやらうずくまるようにしてしゃがみこんでいる。

「誰だ…?」

 近所でも見かけたことがないような人だ。

 達也は恐る恐る近づく。

 その女の子は、何というか――妙ないでたちだった。

 まず服。それはそれは、元は立派だったであろう毛皮のコート。今は五月。 そして毛皮。達也は自分の平衡感覚が逆立ちでも始めたかのような感覚を覚えた。 しかもそれは、どこかに打ち捨てられていたかのように、見事なまでに薄汚れている。

 そして、そのコートの裾からは、すらりとした素足がのぞいていた。コートに 素足。なんだかコートの内側にえらく危険な――というか何というか――想像を 抱かせる組み合わせである。

 そしてその素足の先。これもまた薄汚れた靴である。しかも、中年のおっさんが 履くようなださい革靴であった。加えて、サイズが合っていない。

 以上、こんないでたちの女の子である。

 さてこれを日常の一部として受け入れることができるだろうか。

「……」

 しばらく悩んだが、達也は意を決して声をかけてみることにした。

「あの、すみません…」

 達也の声に反応した女の子が顔を上げた。

 ハッとして達也の顔を見る。

「……」

 見つめられて照れる達也。

 さらにしばらくの間、達也を見つめて居た女の子は、 ゆっくりと立ち上がって――笑った。

「…?!」

 達也の心臓が跳ねる。

 そこまでその笑顔は美しく、純粋で……そしてなにかをずっと待ちつづけていた ような健気さがあった。

 こんな顔に、一度だけ出会ったことがあった。

 確か、あれは――

「…タツヤ」

 鈴の音のようでいて、さらにどこか垢抜けしていない、言葉を覚えたばかりの ような拙い響き。

 それはひどく純粋かつ無垢に達也の耳を打った。

「――…、あんたは、」

「タツヤっ」

 距離があまりない上、予想だにしない状況に緊張していたのだから、回避は 不可能だっただろう。

 女の子はいきなり達也の胸に飛び込んできた。

「――――…!!」

 驚きが声にならない。

 蛙のように口をぱくぱくさせる達也に構わず、女の子は執拗に――それこそ 一心不乱と言ってもいいくらい――達也の胸にほお擦りしている。

「ん――ふぅ…」

 恍惚として息を吐く。その息にくすぐられてまた達也は飛び上がりそうになった。

「う、あ、お、おい―――」

 しどろもどろ。

 まったくいきなりの、畳み掛けるような展開に頭が回らない。

(い、一体何なんだ――)

 混乱した頭の偶発作用であったか、無意識の選択かはわからないが――突如と して達也の頭にひとつの存在が浮かび上がった。

 この子のこのふるまいはまるで――

「ちょ、ちょっと待って――待てっての」

「……?」

 若干取り戻した落ち着きで、何とか女の子を引き剥がす。

 女の子のほうは、引き剥がされたからか、何だか不満げにしている。

 達也はあらためてその少女を観察した。

 珍妙な服装はさて置いて、落ち着いてみればシャープな目鼻立ちが印象的な、 大人びた美しい顔立ちである。ただそれだけに、先ほどまでの無防備で無邪気な ふるまいと上手く結びつかない。

「一体、お前、誰だ?」

 一言一句、しっかりと区切ってはっきりと問う。

「我輩は――」

「――我輩は?」

「――猫である」

「―――はい?」

 せっかく取り戻した冷静さが、じわじわと混乱に侵食されていく。

 猫? 何を言ってるんだこいつは? いや、確かにさっきの行動はまるで猫みたい だと俺も思ったけどだからって猫って。どう見たって人間じゃないか。だいたい 我輩ってなんだ我輩って。

 脱兎のごとく疑問が頭中を駆け巡る達也に向かって、少女はもう一度繰り返す。

「我輩は猫である。名前はまだない」

 達也は己の平衡感覚が前方宙返りを繰り出しているのをどこか遠くに感じながら、 暑さのためのとはまた違う汗を一筋、頬に伝わせた。