【両国橋】
『両国橋(りょうごく ばし)』 は、中央区東日本橋 と 墨田区両国 の間で
「京葉道路」(国道14号) が 「隅田川」 を渡る橋である。
『両国橋』 は江戸時代の前期、寛文元年(1661) に幕府によって架橋されたもので、
「隅田川」 では 『千住大橋』 に次ぐ第ニ番目の橋であった。
【隅田川と橋】
「隅田川」 の両岸を結んで利便性を向上させることも、架橋の大きな理由ではあったが、
「江戸城」 の守りを考えると、橋は外敵の進入を容易にするものとして、
幕府内には反対意見も多かったという。
その反対意見を押し切って架設するきっかけになったのが、
江戸最大の大火といわれる 「明暦の大火(振袖火事)」(1657) であった。
火災で逃げ場を失った江戸市民は 「隅田川」 まで逃れてきたが、
川を渡れずに多くの焼死者を出した。
これを教訓に避難路としての 「橋」 が架設されたわけである。
なお、本所側にある 「回向院」 は、この大火の犠牲者を弔うために建立されたもの。
【大 橋】
架設当時の橋名は 『大橋』 と呼ばれていた。
隅田川第一橋の 『千住大橋』 も当時は 『大橋』 という名称であり、
「大川」(隅田川) に架かる 「大きく立派な橋」 というところから命名されているようである。
江戸時代の初期、この二つの 『大橋』 は非常に貴重な存在であり、
また、江戸の町民達は今まで見たことがないほどの、大きな橋であったと思われる。
『大橋』 の名称には、そんな町民達の橋に対する感謝や畏敬の念も込められているのであろうか?
【橋名の由来】
その後、この橋の下流側に 「隅田川第三の橋」 が架設され、『大橋』 に対して 『新大橋』 と命名された。
この頃には 『大橋』 は 『両国橋』 とも呼ばれていたようであるが、
『新大橋』 の架設を機に、『両国橋』 を正式名称にしたと伝えられている。
当時は 「隅田川」 の右岸(日本橋側) は江戸(武蔵国) であリ、
対岸の深川・本所方面は 「下総国」 であったため、
その両国を結ぶ橋ということから付けられた名称であった。
【橋詰広場】
明暦の大火の後、江戸市中には防火のための 「火除け地」 が各所に設けられることになる。
その一つが橋詰広場で、『両国橋』 の両岸にも広場が設置された。
現在のように長距離の移動手段がなかった当時は、「橋」 があるだけでも観光地となったが、
江戸の後期になると、広場に見世物小屋や茶店などが集まるようになり
遊興地として栄えるようにもなっていった。
「隅田川花火大会」 の前身である 「両国橋大花火」 が始まったのもこの頃からである。
【トラス橋】
明治30年(1897) の花火大会では、『両国橋』 に詰め掛けた見物客の重みで欄干が崩れ、
数十人が犠牲になるという事故が発生している。
これを機に鉄橋への架け替えが計画され、明治37年(1904) に3スパンの鋼製トラス橋が架設された。
このトラス橋は関東大震災後の復興事業で架け替えられることになるが、
被害の少なかった中央径間部分は、「亀島川」 の最下流に架かる 『南高橋』 として移設された。
この 『南高橋』 は、現在都内に残る道路用鉄橋としては最古のもので、
当時の雄姿を伝える貴重な資料でもある。
【現在の両国橋】
現在の 『両国橋』 は、震災復興橋梁として昭和 7年(1932) に架設された鋼製の桁橋である。
橋桁部分は単調な直線の桁ではなく大きな曲線を用いており、
角度によってはアーチ橋のようにも見える。
また、歩道や欄干、歩車道分離柵などには、近くにある 「両国国技館」 を意識して
相撲をモチーフにした装飾が施されるなど、
桁橋ではあるが、歴史のある橋として恥じないものにしようとの意気込みは感じられる。
ただ、残念なのは側面の配色・・・橋桁部分の薄緑はいいとしても、
橋桁上部及びバルコニーの赤は、もう少しトーンを落としたほうが良かったのではないだろうか?
好みの問題ではあるが、う〜ん・・・・・。