じゅうっ――

 蛋白質の焦げる匂いが鼻腔をくすぐる。

「……」

 達也はベーコンの上に落とした卵の白身が、名前どおり白濁していくのを じっと見ている。

 味付けはベーコンを炒める段階で終わっていた。

 その眉が前触れもなくぴくり、と動いた。

 頃合だ。

 達也はフライパンの中で一度跳ね上げると、そのままするりと皿に乗せる。

 ベーコンエッグの完成である。

「うし」

 達也はその出来栄えにおおむね満足していた。

 ――本人は『おおむね満足』しかしていないが、その料理は見た目で伺える 目玉焼き部分の造形だけでも恐るべき完成度を誇っていた。

 形はほぼ真円。黄身もまた同じ。ただ、位置が中央よりやや斜めにずれ アクセントを利かせている。

 プラスチック製のサンプルみたいな風体だった。

 達也はともかく一人暮らしが長い。加えて、特に趣味もないのに変なところに 凝り性なので、この料理のようにあらゆる家事に精通しているのだった。専業主婦も 裸足で逃げ出しそうな万能っぷりである。

 こと、と音を立てて食卓にベーコンエッグが並ぶ。

「……」

 どうかしたのか、達也はその食卓を手を組んで見つめている。

「…二人ぶん作らにゃならんよな、やっぱり」

 ぼやくように言って、冷蔵庫から新たな卵を取り出した。

 そこでふと気づく。

 ――こうして次の卵を取り出すのは初めてのことかもしれない、と。



 ――調子が狂う。

 達也の心中を端的に表すならば、まさしくこうなるだろう。

「美味いのである。感銘するに値するのである」

 目の前で一体何が楽しいのか、にこにこしながらベーコンエッグを頬張る娘。

 服はしょうがないので、達也がTシャツとジーンズを貸していた。とりあえず 着てろ、と押し付けただけなので下着なんかはどうしたのかは知らない。

「そうか。美味いか。そりゃ俺も鼻が高い」

「確かにタツヤの鼻は高いのである。いい男なのである」

 こんな会話が昨日からかれこれ半日。

 達也は半ば開き直っていた。

「そうか。いい男か。そりゃ嬉しいな。天にも昇る心地だ」

「それは無理なのである。タツヤは脚力で跳躍する以外に上昇能力を持たないのである」

「ああ、そういえばそうだな。気がつかなかった」

「タツヤはうっかり者なのである」

「そうか。じゃあ、お前は何者だ?」

「我輩は猫なのである」

 ――こんな調子だ。

 多種多様な会話が交わされたが、最後の二言だけはいつも同じなのであった。

(まったく…)

 達也は心中で深く嘆息した。

 自分は猫だと主張する。

 変な言葉づかい。

 身元不明。素性不明。名前不明。

(厄介そうな奴を家に入れてしまった…)

 彼女の個人情報でわかってることといえば、せいぜい性別くらいのものである。

(いや女とは限らんか――ってそれはないだろ)

 自分の思考への反証のつもりで何気なくTシャツに浮かぶラインを眺めてしまい ――慌てて目をそらす。

 やはり調子がおかしかった。

「ほう、そうか。猫なのか」

「猫なのである。にゃーん」

 確かに鳴き真似は堂に入っている。

 だか、そういう問題ではない。

「しかしな、猫だって言われてもな――」

 もはやお決まりとなりつつある反論をしようとして――同じ状況の繰り返しに うんざりする。

 とりあえずこの閉塞状況から抜け出そうと、達也は少し違う方向から話を 振ってみた。

「そういや、なんて呼べばいいんだ?」

「名前はまだ無いのである」

「だから、何て呼べばいいのか訊いてるんだよ」

「?」

 まったく質問の意図を解していないようで、しきりに首を傾げる娘。

「だから、名前がないと呼びにくいだろ。『おい、猫』とでも呼べばいいのか」

「いいのである。我輩は猫である」

「道端でお前に呼びかけて、その辺の猫がいっせいに振り向いたらどうすんだ。 怖いだろ」

「だいじょうぶである。我輩のように人語を解する猫はなかなかいないのである」

 あくまで自分が猫であるという主張は変えないらしい。

 達也は噛み合わない会話に疲弊してテーブルに突っ伏した。

「……タツヤは」

「あん?」

「タツヤは名前があったほうが、嬉しいのであるか?」

「いや、嬉しいというか…。まぁ、不都合はしないだろ」

「なら、付けて欲しいのである」

 いい思いつきだ――とでも言わんばかりに、目を輝かせて言う娘。

「いきなり言われてもな…」

 そもそも猫と人間、どっちの名前を付ければいいのか。

「どんなんがいいんだ」

「特に希望はないのである。タツヤの好きなようにしてくれていいのである」

「ほう。ならどんなのでもいいんだな」

 最後の危険な言い回しに動揺しまくった様子はおくびにも出さず、達也はそう言った。

「よし。じゃあお前は今から、羽柴筑前守秀吉(はしばちくぜんのかみひでよし)だ」

「わかったのである。吾輩は羽柴筑前守秀吉なのである」

「………。

 なぁ、羽柴筑前守秀吉」

「何であるか?」

「……すまん、やっぱり他のにさせてくれ」

「? どうしたのであるか? 別に構わないのであるが」

 冗談の通じん奴だ…。

「しかし、名前か…。名前ねぇ…」

 まったく思い浮かばない。

 タマとかミィとかいかにも猫な名前ならばさすがに思いつく。が、いくらこの娘が 自分が猫だと主張しようとも、やはりどうみても人間の女の子の姿にそういう名前は 違和感か強い。

 さりとて、女の子の名前なんて考えてみたこともない。

「うーん…」

 変なところで凝り性なので、適当な名前で妥協するという選択肢は出てこない。

 やっとこさ幾つかを捻り出すが、よく考えてみると全部知り合いの名前だった。

「はぐはぐ…。ベーコンのかりかり具合が絶妙なのである」

 真向かいでは、娘がのんきにベーコンを咀嚼していた。

「ったく、一体誰のために…」

 ぼやきかけて、ふとある名前が頭にぽっと浮かんできた。

「――双葉(ふたば)」

 無意識に、口の端からこぼれ出る。

 言ってから、すぐに後悔した。

 その人のその名前は、常に、悲しい記憶と共にあったから。

「双葉、であるか」

 小さく呟いた程度だったのだが――運悪く、娘は聞き逃さなかったようだった。

「うむ。良い名前である。吾輩は双葉なのである」

 何が嬉しいのかあれほどがっついていた食事の手も休め、にこにことしながら言う娘。

「双葉――双葉、双葉」

 とても『やっぱり無しにしてくれ』と言える雰囲気ではなかった。

「はぁ…」

 嘆息する達也。

 うかつに呟いてしまう辺り、自分はまだあの頃に居続けているのだと、そう痛感した。

「タツヤ。食べないのであるか?」

 箸の止まってしまった達也を見て尋ねる娘――双葉。

「食うよ。いいから気にすんな」

「気にするなと言われても気になるのである。ご飯がたくさん残っているのである。 どこか悪いのであるか?」

「違うっての。お前が食うのが早いだけだ」

 そう言うと、双葉は露骨に不機嫌になった。

 早食い呼ばわりに気を悪くしたのかとも思ったが――

「吾輩はお前じゃないのである。双葉である」

「…ああ、はいはい。そうだったな」

 どうかしてる、と達也は思った。

 見ず知らずの奴に、あの人の名前を付けるなんて。

「――そんなに気に入ったか?」

「もちろんである」

 双葉は大きく頷いて断言した。

「タツヤがつけてくれた名前である。後生大事にするのである」

「――」

 言葉を失う。

 マンションの廊下で出会った時と同じ、あの笑みだった。

「――そうか。それは、よかった」

 胸を渦巻くさまざまな思いに、達也はそう呟くことしかできなかった。