官僚について


国家の運営を迅速かつ効率的ならしめるために専門化・階層化された職務体系を持ち、
明確な権限の委任と合理的規則による管理運営の体系を司る人々、官僚。
特に明治体制下において、官僚の範囲は狭く、その権威は高く、彼らは「天皇の官吏」としての矜持を高く持していた。
ここでは、その官僚の地位と、「官僚気質」の移り変わりについてみてみたい。


○ 官僚の階級
明治体制下には、官僚には厳然たる階級があった。その階級差別は非常にきびしく、明確なものであった。
まず大きく分けて高等官判任官に分けられる。
高等官は「法令に遵守して之を施行するもの」と定められるが、これは勅任官と奏任官に分けられる。勅任官をさらに詳しく腑分けすれば、親任官勅任官に分けることが可能である。

親任官は階梯のトップである。天皇の親任式を経て任命される。それだけに官僚が通常の累進を続けるだけではきわめてなりがたい、あくまで特別のものである。
勅任官については、親任式は開かれず、御璽を捺した勅書によって任命される。高等官一等、同二等がこれにあたる。
奏任官は、内閣の奏薦によって天皇の勅裁を得て、内閣の印璽を捺して任命した。高等官三等から同九等までがこれにあたる。

水谷三公氏の研究(「官僚の風貌」中公新社)によれば、親任官を除けば、勅任官は国家公務員指定職に、奏任官が本庁の中堅幹部・幹部候補生にあたるという。
つまり高等官は概して、現在のキャリア組(国家公務員試験T種(上級甲)合格者で、本庁に採用されている者)にほぼ相当するという。

これに対して、判任官は行政官庁が天皇の大権の委任を受けて任用する官吏のことである。法令上は「上官の指揮を承け庶務に従事する」と定められた。
判任官には一等から四等まで、ほぼ俸給に相当する区分があった。やはり水谷三公氏の研究を引用すれば、今日の国家U種にほぼ相当し、
人事異動の多い高等官に比べて実務現場の呼吸をよく心得ていたという。

さて、官員として勘定されず、雇用契約による使い走り同然だったのが、雇人傭人である。雇人の年金は「二年勤めて一年分に換算」されたというし、傭人に至っては年金もなかったという。
一般官吏からはパートタイマー、アルバイトに似た存在として認識されていたと思われる。

さて、高等官の中でも天皇から直接任命される親任官と勅書によって任命される勅任官とではその差は開いていたし、さらに勅任官と内閣の奏薦によって任命される奏任官との開きはさらに大きかったと言われる。

それは単に俸給のことだけではなくて、様々な点で差別・区別が存在した。
以下、先に挙げた水谷氏の「官僚の風貌」によれば、勅任官と奏任官、天皇から下賜される品物は同じでも、勅任には菊の御紋が入っているとかであり、特に判任官にとっては勅任官は「殿様以外の何者でもなかった」という。
馬車に乗れたのも勅任官以上の特権で、大久保利通内務卿が紀尾井坂で横死を余儀なくされたときは、
「諸省の勅奏任官も争うて内務卿の屋敷へ赴かるる車馬、東西に馳せ違い」
というありさまだった。区別差別は食堂・便所にも及んでおり、食堂では高等官用の食卓と、判任官の食卓とは違っていて、高等官扱いで大蔵省に入省した若槻礼次郎が、いざ入ると行革のために判任官用の食堂に出入りしなくてはいけなくなり、温厚怜悧な若槻も「・・・・面白くない。人を馬鹿にしておる!」と激昂していたと言われる。それくらい、官僚にとって区別・差別は大きかったし、それを持っていることが一種の誇りとして存在していたことは間違いのないことのようである。

○ 官僚のできるまで
・官僚制の導入
明治政府は西南戦争後、近代国家の整備に向けて大きく動き始めるが、そのなかで官僚養成機構の創設も急がれるべき課題であった。
ここで言う官僚養成とは、司法官などの比較的、専門性の強い官僚のことを意味しない。どの省庁に配属されても機能しうる、普遍性のある行政官一般の養成を目的としたのである。
ドイツの官僚制取調にあたった伊藤博文らはそのモデルを、普仏戦争で「世界一の陸軍国」フランスを破り、日の出の勢いだったドイツに求める。
試験制度をドイツに求める一方、文部行政はその試験のレベルに達する学生を育てる、事実上の官僚養成機関を創設すべく、その素地として明治19(1886)年、帝国大学令を発した(法科大学が官僚養成の中心となる。のち、京都帝国大学が発足すると東京帝国大学と改称)。司法省には司法官養成所として「法学校」があり、海軍省には「海軍兵学校」がある。帝国大学は行政官一般のそういった養成所と規定されたのである。

・試補制度の発足と挫折
明治21(1888)年、試補制度が機能を開始する。
帝国大学卒業者には無試験で試補に採用し、高等官待遇の見習期間を経て官員に正式任用する制度であった(一木喜徳郎によれば、初の試補官僚は「先ず珍しいのと、半ば奨励的意味で採用された」)。
同年、試補採用試験実施(前年に「文官試験試補及見習規則」が制定され、それに依拠する)。
各省の採用枠のうち、帝大からの学士試補で埋まらない分を試験で採るようにしたもの。主に私立専門学校(のちの早稲田、慶応、獨協など)の学生が受験した。しかし、明治23(1890)年、議会で「民力休養」の名の下に予算が削減されると、この試験は廃止される一方、帝大からの無試験採用はそのまま据え置きとされた。これに猛反発したのは私学陣営であり、マスコミと結んで大々的に反政府デモンストレーションを開始した。
こうして、政府は帝大をも試験対象とする、あたらしい制度の創設をせまられることになる。

・高文試験の実施
明治27(1894)年、こういった経緯を踏まえて、帝大、私学も包括的に試験対象とする「高文試験(文官任用高等試験)」が実施される。
試験は満20歳以上の男子(のち女子にも開放)であり、試験自体は採用試験でなく資格試験。つまり採用試験ではなくて、その資格が一生にわたり、各省は合格者の中から採用可否を出すことができるものである。中学卒業程度の基礎知識、迅速作文試験、自宅起案論文試験を問う予備試験(帝大生は免除)と、本試験であった。本試験の試験科目は、憲法・刑法・民法・行政法・国際法と経済学が必須科目で、財政学、商法、刑事訴訟法、民事訴訟法のいずれかが選択科目であった。

ところが、初回の高文試験は帝大生がボイコットする。
これまで無試験で官僚への道が開けていた帝大生が、急に制度がかわったことによって私学の学生と試験を受けなければならなくなったのであるから、プライドがずたずたである。政府の方針撤回を望んだのだが、政府も譲らず、結局27年度卒の帝大生は翌年受験するが、官僚としては冷や飯を食わされて終わる。翌年28年はその影響か、「花の二十八年組」と呼ばれるほどに次官・主要局長級が続出するのである。


こうして、高文試験は定着し、「高文学士官僚」が誕生してゆくことになる。

○ 官僚たちの横顔

ここでは、後世において著名な官僚政治家たちの学歴と官僚としての累進を見ることによって、彼らが登るべき階梯と、官僚が何をめざしたのかが少しだけわかるように思う。
要するに功成り身を遂げた人々の実例集だと思っていただければよい。


・若槻礼次郎(1866-1949、大蔵官僚)
のちに憲政会=民政党総裁として名を馳せる若槻は、また類い希なエリート官僚であった。
島根県松江の足軽の家格の奥村家に慶応二年に生まれ、のちに叔父の養子となって若槻を名乗った。
司法省法学校に入学し、法学校の予備門(のちの東京高等中学校、さらに第一高等学校)編入に伴ってそちらに移った。
森有礼文相が殺害され、その葬儀の際には生徒代表として列席し、明治天皇の鹵簿を迎える際には旗手に選ばれるほどの俊秀であった。帝国大学(このときには予備門の生徒は無試験で入学できた)には法科に入るが、高校、帝大、通して主席を占め続けた。平均点は98点というからほとんど化け物である(少なくとも管理人には信じがたい)。
若槻はもちろん官途につくつもりで、最初は農商務省を希望したが容れられず、内務省もうまくゆかず、逓信省もよくなく、結局、先輩の
水町袈裟六の推薦で試補として大蔵省に入った。若槻はこの推薦の一件を、添田寿一が卒業式の直後に知らせてくれるまで知らなかったと述べている。
年齢 事項
明治25 27 試補として入省。参事官室勤務。
明治26 28 試補が奏任官待遇なら無給、判任官待遇なら有給に。
若槻は後者を採るも非常に憤慨していたという。
添田寿一銀行課長の下で銀行係長。
明治27 29 愛媛県松山収税長に転出。前任は床次竹二郎
明治29 31 本省で新設の理財局に勤務。理財局長は松尾臣善
明治30 32 主計局主税官に転出。主税局長は目賀田種太郎
内国税課長を拝命。議会ごとに大蔵省政府委員として答弁に当たる。
明治37 39 主税局長に栄転。
明治39 41 阪谷芳郎蔵相の推輓によって、大蔵次官。
西園寺公望の満州視察に随員となる。
明治40 42 政府財政委員(財務官)として英都ロンドンに駐在。
明治41 43 帰朝後、桂太郎首相(第二次桂内閣)兼蔵相のもとで大蔵省事務次官。
明治44 46 大蔵次官を退職。錦鶏之間伺候を仰せつけらる。
桂太郎の欧州視察旅行に随行。桂新党に参加、以後政党人の道を歩む。

・芳澤謙吉(1874-1965、外務官僚)
戦前には北京駐在大使、戦後には台湾国民党政府に大使として駐在した有能な外交官として有名である。と同時に、自由民権運動の闘士で五・一五事件で非業の死を遂げた政党政治家・
犬養毅の娘婿でもある。新潟県頸城郡諏訪村の庄屋に生まれた芳澤は、小学校を卒業後、高田城付近の高田中学校に入学。上京の念已みがたく、卒業後に神田駿河台の成立学舎、ついで東京英語学校(校長は杉原重剛。教員に志賀重昂など)に入校したが脚気を病み、仙台の第二高等中学に転入した。この頃から歴史と外交に興味を持ち始めたようである。帝国大学では当初史学科に入ったが、やがて英文学科に編入。二年の半ば頃、「謀反気を起し」、外交官試験を目指して勉強をはじめる。チフスにかかって一年を棒に振るが、そのあと英文学科の最終試験をうけたのち、英文に関する参考書類を全部売り飛ばして外交官試験の問題集を買い込むほど勉強に明け暮れた、そのために友人から絶交されたり、二年と三年は首席だったのに四年になって一気に成績が「尻から二番」となっている。
明治三十二年九月、外交官試験をパス。論文試験、外国語の公文摘要、口述要領筆記などは容易に解けたが、行政法の口頭試験で
一木喜徳郎にさんざんやられたが、なんとか合格することができたという。
年齢 事項
明治32 25 外務省に入省。韓国の京城公使館に赴任を命ぜられる。
明治33 26 外交官補から領事館補に転官。廈門領事館に赴任する。
明治35 28 上海総領事館に転任。
明治37 31 牛荘在勤を命ぜられる。
明治38 32 ロンドン総領事館在勤を命ぜられる。
犬養操と結婚。
明治39 33 本省勤務を命ぜられる。政務局書記官を拝命(外相は林董)。
明治41 35 政務局第一課長を拝命(外相は小村寿太郎)。
明治43 37 駐英大使館一等書記官を拝命(駐英大使は加藤高明)。
明治45 39 帰朝、明治天皇崩御の参列貴紳の接伴委員となる。
漢口総領事を拝命。
大正2 40 帰朝。父・襄良が頭取をしていた直江津銀行破綻により、実家へ帰参。
大正8 46 政務局長の依頼によりその補佐となる(政務局長は埴原正直)。
のち埴原の後任として政務局長。
大正12 50 北京駐剳特命全権公使(外相は内田康哉)。
抗日運動の緩和、露国代表
カラハンとの間に日露基本条約。
昭和5 57 フランス駐剳特命全権大使(外相は幣原喜重郎)。
昭和7 59 犬養毅内閣に外相として入閣。
貴族院勅撰議員となり、交友倶楽部に入会する。
昭和15 67 蘭印に派遣される(肩書きは芳澤が拝辞。異例の遣使となった)。
経済交渉は不成功に終わる。
昭和20 72 枢密顧問官に任命。
昭和21 73 パージにひっかかり、公職を追放される(昭和26年解除)。
昭和27 79 台湾政府に初代大使として赴任。
昭和31 84 免官、退任する。

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