きょろきょろと辺りを見回す。

 周りには人、人、人。

 がやがやと喧騒と活気に満ちる中を、おぼんを抱えた達也はうろちょろしていた。

 おぼんの上には湯気を立ち昇らせるうどんのどんぶり。

「うし、見っけ…」

 目ざとく空いている席を見つけた達也は、素早くそこに滑り込んだ。かと思うとすでに手は割り箸を割っており、座り直しながら麺をすくい上げていた。

 混雑した食堂ですることはひとつ、手早く食い終わることである。少なくとも達也の信条はそうである。

「あれ、浅岸川くん?」

 ただし、話相手がいるならばその限りではない。達也は真正面からの聞き覚えのある声に、箸の先ごと麺をダシの中に戻した。

「――先輩。お久しぶりです」

「そだねー、何か最近出くわさなかったよねぇ」

 何か愉快なのか、右へ左へとかくかく首をかしげながらにこにこしているのは、呼称通り達也の先輩、三年生だった。

 熊野 莉乃。達也と彼女は真緒子を通じた知り合いであり、料理部部長の彼女は達也に料理部に特別顧問としてたまに手伝いに来てもらっている、という間柄であった。

「……ひょっとして避けられてた?」

「そりゃ無いです」

 但し、一目見て彼女の年齢を看破するのは非常に困難だ。

 有り体に言うと――まぁちみっちゃくておまけに童顔なのである。

「…すれ違っても気づかないことは何度かあったが」

「え? 今、ぼそっと何ていったの?」

「すれすれ近くにもハンダ付かないのはNAND回路だがって言ったんです」

「…? 不思議だねぇ、電気回路の話になってるね」

「ええ、不思議ですね」

「えへへ、これが会話というものの面白さだね」

 内心「いえ、面白いのは貴方です」と呟きつつ、ずるずるとうどんを啜る達也。

「でも、浅岸川くんが一人なんて珍しいね?」

「珍しいですか」

「うん。だっていつもは二見くんとまおちゃんと一緒じゃない?」

「――――まぁ、そうですけどね」

 事実の指摘と言えばそうなのだが、校内でも有数の著名カップルのあの二人とそうひとくくりにされると、自分がものすごい無粋者に言われている気がして憮然としがちな達也であった。

「うん、そうでしょ? 今日に限ってどうしたのかな」

「実は今朝喧嘩しまして」

「え? 達也くんが二人と?」

「違います。俺は関与してないです。犬も食えないやつです」

「あ。それは、珍しくないね」

「ええ」

 自分がけしかけたものだということは、まるで漂わせずしれっと頷く。

「それで…気まずいから、達也くんはいっしょに居ないの?」

「いえ。さっさと仲直りして常態以上にくっついてるだろうから、気を利かせて二人にしてやってるわけです」

「あはは。気を利かせたっていうよりも、きみがそういう空気が苦手だからでしょ?」

「それもあります」

 うどんを啜ってもふもふさせながら、他人のそんなもん好む奴のほうが珍しいでしょ、と付け加える。

「暖かく見守ってあげればいいのに」

「なまじっか知った奴らだから、あーいう空気はかたはらいたひです。だから、遠くから生暖かく見守ってるんですよ」

 ちなみに'かたはらいたし'は'傍ら痛し'の意で、「うわー、こいつイタイなぁ、そばにいるとしんどいなぁ、いたたまれないなぁ」と思うときに使うものである。

「というわけで、先輩と旦那さんのこともヌルめに見守ってますから」

「なんかヤな言い方だなぁ…」

 不満があるんだぞ、と顔をしかめてみせる莉乃。ただし凄みはまったく無い。

 ちなみに達也が「旦那」と称したのは、莉乃のお相手である年上の男である。達也とも既知で、二人して「莉乃が卒業したら籍を入れる」と豪語したのも聞いたことがあった。

 彼の周りにはぶっ飛んだ人たちが多い。

「浅岸川くんも、そういう相手を見つければそんなこと言ってられなくなるよぉ」

「そりゃ楽しみですね」

 茶化すように答えながらも、この小柄な先輩の力説ぶりを前に、達也は皮肉めいた笑みに隠れて、本当にちいさく微笑んだ。彼は別に恋愛に対して冷めているわけでもないし、身近なこの二組の男女が築いている絆に対して一定の敬意を払っているから。

 ただ…

(なんで人の頭にまで現れるかね、あの居候…)

 皮肉めいた笑みの幾分かは、自らの思考も正確に把握できていない自分自身に向けられたものであった。



 がらっ。

 昼休み終了の五分ほど前に、達也は教室に戻ってきた。

「いや、うわゴメン、ゴメンって! お前のエイブラムス蹴っ飛ばしちったことは謝るからさ!

 なぁお前、聴いてんのか、おいちょ――」

「問答無用、デッド・シックスだ! フォックスツー、フォックスツー!」

 ぶすっ。

「うぎゃああ―――っ! 深い、それ深いっ!」

 ぴしゃん。

 すたすた。

 がららら…

 教室の戸口を開けてすぐ妙なものを見た達也は、きわめて冷静にもう一方の入り口をくぐった。

 すたすたと歩いて自分の席に向かう。

 いつもはチャイムと同時にばたばた帰ってくる健が、珍しく既に着席していた。

 変にご機嫌な様子である。おおむね達也の予想通りの昼を送ったらしい。

「お、達也。何かシケてんな」

「…高校生にもなって浣腸してる奴を見てヘコまない奴はいない」

「混ざってくればいーんじゃねえか? 新しい地平が目の前に広がるかもしれんぞ」

「そんな不毛な大地に用は無い」

 どっかと席につくと、習慣的に次の授業の予習内容を頭の中でざっと流し読みする。特に問題はない。

「……」

 手持ち無沙汰、窓の外を眺める。

 あいつに鍵を渡すわけにもいかないので、家に鍵はかけてきた。

 ―――自分を猫と自称する奇想天外で赤の他人な娘に、留守番を頼む。

 極めて落ち着かない状況である。

(何かしでかしてないだろうな…あいつ)

「…珍しく思案顔だな」

 頬杖をついてぼーっと達也を見やっていた健が、ぼそっと呟いた。

「おい、珍しくってどういう意味だ」

「いや、お前の思案顔ってただのしかめっ面とあんま変わんねーからさ。で、お前はだいたいしかめっ面だろ。

 はっきりこれと分かる思案顔ってのは、それはそれはレアだぜ」

「…ほっとけ。一人暮らしだといろいろあるんだよ」

 その言葉を待ってましたとばかりにニヤリとほくそ笑むと、じりじりと達也ににじり寄る健。

「おいおい、やっぱ今朝のアレか? 新しく出来た女」

「アタラクシア出来たもんな…?」

「どんな聞き間違いだっ! 女だよ、女。夕べは楽しくよろしくやってたんだろ? うっへへへへ、わかってんだぜ?」

 妙な顔と仕草でにじり寄る健。

 それに対して、達也は――うんざりしていた顔を、急に引き締めた。

「健…前から思ってたけど、お前は…」

「…? な、何だよ」

 怪訝そうに身じろぎする健を見据えて、達也は重々しく告げた。

「お前は…………とても、品性下劣だな」

「溜めて、しかもずばり言うんじゃねえよ!」

「しかし、観察される限りお前は品性下劣だ」

「多少は作ってんだよ、お前をイジってやってんだよ!」

「そうだったのか…俺は、「二見 健」が「品性下劣」にエイリアスされてるとばっかり」

「お前の中ではそこまで「俺=品性下劣」なのかよ…」

「あ、ショートカットでもいいけど」

「一緒だっ!」

 吼えて、がっくりと肩を落とす健。

 達也はほんのりとした勝利感に浸ると、次の授業の英語の教科書とノートをてきぱきと準備するのであった。



   § § §



 ――――それは、遠い遠い霞んだ思い出。



”こんにちは。仔猫さん”



 別に、華美というわけでもない。

 特に、飾られているわけでもない。

 けれど、それでも今も色あせない、向日葵みたいな笑った顔。



”えへへ。いい仔だね”



 頭を撫でる手は少し無遠慮だったけど、

 それがありがたいぐらい心地がいい。



 人語を解するが故に、「幸福」というモノの呼び方があるのは知っていたけれど、

 そんな無粋なものを、今ここにだけは差し挟みたくなかった。



 長く生きて、初めて感じたモノがある。

 いままでだらだらと月日ばかりを通過してきたけれど、許されるならば、これからはそれを胸いっぱいに抱いていたい。理屈にまみれたこれまでの生き方を振り払ってそう思った。



 そう思って―――思ったのだけれど、新たに人の気配がして茂みに引っ込んだ。



 最後に交わした目。

 その目は、名残惜しそうに、けど嬉しそうに、ただ自分だけを――



”また明日ね――”



   それが、彼女と交わした始めての思い出――――



   § § §



「…………」

 ぼーっとするアタマでも捉えられるくらい、最初に見た光景はシンプルだった。

 きれいな天井。ほこりの少ない室内灯。

 下には、ソファのもこもこする感触。

「ん…んにゃ」

 身を起こした。

「達也…?」

 誰も居ない部屋。静かな部屋。

 ぱちんと状況と状況が線でつながるまで――不安と孤独で脳みそがはちきれそうになった。

「…夢を、見た」

 知らず、呟いた。

「夢を、見たのである、タツヤ―――」

 ぽた、ぽた。

 ただこの世界にほうり出されて、アタマは整理してない古本屋みたいにごちゃごちゃだったのに。

 どうしてだろう。ああ、整理されていないのはこの胸も同じ悲しいのか、悲しくないのか、悲しいから泣くのか、別の理由で泣くのか、なにもかもがわからない。



 ぽた、ぽた。

 そうして、双葉は誰も居ない部屋で独り、わからないままに泣いていた。