見上げると、「24HR」というプレートが目に入る。

 がらっ、と。

 気の無い動作で教室のドアを開ける。

「だぁーかぁーらぁー! P90のAPはロー・エンフォースメントにはオーバー・ペネトレーションなんだって!」

「けどM4にごてごてオプション着けてるのはいいかげん限界だって。RISなんて結局、拡張性の乏しい設計をカバーするための策だろ? 室内戦じゃ取り回しの良さもブルパッブには敵わないじゃないか」

「腕でカバーだよ、んなもん。あんなマグチェンジのしにくいもん、使ってられるか」

「CQBじゃ一弾倉も使わないよ。アンビストラクテスじゃないほうがよっぽど使い手を選ぶ」

「ああもう! あー言えばこう言いやがって!」

「………」

 朝から騒がしいクラスメイトを尻目に、達也は自分の机に突っ伏した。

 一番窓際の列の、一番後ろである。

「うっす」

 前の席の健が早速話し掛けてきた。

「…」

「どうしたんだ?」

「死んでる…」

 達也は机に突っ伏したままうめいた。

「なんだ、電車やばかったのか?」

 もうすぐHR、という時刻を示す自分の腕時計を見ながら、健。

「そうだ」

「お前、五分歩きゃ駅じゃねーかよ」

「乗った電車がぎりぎりだったんだよ…」

 むくりと身を起こす達也。

「しかし、お前がここまでギリギリ滑り込みなんて珍しいな。後で真緒子に教えてやろ」

「忘れろ…」

 その折、黒板側の扉ががららと開いて担任が入ってきた。

「あい…これからHRを始めます。全員席について」

 古文の教師でもある花崎は、もうかなりの高齢である。変な訛りのせいもあって、当然のごとく生徒からはナメきられている。

 そんなわけで、HRが始まっても生徒たちのお喋りは止まない。

 健と達也も例外ではなかった。一時限目もまだなのに唐突に健が呟く。

「あー、腹減ったな」

「お前ばかだろ」

「…突っ込むにしても他の表現にしろよ」

 こめかみをひくひくさせる健。

「じゃあ、ひょっとして、お前ばかだろ」

「一緒だっ!」

「どこがだ? 『ひょっとして』という語を用いることによって、婉曲的な表現になってるじゃないか」

「実質一緒だっ!」

「うるさい奴だな…」

 顔をしかめる達也。

「達也、てめぇ、もう一度そんなこと言ってみろ。ただじゃおかねぇぞ」

「わかったよ。健、お前ヘンタイだろだなんてもう二度と言わない」

「んなこといつ言ったよ!」

「昨日風呂入ってるとき」

「知るか! というか俺のいないところで言ってたらただの陰口じゃねーかよ! それからオレのどこが変態だっ!」

「おお、三段ツッコミ」

 達也がふと気づくと、周り中から白い視線を集めていた。

 どうやら『ひそひそ談笑』という領域を逸脱していたらしい。

「少し静かにしろよ、健」

「話、膨らましたのお前じゃねーかよ…」

 二人ともまったく耳を傾けないままHRが終わり、花崎が教室を出て行く。

「ふう…ん?」

 達也の方に振り返りながら大きく伸びをした健が、ふと眉をひそめる。

「どうした?」

「…? …」

 なにやら達也の周りに鼻を利かせる健。

「本当にヘンタイか?」

 達也の挑発にも乗らず、健はいぶかしげに首を捻った。

 それから、急ににんまりと笑う。

「…女の匂いがする」

 どきいっ!

 などというベタな効果音が鳴りそうなほど驚く達也。

 必死に顔に出さないよう感情のコントロールに尽力しながら、誤魔化す。

「いや、んなこと言ってるとマジで変態みたいだぞ」

「まあまあ、照れなさんな。

ふっふっふっ、達也くんもついに大人の階段を昇り始めたのか…」

 この友人は、ひとたびこういう話になると、妄想はかばかしいことこの上ない。

「満員電車に乗ってたら、そういうこともあると思うが」

 達也の誤魔化し第二手。まあ、嘘ではない。どぎついオッサンの匂いのほうが遥かに多いのだが。

「何だよ、水臭いな。オレに隠すこともないだろ?

 ――で、何組のどいつだ?」

 達也ははぁ、と盛大なため息を一つ。

 それから若干考え込み、何か思いついたように眉を跳ね上げる。

「しかたねぇな、ったく。三組だよ。23HR」

「おおっ、よくぞ言った。 それで? 三組の誰だ?」

「知ってるかな…長澄 真緒子っていう奴だ」

「ふんふん。どんな奴なんだ?」

「まず、全身ゴリラみたいに毛がボーボーなんだ」

「ふんふん」

「その怪力は山をも砕き」

「ふんふん」

「おまけに二トントラックにも匹敵するその重量で、相手を押しつぶすんだ」

「うわっ、そりゃ凄いな」

 わざとらしく驚いてから、

「――で、そんなボケはもういいから正直に吐け。ついでに、んな台詞本人の耳に入ったらマジで危ないぞ」

「そうなのか。試してみよう」

 達也は勢いよく立ち上がって息を大きく吸う。

「へーっ、健! 真緒子って全身ボーボーで馬鹿力で体重が二〇〇〇キロもあるのかぁ!! そりゃ知らなかったなぁ! あーびっくりした!!」

「!? て、てめ―――」

 …健が何か言うよりも早く。

 どどどどどどどどどどどどどどどどどっ!!

 校内で牛追い祭りでも始まったのか、とでも思うような地鳴りが近づいてくる。

 ばんっ!!

 強度とかをまったく考慮してくれていない勢いで開け放たれた扉の向こうには、修羅と化した一人の女生徒の姿があった。

「おはよう。健」

「お、おはよう…真緒子」

「えっと…わかってると思うから、余計な前置きは要らないわね?」

 修羅が浮かべる菩薩の笑み。

 それは鬼と仏、双方の力を併せ持つ絶対者の象徴であった。

「ち、違うぞ真緒子! オレが言ったんじゃない! 達也が言ったんだって!」

「俺冗談で言ったのに、お前は真剣な顔で頷いて、聞き入ってたよな」

 親友に容赦なく駄目押しをしてやる達也。

「ふふふ。行きましょう健。わたし、今すぐあなたと二人っきりになりたいの」

 真緒子ががっしと健の襟首を掴む。

「う…」

 健は青ざめた顔のまま…

「うああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――…………」

 廊下の向こうへと消えていった。

「……グッドラック」

 生暖かい目で親友の健闘を祈る。

 きーんこーんかーんこーん、と本鈴が鳴った。

「さ、授業授業」

 わりといつも通りな達也の学校での一日が始まる。



「…この時、極に白金板や炭素棒ではなく、銅のような物質が用いられることもある。すると、銅が電解精錬の要領で析出してくるわけだが――」

 ――うんぬん。

 自分は既に予習で抑えておいてある頻出ポイントを、化学教師が教壇上で長々と説明している。メリハリも何もない講義がさすがに苦痛に思えてきて、達也は集中力のレベルを引き下げた。

 前の席は無人である。

 もう一度心の中で親友を激励し、視線をそのまま窓の外へ。

「ふぅ…」

 ――女の匂いがする。

 さっきの健の台詞が達也の脳裏によみがえる。

 正直、肝を冷やした。

 まさか匂いで感づかれるとは…。

 達也は試しにくんくん、と鼻を利かせてみるが、特にピンとはこない。そもそも普段から自分の匂いなんて気にしていないのだ。正常を知らずに異常を断ずることはできないだろう。

(腐っても女持ちか…)

 でも残り香で気づく男って何か気持ち悪いなぁ…などと激励を忘れて失礼な感想を抱いてから、達也はその匂いとやらが付くはめになった経緯を思い返した。

 事は、今朝の、達也が家を出る前の話。



 きゅっ、と取っ手を絞りこむ。

 それで蛇口は水を吐き出すのを止めた。

「…よし」

 洗い終えた食器に布巾を被せて置いて置く。自然乾燥させて、帰ってきてからしまうのが通例だった。

 達也はエプロンで手のしずくをぬぐい、そのエプロンも外して脱衣所のカゴに放り込む。

 朝の家事は一通り完了である。

 達也は鞄を取りに自分の寝室へと向かった。

 がちゃり、とノブを回してドアを引く。

「………」

 目が点になった。

 見慣れた部屋の見慣れたベッド。

 そこにさも当然のように、双葉――と彼が名づけてしまった少女――が眠っていたのだ。

「……」

 呆れながら近寄る達也。

 双葉は掛け布団も巻き添えに胎児のように身を丸め、幸せそうな寝息をもらしている。

 猫。

 本人がそう主張していた時は取り合わなかったのに、達也は何となくその動物を思い浮かべた。

 日溜まりで寝こけるその姿は、褐色に色あせた思い出の残滓のような絵画にも似ていた。

「…しかし」

 何故この身元不明娘は人のベッドで寝ているのか。

 まあ、ベッドとは寝具である。つまり人が睡眠をするための器具である。そういう意味では、トランポリンの上で眠られているよりかは理解に易しいだろう。

「ったく――…」

 取りあえず、肩でも揺すって起こしてやることにする。

「おい、お前――」

 ぱしっ!

「……痛え」

 はたかれた。それも割と強い力で。

「んにゃ――……」

 寝返りを打つ。ばさっ、と長い髪が翻ると、シャンプーの香りが達也の鼻腔をささやかにくすぐった。

 満ち足りた寝顔だ。

「……」

 そろそろと手を伸ばす達也。

 ばしん!

「痛えっ!」

 さっきよりパワーアップしていた。

「くそ…こいつ起きてんじゃねえのか」

 ひりひりと痛む手を摩りながらごちる達也。

「というか…別に起こす必要はないんじゃないか?」

 自分のベッドを不法占拠――ということで、よく考えもせずに起こそうとしてしまったわけだが、彼女は別に学校にいかなければならないわけでもないのだ。

 ということでさっさとモーニングコールを諦め、踵を返す。

「――って、おいおい」

 返しかけて、自分に呆れる。そもそもは鞄を取りに来たのに、それを忘れてどうするんだ。

「――ん」

 達也はあることに気づいて眉をしかめた。

 昨日、鞄をベッドと壁の間に放り込んでしまっていたのだ。

「…まぁ、こうまで爆睡してるのを起こすのも忍びないしな」

 まるで言い訳のようにそう呟いてから、達也はそーっとベッドへと近づいた。

「ぐ…」

 なんとまぁ、絶妙な配置なことか。

 スタイルの良い双葉は手足もすらっと長い。それらがまるでフォーメーションを形成するかの如く、達也の鞄への接近を困難にしている。

「ああもう…面倒臭えな」

 双葉の肢体に占有されていないスペースに達也はそっと膝を落とす。…ぎし…とかすかにきしむスプリング。達也はそのまま手を伸ばし、鞄の取っ手を掴もうとした。

 がばっ!

「うぁ?!」

 一瞬、態勢を崩されたこと以外何もわからなくなる。

 柔らかな感触と心地よい芳香を気にしていられたのは一瞬だけで、呼吸や身じろぎすらままならない。

「ん…ぐっ」

 身をよじるようにして、何とか首から上を自由にする。

 新鮮な空気を求めて深呼吸をすると、甘い香りで胸が一杯になった。

 気が付けば、真正面に端正な顔。

 せっかく可能になった呼吸が再び止まった。

「…すぅ……」

 邪気のない寝息が、達也の前髪と心の中の情欲を揺らした。

 ――まずい。

 今は朝だ。そして、一介の男子高校生が、惜しげもなく身体を押し付けられて抱きしめられている。

 しかもその相手は身元不明の世間知らずだ。

 手を出したら――

(だ、駄目人間だ……)

 理性がその持ち主とともに息を吹き返した。

(と、とにかく鞄をっ…!)

 懸命に腕を伸ばす。

 が、双葉が壁となって立ちはだかる。真っ直ぐ伸ばせば鞄の持ち手に届くというのに、彼女を抱くようにしか伸ばせない腕。これ以上の接触は即ち毒、達也は双葉の身体に触れないよう腕をぷるぷると振るわせる。

「あと…すこし、だって、のにっ……」

 五指で最も長い中指が、すっすっと持ち手を掻いている。あと一歩踏み出せれば届く。あと本当にもう少しなのだ――。

 ぐらっ…

「な…うぁ!」

 ――ばさんっ。

 横に寝ている人体を、面積費の関係から仮に直方体と見なしてみよう。水平方向から観察した場合、当然それは縦長の長方形に見えるだろう。縦長故に重心は高く、回転モーメントが増大すればたちまちそれはぐらりと傾き、倒れこむだろう。

 つまりはそういう理屈で、達也は九十度回転して、同じように九十度回転した双葉の上に覆いかぶさっていた。

「っ――――」

 きらきらと朝日をはじいていた寝顔に、ぼんやりと影が差す。

 しかしその中で――ふっくらとして、その処女雪のように滑らかな唇が、本来の薄桜色に色づいて艶めいていた。

 重力がTシャツと彼女の胸の間をふわりと埋め、そよ風として押し出された空気が、達也に双葉の香りを届ける。

「―――、ぁ」

 両腕を維持できているのはまったく僥倖だ、と達也は思った。

 すこしでも気を抜けば吸い寄せられる。

 双葉の香りに惑わされないよう、首をぎぎぎと最大角、上に可動させて、ゆっくりと深呼吸をする。潜水艦になった気分だ。

「ふ、ぅ――――…」

 鞄は十分手が届く距離にあった。

 左手一本で崩れ落ちないことを十分すぎるほどに確認すると、そろそろと右手を持ち手に伸ばして、しっかりと掴む。

「よいしょ…」

 ゆっくりと、慎重に、冷静に、ストイックに、ハードボイルドに――わけがわからないがとにかく、牛歩戦術も真っ青のスロースピードで、達也は双葉の上からどいていく。まったく事情を知らない人物が彼だけを観察していたとしたら、きっと鞄の中身を衝撃式の雷管を仕込んだプラスティック爆薬とでも疑ったかもしれない。

「……………」

 右ひざをあげる。急激な傾斜の発生で双葉を起こしてしまわないよう、そろそろと――。その甲斐あってか、達也はようやっと、女の子を自分の下に組み敷いているという状況から脱することができた。

 ただ、悲しいかな。その安堵はあまりにも大きすぎて、彼から最後の最後、詰めの注意力をさらってしまい、

「っ…う、おわあっ?!」

 どてん!

 ベッドの端っこに膝立ちなどという無謀な真似をしていた達也は、案の定後ろに落っこちた。

 背中を打ちつけた。息が苦しい。

「――っぅ〜〜…。けほっ、うぇっ…」

 数回咳き込んで、達也はちくしょうと毒づいた。朝っぱらからひどい目にあった。

「ん…?」

 と、もぞもぞとベッドの上で動く影。逆光で見えないが、彼をさんざん翻弄したいたずら猫のお目覚めのようだった。

「ん…んふ……んにゃ……」

 真正面から差し込む日差し。思わず細める目。

「…………ひざし……あさ、であるか……」

 もごもごと発声機能の試運転のように呟き、弛緩した腕にやっとこさ力を入れて、のろのろと身を起こす。

 逆光を背負った彼女は――つまり日差しを浴びてよく見える、しりもちをついたままの達也を見て、

「……タツヤ、なのである」

 ほんとうの陽だまりの猫のように、ふにゃりと悩みのなさそうな幸せな笑顔を浮かべた。

「………起きたら、タツヤがいるのである。

 ――これは、予想していたよりも、何だか遥かに嬉しいのである」

「……」

 馬鹿みたいにぽかんと口を開け、しりもちをついたままの達也を見下ろして、双葉は笑顔から微笑みに変わった顔をくぃ、と傾げる。

「おはようなのである、タツヤ」

 角度が変わって、影に日差しがさした。

 後光に照らされたその笑顔は、嘘みたいに綺麗で、見た目どおりの大人びた微笑みだった。



「………」

 ――かつんっ。

「…いけね」

 シャーペンを取り落としたことで、自分の意識が遊離していたことを認識する。授業中にこの音は響く――と、ささっとペンを拾い上げて、

「だぁーかぁーらぁー! TVCでコブラでクルビットなスホーイが最強!! なんだって!」

「AWACSに引っ張ってこられたラプターにかかって一網打尽だと思うけど」

「なにおぅ?! 何だあんな変なカタチの機体! 悔しかったら二次元のベクタードスラストでクルビットしてみろってんだ!」

「結局色モノマニューバの話に戻るのか…」

 母親手製の弁当をつつきながら、騒がしいのが二人。

「………呆然」

 いつの間にか昼休みだった。