中 央 大 橋
(ちゅうおう おおはし)

 全長 : 210.7 m  全幅 : 25.0 m  構造 : 2スパン 連続斜張橋  完成 : 平成 5年 (1993)
 架 設 区 間  中央区 新川 2丁目 <==> 中央区 佃 2丁目  (八重洲通り)


『中央大橋』 (斬新な主塔のデザインが映える)

主塔は 「兜(かぶと)」 をデザインしたもの
 
【中央大橋】
『中央大橋(ちゅうおう おおはし)』 は、中央区新川 と 佃 との間で
八重洲通りから新川へと続く通りが 「隅田川」 を渡る橋で、
その創架は 「隅田川」 の橋梁群の中ではかなり新しく、平成 5年(1993) 8月である。

【橋名の由来】
橋名は中央区のシンボルとして架橋したことから付けられたというが、
命名にあたっては、佃地区に 『佃大橋』 があるように、
新川地区に 『新川大橋』 があるべき・・・との異論もあったという。
「橋」 はその地区のシンボル的存在になるため、
中央区ではマイナーなイメージの 「新川」 を(失礼!)有名にするチャンスであったのだろう。
結果的には 『中央大橋』 で落ち着いたが、あまりいい名称とは言い難い。

【石川島地区】
江戸時代には、「隅田川」 の河口付近には 「佃島」 と 「石川島」 の二つの島があった。
「佃島」 の由来は 『佃大橋』 の項で述べたが、
「石川島」 はその昔は 「鎧島(よろい じま)」 と呼ばれる無人島であったという。
この 「鎧島」 に 石川八左衛門 が屋敷を建てたことから、「石川島」 と呼ばれるようになった。
「石川島」 には、江戸時代は 「人足寄場(懲役場)」 があった。
これは現在でいう 「刑務所」 で、軽犯罪者の更正施設としての役目を果していたらしい。

【石川島造船所】
幕末の嘉永6年(1853)、黒船の来襲に驚いた幕府の命により、
水戸藩が石川島に 造船所 を建造し、「石川島造船所」 と命名された。
軍艦の建造を目的としたもので、この造船所は明治政府にも引き継がれていく。
これが 「石川島播磨重工(IHI)」 の発祥であった。
現在 「石川島」 の地名は 「佃」 に統合されて残っていないし、
IHI の工場跡地は 「リバーシティー21」 の高層マンションへと姿を変えている。

 

【鎧 兜】
このように歴史のある 「佃島・石川島地区」 であるが、
『中央大橋』 の架橋地区一帯は、ウォーターフロント開発の拠点地域でもある。
「リバーシティー21」 など、両岸に林立する高層ビル群の中で、
高い主塔とスマートな橋桁、それを繋ぐ張材のロープがこの橋の存在感を際立たせている。
ユニークな主塔の形は、架橋地点がかつて 「鎧島」 と呼ばれていたことから、
鎧と対をなす兜(かぶと) をイメージしてデザインされたものという。

【平成の橋】
『中央大橋』 の開通は平成 5年(1993) であるが、その少し前の1980年代後半から、
公共事業に対する地域住民の関心が高まりはじめ、
同時に建設する側も環境や景観などに配慮するようになってくる。
下流側の 『佃大橋』 のような、機能性と経済性のみを追求した橋は敬遠され、
ゆとりのある橋が計画されるようになっていった。
『中央大橋』 はその代表的な例で、
バブル時代の追い風もあって、かなり高価ではあるが、素晴らしい橋になっている。

【オブジェ】
橋脚に置かれた彫像は、フランス人 オサップ・ザッキン 作の 「メッセンジャー」 という作品である。
「隅田川」 はパリの 「セーヌ川」 と友好河川の縁組みをしており、
これを記念して東京都が屋形船を贈った返礼にと、パリ市から贈られたもの。
1937年、ザッキンが47歳の時に 「パリ万国博覧会」 に出品した作品だそうそうである。
ただ、この像は 「隅田川」 に向って立っており、橋上からは後ろ姿しか見えないのが少々残念だ。


遠景 (下流の 「佃大橋」 より)

この角度からの眺めもいい雰囲気

厚みはないがスッキリとした親柱

鋼製の欄干の支柱も主塔と同じコンセプト

きれいにカラータイル舗装された広い歩道

歩道と車道の境には草花が並べられている

主塔へと延びる力強いロープ

この部分が 「兜」 の角をイメージさせる

アプローチ (主塔が橋の存在をアピールする)

桁下にはインフラ用のパイプがない

パリから寄贈された 「メッセンジャー像」

「メッセンジャー像」の解説板

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