シーメンス事件」(シーメンス−じけん)

 大正三年(1914)に明るみに出た、海軍高官の収賄事件。海軍出身の山本権兵衛ひきいる第一次内閣を倒壊させる引き金となる。またの名を、シーメンス・ヴィッカース事件とも言う。
 事の発端は、ドイツの重工業会社であるシーメンス社社員カール・リヒテルが同社の機密文書を持ち出し、これを種に東京支店の支店長を脅迫しようとしたことにはじまる。しかし同支店長は脅迫を突っぱねたため、リヒテルはこの機密文書をロイター通信に売却した。リヒテルはその後逮捕されたが、その公判審理中、彼の持ち出した文書の中に日本の海軍将校にシーメンス社が贈賄していた記録文書が含まれることがあきらかになった。事態は俄然、海軍の腐敗問題に発展すると同時に、海軍を母胎とする山本内閣の責任問題に発展した。
 立憲同志会島田三郎はこの問題に関して厳しく追及し、世論もにわかに沸騰した。大正三年二月には藤井光五郎少将(艦政本部第四部長)、沢崎寛猛大佐などが逮捕され、軍法会議にかけられた。野党主導の内閣弾劾国民大会も日比谷公園で開催され、興奮した大衆は議事堂を包囲しようとして警備の警官らと衝突。あたかも大正政変の騒擾が甦ったかのような東京市内の混乱が続いた。
 検挙の手はさらにすすみ、今度はシーメンス社のみならず、ヴィッカース社の艦艇を発注させるように誘導するため、三井物産の岩原謙三が明治四十三年(1910)にまたも海軍高官に贈賄した嫌疑で拘束された。また、当時の艦政本部長であった松本和中将が贈賄された人物であったことが判明した。
 松本、藤井、沢崎などはいずれも軍法会議において執行猶予なしの有罪を宣告され、また山本内閣も予算案における海軍増強案を否決されて総辞職した。後継内閣として成立した第二次大隈重信内閣は、海軍粛正を掛け声に、海軍の重鎮であった山本権兵衛斎藤実を予後備役に編入した。

『侍従長の回想』」(じじゅうちょう−の−かいそう)

 元海軍大将で、戦局押し迫る昭和十九(1944)年に侍従長となった藤田尚徳の回想録。
 軍事参議官を最後に海軍を退役した藤田尚徳は死病の床についていた愛妻の最期を見とったあと、明治神宮宮司を務めたが、その後松平恒雄宮相に乞われて侍従長職に就任した。その時分から回想録ははじまり、その後の天皇の生活を軸に、近衛上奏文鈴木内閣成立、聖断、玉音盤奪取事件から、戦後まもなくの天皇・マッカーサー会談と、天皇が戦犯らの拘引に心を悩ませ退位を口にしたことも記されている。人間宣言で筆は置かれているが、こののち、藤田は公職追放によって侍従長を引かされ、愛知県安城市で余生を送ることとなった。
 回想録は最初、昭和三十五年に講談社より刊行され、のちに中央公論社から文庫化された。

「シベリア抑留」(シベリア Siberia - よくりゅう)

  第二次世界大戦後、ソ連軍の捕虜となった日本兵が、ソ連領内において長期間強制労働を余儀なくされたこと。その期間は人によってまちまちであるが、二年以上に及ぶ。

 大戦末期、戦況は日本にとって日に日に非であったが、その水面下で和平の方策が手探られていた。その有力な手がかりが日ソ中立条約によって友好国と見なされていたソビエト連邦による連合国と日本との仲介案であった。
 ところがそのソ連が、昭和二十(1945)年八月、日ソ中立条約を突如破棄してソ満・日ソ国境を侵して南進した。満州、樺太、千島に侵入したソ連軍は日本兵と戦闘を交えつつ最終的には日本兵を屈服させて武装解除を行っていった。
 武装解除された日本兵は、まずハルビン、奉天、敦化などの集結地に集められ、そこから各地の収容所(ラーゲリ)へ送られていった。なお、ラーゲリ送りにされたのは軍人だけではない。満鉄社員、満州国官吏、開拓農民など、民間人も多く含まれていた。その人数は、五十五万人以上といわれ、推定で七十万人ともいわれる。
 日本人将兵については、その後、約千人の作業大隊に分けられて、モスクワ近郊からシベリアをまたいで沿海州にかけて点在する2000カ所ともいわれる収容所に移送されていき、そこで強制労働に当たらされることとなった。とはいえ、いかにソ連通の人々でも、この捕虜生活が今後二年以上、人によってはさらにそれ以上に上る長期抑留になるとは、誰も考えていなかったであろう。彼らは、ソ連兵のいう「トーキョー・ダモイ(東京へ帰る)」という言葉を信じて、ラーゲリに収容されていったのである。
 そのラーゲリの環境は、劣悪であった。総計五十万人以上の捕虜を完全に収容できる施設が整っていたとは到底考えられない。しかし、その一方でソ連国内、特にウラル以西は独ソ戦争で痛めつけられ、一刻も早い復興のために労働力を必要としていた。捕虜たちは、ソ連復興のための労働に駆り立てられる一方で、自分たちを収容する施設を自分たちで造るという皮肉を味わわされたのである。
 彼らが従事した作業は、その場所や能力でまちまちであった。森林伐採、鉱山作業、建築作業、採石作業などである。シベリアの酷寒のため、作業中、素手で鉄材でもさわろうものなら皮膚が癒着して、無理にはがせばべろりと赤むけになってしまうということも間々みられた、という。この労働には一日ずつ作業基準量(ノルマ)が課せられ、ロシア人監督官たちはそのノルマを達成させるために捕虜たちを追い使った。食糧供給も貧弱をきわめ、白米を食べた人がどれほどいたかという惨状であった。
 この抑留開始後半年、1946年はじめになると、「シベリア民主運動」なる活動が各収容所で活発化してきた。従来、抑留されている捕虜たちの間では、旧軍時代の階級秩序が牢固として残っており、内務班のような組織も健在であった。食糧の配分も、上級者が多くとり、下級者は当然のように少ない取り分となっていた。抑留されて初めてのシベリアの冬を迎え、生死に関わる食糧や防寒具の取り分が従来通りであれば、下級者は餓死か凍死の運命を免れない。そこで彼らは団結して軍隊組織を否定したわけだが、次第に変質し、共産主義に転向する人々を多く生むものとなった。将佐官や彼らに同情的な人々を「反動」呼ばわりする融通のきかない「民主主義運動」になったのである。当時ハバロフスクの第十三分所に収容されていた瀬島龍三中佐(帰国後、伊藤忠商事に入社し、業務部長を経て副社長、会長。退任後は中曽根内閣の臨調委員となる)も「反動」と吊し上げられた一人であった。

「労働の過酷さは肉体的な問題であるが、それにも増してきつかったのは、民主運動であった。作業に行っても帰っても、作業班の連中は我々を『反動』呼ばわりした。少しでも手を抜けば、がみがみ言い、昼の休憩時には、車座になって自己批判を強制したり、『対ソ侵略の実態を白状しろ』と迫ったりした。ソ連人から言われるのならまだしも、同胞であり将校だった連中から言われるのは、何とも言えず、情けない限りだった。」

 のちに、シベリア民主運動はさらに急進化して共産主義色をつよめ、「反ファシスト運動」となり、全ラーゲリに広がっていった。「万国プロレタリアの祖国・ソ同盟を擁護せよ!」などのスローガンを掲げる運動が展開された。この結果、「赤大根」(外側は赤いが切ってみると白い、つまり上辺だけ共産主義運動に服従するもの)や帰国するための「ダモイ民主主義者」が多く出たのであるが、実際抑留中にソ連共産主義に心酔し、帰国後共産主義運動に挺身したものや、ソ連に帰化したものもあったことも、事実である。
 昭和二十一(1946)年から、抑留者の帰国が開始された。この帰国を決める優先順位とされるものは、はっきりしていない。抑留者たちは、それぞれ言う。曰く、民主運動に深く関与したもの。曰く、ノルマをより達成したものとも言う。ともかく、帰国船はナホトカ港から出て、舞鶴港へ入港した。ナホトカに逐次集められた抑留者たちは、乗船に際して「復員式」を行っている。新木芳男氏の日誌によれば、インターナショナルの斉唱、ソ連邦への感謝文の朗読、スターリン万歳、インターナショナル斉唱で締めくくられるものであった、という。
 こうして、昭和二十二(1947)年には十九万五千、二十三(1948)年には十七万人、二十四(1949)年には八万七千人、二十五(1950)年には八千人、さらに昭和三十一(1956)年までに一千人が帰国した(前述の瀬島龍三氏は、シベリア民主運動の主人公で「シベリア天皇」とよばれた浅原正基らとともに昭和三十年の最終挺団で帰国した)。帰国した抑留者たちの前に、さまざまな喜びと悲しみが待ち受けていたであろう。妻子と再会できたものは幸せであった。戦災や引き揚げで妻子をうしなっていたことをようやく知ったもの。帰宅すると、家で待っているはずの妻はすでにほかの男性のもとに再嫁していたもの(自分の弟と妻が結婚していた、ということも戦前社会ではしばしば行われていた。そういうこともあったようである)。

 だが、帰国した人々はまだ、幸せであったのかも知れない。厚生省援護局の報告によれば、抑留中の死者は五万五千人。ソビエト政府の報告は四千人を割る。しかもその埋葬は、墓標すらないといわれている。

参考資料 朝日新聞社編「アルバム・シベリアの日本人捕虜収容所」、瀬島龍三「幾山河」(産経新聞社)ほか

爵位」(しゃくい)

 上から順に、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の称号のこと。これらを受けた人々が「華族」と称されたが、日本国憲法の発効と同時に消滅した。

上海事変」(シャンハイ−じへん)

第一次上海事変(1932.1-5)
 満州事変から諸外国の眼を逸らそうとして、公使館付武官であった田中隆吉少佐が関東軍の依頼を受けて仕組んだ、日蓮宗系僧侶の中国人による暴行・殺害事件の謀略が発端となった。
 この事件(謀略だが)に、日本居留民は本国に派兵を要請、現地外交官のトップであった村井倉松上海総領事陳謝・犯人処罰・抗日団体の解散を軸とする抗議を行った。中国側はこれに対し、やや遅延して全面承認の回答を行ったものの、すでに租界には戒厳令が敷かれていた。また、全面承認の回答が行われたにも関わらず、日本陸戦隊と中国軍は戦闘状態に入った。日本は二月、犬養内閣芳澤謙吉外相のもと上海への陸軍派兵を決定、中国利権を荒らされることをおそれた英米仏三国の大使は芳澤に停戦調停を申し入れたが、芳澤はこれを拒否した。
 しかし上海郊外の戦闘はなおも激化し、日本はさらに上海派遣軍を編成し、現地へ派遣したことによってようやく中国軍は共同租界周辺からの撤退を行い、日本軍も停戦を声明した。結局イギリスによる斡旋が実現し、上海停戦協定が締結された。
 その数日前の四月二十九日、天長節祝賀会において朝鮮人の投じた爆弾によって白川義則上海派遣軍司令野村吉三郎海軍大将重光葵公使などが死亡、あるいは重傷を負うなどの上海爆弾事件が起こった。

第二次上海事変(1937.8-)
 第一次近衛内閣成立後まもなく、盧溝橋事件が勃発して北支事変(のち日中戦争)の発端が開かれた。
 長江周辺の中国居留民はまず漢口、さらに上海への引き上げを政府から命じられたが、その上海においていわゆる「大山中尉殺害事件」などがおこり、にわかに上海も騒然としてきた。近衛内閣は上海へ二個師団派遣を決定、さらに上海派遣軍松井巌根大将)が編成され、上陸を果たした。上海周辺の戦闘は中国軍のクリークを利用した巧妙な防衛線に翻弄されたが、さらに上陸した柳川兵助(派遣軍の将の名を最初秘されたため、「覆面将軍」と呼ばれた)が中国軍を横撃してようやく勝利をおさめた。しかし、上海における戦役はあまりにも激しく、政府はこの戦争自体の呼称を「北支事変」から「支那事変」へと改める、戦線は拡大するに至った。泥沼といわれる日中戦争の開幕であった。

重臣」(じゅうしん)

 斎藤実内閣総辞職の際、宮中に集められて元老とともに後継首班奏薦の任に当たった、元首相、枢府議長のことをいう。
 この「重臣」の列を確定するに当たり、牧野伸顕は、政党出身者を入れると後継首班奏薦が党派的になりはしないかと懸念したが、西園寺は政党出身者を排斥する理由がないとして、民政党総裁・若槻礼次郎と、元政友会総裁・高橋是清を重臣の列に加えた。
 また、「参与するのは前官礼遇を賜わった者だけでいいのでないか」という意見もあったが、それも排せられ、礼遇を受けていない広田弘毅ものち、重臣会議に列することになる。
 以後、重臣はその比重を高めていく。西園寺は湯浅倉平内大臣木戸幸一内大臣府秘書官長(のち内大臣)などと協議を重ね、自己の手の内にあった後継首班推薦権を内大臣と重臣が宮中で協議し、奉答するスタイルに変更していったためである。
 しかし、重臣たちはすでに政界を半ば引退し、現今の政局にも疎い者が多かった。もちろん、各界に多くの友人知人を持つ近衛文麿や岡田啓介などのように海軍や企画院などのニュースソースを持つ者はいたが(岡田の女婿迫水久常は企画院官僚)、そういった重臣は多くなかったのである。
 そのため、会議でもそれほど有効な意見が吐けえず、実際は重臣会議は内大臣の主導によって成立し、内大臣の主導によって結果が生まれることが少なくなかった。東條内閣が生まれたときの重臣会議はその典型例であると言っていい。
 だが、東條内閣の戦争指導が退勢になると、これまで死んだようであった重臣連のなかでも活発に動いていた近衛、岡田などがエンジンとなって、東條内閣倒閣を策するようになる。これが成功すると重臣は一つの政治勢力として見直されるようになり、天皇も戦争への見通しを個別に下問したり、終戦工作の枢機にも、重臣が関わるようになる。
 昭和二十(1945)年8月15日、ついに終戦が成ったが、それ以後、木戸内大臣は強いて重臣会議を開く必要を認めず、鈴木貫太郎内閣の後継首班奏薦には、平沼騏一郎枢密院議長と懇談して東久邇宮を奏薦。東久邇宮内閣の後継には、木戸、平沼、近衛の三者会談で幣原喜重郎を奏薦。幣原内閣の後継には、木戸がすでに戦犯として巣鴨収容所に収監されていたこともあって、幣原自身が後継首班を奉答した。
 こうして、新憲法公布によって、「奏薦システムを必要としない後継首班決定」が法文化された。こうして、重臣会議の必要はなくなったのである。

終戦の詔書」(しゅうせん−の−しょうしょ)

 昭和二十年八月十四日に起草された、戦争終結についての天皇の言葉。同月十五日正午にラジオ放送を通じて流され(「玉音放送」)、これによって戦争は終結した。
 昭和二十(1945)年八月、主要連合国である米英中三国の名で発せられたポツダム宣言は、政府内に大きな反響を呼んだ。鈴木内閣はこれを検討する姿勢をとったが、マスコミは検討を「黙殺」と表現、それを拒否と判断した米国は広島・長崎に原爆を相次いで投下。またソ連が宣戦、満洲北方国境を突破して南下し、いよいよ日本の運命は抜き差しならないものになった。
 最高戦争指導会議の席上、陸相と両統帥部総長の条件降伏論と東郷茂徳外相の国体護持条件論が対立して決着が付かなかったが、鈴木首相は天皇に対して聖断を乞い、天皇は東郷茂徳外相の意見を採ってポ宣言受諾と国体護持のみの条件に同意した。
 これを連合国に対して、中立の立場にあったスイス、スウェーデンの両公使を通じて回答させたが、米国バーンズ国務長官は、
日本国の最終的の政治形態はポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意志に依り決定せらるべきものとす
 と回答、事実上、国体護持の条件は蹴られた。
 バーンズの回答を受けて、閣議と最高戦争指導会議はなお紛糾、陸相と両統帥部総長は再照会を主張したが、再び鈴木首相は天皇に聖断を要請、天皇は自らの意志によって無条件降伏を決意し、二度の聖断を経て終戦の決定は為された。
 その聖断の際、天皇はただちに詔書を作成することを命じた。だが実際は、詔書はそれに先だって第一次の聖断のあとから作成が進んでいた。詔書の作成に当たったのは、迫水久常内閣書記官長漢学者川田瑞穂である。まず川田が草案を起こし(川田原稿。朕深く世界の大勢と・・・という頭文がここで完成)、それを基に迫水が第二稿を書き下ろした。これに手を加えたのが陽明学者で大東亜省の顧問であった安岡正篤である。安岡案では重要な改正点として、有名な堪え難きを堪え忍び難きを忍びの前後に一文があった。すなわち前には春秋左氏伝からとった義命の存する所という一文を入れ、後ろには近思録からとった万世のために太平を開かんと欲す(昭和五十六年、茶園義男発見)を入れてあった。つまり安岡草案ではあの有名な一文は、
義命の存する所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、万世の為に太平を開かんと欲す
 という形であったことになる。この形で十四日午後四時、閣議に提出されたが、この閣議での了承がおりない。阿南陸相は「戦局日に非にして」という点に異論を差し挟み、「戦局必ずしも好転せず」と改めさせた。また、安岡の改めた「義命の存する所」は「時運の赴く所」など、訂正点は40カ所に及んだという。天皇が皇居内にNHKの手によって設けられた録音室に入ったのは午後11時半のことであった。こうして、天皇みずから詔書を朗読する「玉音盤」は完成した。
 さて、迫水は後年の談話録音の中で、こう語る。
もう何遍直したろうか? 10日の晩11日、12日、13日の晩。つまりね、これが本当に使える段階かどうか、いつかの段階で吾々殺されたら闇から闇へ葬られて再度、宣戦の詔勅が出てくるか判らないのだから、そりゃあもう殺されるということは非常に頭にありましたね
 迫水は軍事クーデタを非常に恐れていたのである。その最悪の事態は十五日午前一時過ぎの玉音盤奪取未遂事件として現実化する。だが、奪取は未遂に終わり、詔書は正午、放送された。
詔書

朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し茲に忠良なる爾臣民に告ぐ朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり
抑々帝国臣民の康寧を図り万邦共栄の楽を偕にするは皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々措かざる所曩に米英二国に宣戦せるも亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て他国の主権を排し領土を侵すが如きは固より朕が志に非ず然るに交戦巳に四歳を閲し朕が陸海将兵の勇戦朕が百僚有司の励精朕が一億衆庶の奉公各々最善を尽くせるに拘らず戦局必ずしも好転せず世界の大勢亦吾に利あらず加之敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る而も尚交戦を継続せんか終に我が民族の滅亡を招来するのみならず延て人類の文明をも破却すべし斯の如くむは朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せんや是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず帝国臣民にして戦陣に死し戦域に殉じ非命に斃れたる者及其の遺族に想を致せば五内為に裂く且戦傷を負い災禍を蒙り家業を失いたる者の厚生に至りては朕の深く軫念する所なり惟うに今後帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず爾臣民の衷情も朕善く是を知る然れども朕は時局の趨く所堪え難きを堪え忍び難きを忍び以て万世の為に太平を開かんと欲す
朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り若し夫れ情の激する所濫に事端を滋くし或は同胞排擠互に時局を乱り為に大道を誤り信義を世界に失うが如きは朕最も之を戒む宜しく挙国一家子孫相伝え確く信州の不滅を信じ任重くして道遠きを念い総力を招来の建設に傾け同義を篤くし誓て国体の精華を発揚し世界の時運に遅れざらんことを期すべし爾臣民其れ克く朕が意を体せよ

粛軍演説」(しゅくぐん−えんぜつ)

 昭和十一(1936)年五月に開催された第六十九議会において民政党代議士・斎藤隆夫が行った内閣への質問演説。
 岡田内閣による解散総選挙の直後、東京で起った軍事クーデタ二・二六事件ののち、岡田内閣は総辞職して広田弘毅が内閣首班として立った。その広田内閣で初めて開催された第六十九帝国議会において、広田首相は施政方針演説を行い、翌日には衆議院各会派からの質問演説が行われた。民政党からは斎藤隆夫代議士が立って一時間二十五分に及ぶ長大な演説を行った。演説の内容は、「革新」の実体の曖昧さを突き、広田内閣の国政改革の大要の質問を行った後、軍部革正=粛軍を軍部に強く要請すると同時に議会軽視の傾きのあった軍部への批判演説として知られ、選挙民や他会派の議員をはじめ、マスコミ各紙からも激賞されたもの。斎藤はこの質問演説で一躍名演説家の名声を手にした。
 寺内寿一陸相もこの演説を真摯に受け止める旨を声明し、確かに彼によって粛軍は進められた。しかし、それは軍紀引き締め・統制のゆるみを立て直すための粛軍となる。つまり皇道派粛清のために行われた内部革正であったが、斎藤の指摘したもう一つの重要な点、すなわち軍人の政治介入の面ではますますこれを進めた。

条約派」(じょうやく−は)

 濱口内閣時代に開かれたロンドン軍縮会議で、軍令部を中心とする「艦隊派」が、
「補助艦の保有率が対米七割でなければ、日本の国防がおぼつかない」
 としたのに対し、
「ここは、強硬に対米七割を主張して会議を瓦解させるよりも、日本が会議を円満にみちびくことが重要で、将来の日本の国際的立場安定にも繋がる」
 と考え、積極的に同会議をまとめようと働いた勢力のこと。財部彪海相岡田啓介小林躋造野村吉三郎などの大将連のほか、山梨勝之進海軍次官左近司政三堀悌吉なども主導した。
 結局、会議は対米比率69.75パーセントに持ち込み、調印されたが、この条約の批准をめぐって、艦隊派とそれに煽られた貴族院、また野党・政友会が厳しく政府を攻撃した。また、軍事参議官会議でも艦隊派の担いだ東郷平八郎伏見宮博恭などが積極的に財部海相以下全権団を攻撃し、岡田啓介などはこれをかばい、
「確かに国防上欠陥はある、しかし政府が責任を持って補填すれば心配は要らない」
 と弁護したが、最終的に妥協案として、財部海相に辞任させざるをえなくなった。結局、条約自体は枢密院が、
「無条件御批准しかるべし」
 と報答したことによってけりがついたが、この艦隊派・条約派の争いは海軍に大きな爪痕を残した。
 艦隊派の首脳であった加藤、末次は辞任のやむなきに至ったが、また条約締結を推進した海軍次官の山梨勝之進、首席随員であった左近司政三、軍務局長堀悌吉などが予後備に編入されることになり、条約派は海軍省から大きく後退、かわって艦隊派と見られる人々が進出したからである。
 また、従来陸軍では常に陸軍省より参謀本部の方が優位に立ってきたが、これに反して海軍は軍令部よりも海軍省の方が優越していた歴史があったが、この条約派の後退によって、艦隊派の巣であった軍令部がその地位を高めることになった。

昭和天皇独白録」(しょうわてんのう−どくはくろく)

 1988年、米国ワイオミング州キャスパーでマリコ・テラサキ・ミラーによって発見された、昭和天皇の口述書類。
 マリコ・テラサキ・ミラーは終戦後まもなく宮内省御用掛を務めた寺崎英成と、アメリカ人女性グエンドレン・ハロルドの間の娘である。彼女の息子のコールがこれをミラー家で発見し、1990年12月号「文藝春秋」に全文掲載され、話題を呼んだ。
 同書は、松平慶民宮内大臣松平康昌宗秩寮総裁木下道雄侍従次長稲田周一内記部長、寺崎英成・御用掛が昭和天皇の記憶を聞き語りしたもので、その参考書類として「近衛公日記」迫水久常の手記が添付されている。聞き語りが始まったのは昭和21(1946)年6月1日から、まず張作霖爆殺事件から起稿されている。昭和天皇はここできわめてざっくばらんにその時々に感じたこと、また人物月旦を語っており、きわめて興味深い。
 しかし、本書を読む上で注意すべき事は、「独白録」が東京裁判で天皇が訴追されないための弁明書であった点である。
 これは本書の英訳版が見つかったことで明かである。そのため、どうしても所々にその意図が現れていることに注意すべきである。

所得倍増政策」(しょとく-ばいぞう-せいさく)

 1960(昭和三十五)年七月に発足した池田勇人内閣は、前内閣の「安保騒動」によって損なわれた政治への信頼を取り戻すため、強い経済政策を打ち出す姿勢をとっていた。この中核となったのが「所得倍増計画」である。池田首相による自民党新政策は九月五日に、そして「国民所得倍増計画」は十二月二十七日に閣議決定された。
 所得倍増計画の原案を世に示したのは、当時一橋大学学長を退いていたエコノミスト・中山伊知郎であった。中山は1959(昭和三十四)年年頭に、読売新聞に、
「福祉国家という大目標は今日も依然として未来像の中核たるべきものであると思う。・・・この未来像には一層具体的な形が与えられねばならない。その具体的な形として、私はあえて賃金二倍の経済を提唱して見たい」
 と書いた。タイトルは「賃金二倍を提唱」であった。これが、池田に閃きを与え、彼の「勘」を働かせた。池田は中山の意見を前尾繁三郎宮澤喜一ら側近集団や、経済問題のブレーン下村治と共に咀嚼し、嚥下し、自らのものとした。地元広島での二月の講演会で、この「賃金二倍論」は第一声をあげた。池田は言う。
「日本の経済は力をつけてきました。この力をさらに伸ばしていけば、皆さんの賃金を二倍、三倍にするのも夢ではないのです。今後五年から十年の間に皆さんの賃金を二倍、三倍にすることは必ずできます。必ずできるのです」(沢木耕太郎「危機の宰相」)

 池田はこの後、岸後継の自民党総裁選を石井光次郎と争い、勝利する。池田側近の伊藤昌哉が、
「総理になったら何をなさいますか」
 と聞くと、池田は言った。
「経済政策しかないじゃないか。所得倍増でいくんだ」
 
 「国民所得倍増計画」は、立案された1960(昭和三十五)年から目標年度である1970(昭和四十五)年までに、国民総生産を26兆円まで引き上げることを目標としていた。中期目標としては、1963(昭和三八)年に17兆6千億を達成することが求められた。
 この計画を成功させるために必要とされたものは、
@農政・漁業の新政策の実施。農政の基底となる農業基本法を制定して農業の近代化を推進すること。
A中小企業の生産性を高め、二重構造の緩和と、企業間格差の是正をはかるため、各般の施策を強力に推進するとともにとくに中小企業近代化資金の適正な供給を確保すること。
B国土総合開発計画の再検討。後進地域の開発促進ならびに所得格差是正を実施し、税制金融、公共投資補助率等について措置を講じて地域に適合した工業等の分散をはかることによって地域の生産性を高めること。
C公共投資の計画的再配分によって、経済発展に即応する公共投資の効果を高めること(特に道路、港湾、都市基盤の整備は急務である)。
D輸出振興策を実施し、輸出の拡大と外貨収入の拡大を図る。また観光など貿易外諸収入の増加策も実施する。


 政策の結果から言えば、日本経済は池田とブレーンであった下村治の予想を大きく上回る形で成長した。実質国民総生産は約6年で、国民1人当り実質国民所得は7年で倍増を達成した。昭和三十六(1961)年、いわゆる「岩戸景気」が終焉して景気は低落傾向に見舞われた(同年の経済成長率は6.4%)が、その一年後には再び上昇し、昭和三十七(1962)年以降再び十パーセントを超える経済成長を見せたのである。

 高度成長は日本を様変わりさせた。まずモータリゼーションの進行である。乗用車の国産化は、昭和三十(1955)年頃から大型投資が進み、一挙に進展を見せた。昭和三十五(1960)年までに富士重工のスバル360、日産自動車のダットサン310(ブルーバード)が開発され、当時の年収に匹敵するような高額品だったにもかかわらず非常な売れ行きを見せた。日本人の自動車保有台数は鰻登りの形容がふさわしい進み具合であった。「マイカー時代」の到来である。社会資本の充実と相俟って、高速道路の整備も進んでゆく。それを背景に、小売のシーンも大幅な転換を見せていった。それまで、駅前商店街を中心としていた形態は、駐車場を持つビルへの入居、そしてもう少し後には郊外型のショッピングセンターという形で結実してゆく。

 高速鉄道網の整備も進行していった。新幹線である。急速なモータリゼーションの進行を見て、高速度鉄道不要論を唱える学者・官吏もいたが、当時の国鉄総裁十河信が押し切り、閣議決定まで持ち込み、着工にこぎ着けた。昭和三十九(1964)年、東京・新大阪間に東海道新幹線が開通したが、新幹線は日本の技術の高さを象徴するものとなり、その後、山陽新幹線、東北新幹線が次々と着工された。
 むろん、この成長には多くのひずみも残した。佐藤内閣以降の政治が宿痾として抱える公害問題、農漁村の離農と過疎の問題、東京一極集中などはいずれもこの時期に噴出、もしくは病根を持つものである。

神兵隊事件」(しんぺいたい−じけん)

 昭和八(1933)年七月、要人暗殺計画が発覚し、その首謀者らが一斉に捕らえられた事件。
 中心勢力となったのは、右翼玄洋社黒龍会系の団体である大日本生産党愛国勤労党のメンバーである。その中で大日本生産党青年部長の鈴木善一が主謀格で、東京府内に擾乱を起こし、陸海軍に呼びかけて戒厳令を施行させようと試みた。計画の日取りは七月十一日、天皇が陸軍士官学校に行幸になる日は府下の警備も緩むであろうとの見通しにたって定められていた。その行幸に先立って、行幸経路の不審人物検束が行われたが、その際にたまたまこの計画の参加者が検束され、これによって事件が発覚、計画本部であった神宮講習館に一斉捜査の手が入ったのである。
 なお、この計画にはパトロンがあったといわれ、それは久原房之助とも言われるし、安達謙蔵からとも見られるし、また宇垣一成から出たのではないかという説もあった。「西園寺公と政局」によれば、憲兵隊特高課長は宇垣からのルートが明確であると言っているらしい。しかし原田熊雄は、「これは要するに宇垣を中傷する宣伝にすぎまいと思う」と言っており、当時の政局がいかに複雑化しているかを伺わせる。
 さて、この神兵隊事件も相沢事件五・一五事件と同じく公判法廷が開かれたが、ここにおいて神兵隊は分裂し、その一派はのちに結社「勤王まことむすび」に発展することになる。

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