2015/11/23 up  [もどる↑]
◇こちらとあちら
 標準が違ったら  マイナスもプラスも  責任のありか  良い面悪い面

標準が違ったら

疾患で疲れやすい身体では、週5日フルタイムの仕事を続けることは難しい。
健康な人のペースが基準の世の中では、週5日,7〜8時間,仕事に従事するのは当然なのだろうが、
その中でやっていく苦労をたとえるなら
身体に合わないキツキツの服しか与えられない、その動きにくさや不快感にも似ているが
基準(標準)が苦にならない人には感覚がわからないだろう。

障害者向け、就労支援の事業所の求人も、週5日程度のことが多い。
願い出れば身体に合わせて変えられるのかもしれないが
雇う側の希望通り働けない痛みを感じることになる。
私のような体力のない者の望む配慮は、そんなにも難しいものなのか。
もっと緩やかなデザインの服が標準にならないものだろうか。

もしも学校の教科書やプリントがとても小さな字で、よく目をこらさなければ見えなかったら。
他の人たちは苦も無く読んでいて、よく見えないのは自分ひとりだけのようだとしたら。
先生や他の人から内容を理解していないと指摘されたら、説明できるだろうか。
同じ内容の大きな字の教材を自分に与えてほしいと言えるだろうか。
見えない人のための教室へ行けと言われたら、どんな気がするだろうか。
メガネはとても高価で簡単に手に入らないし、度を合わせるのは難しいとしたら。
その中で、学校生活を続けるとしたら。……

自分で働いて生活を回していきたいという、
身体をいたわり、長らく快適に過ごしたいという、
そんな当たり前の望みを実現したいだけなのです。
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マイナスもプラスも

コップに半分の水を、半分しかないとみるか、半分もあるとみるか。
後者の見方がいいですね、その方が幸せになれます、とプラス思考のすすめ。
聞くたびに引っかかっていた。
私は、物事のマイナス部分に自然に目が行く。
考える間もなくパッと思い浮かぶ。
それではいけないというのだろうか…。
ひっくり返してプラスにできるけれど、ひと手間を意識するのは疲れてしまう。

たとえいいものでも、そればかりになってしまったら。
理想から外れることをいけないとみなして責められる。
自然と外れる自分を否定する、できない自分を責める。
そんなことが続くとしたら…。

プラスの視点ばかりならば、ここをもっとよくしなければ、
何かを変えなければ、という改善のきっかけを失う。
マイナスといえばいけないもののように思えるが、マイナス思考も使いよう。
幸せになるために必要なことは、少し外れたところにありました。
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責任のありか

手術後になかなか良くならなくて、処置のために手術室へ行ったり、血圧低下で点滴したり。
3か月に及んだ入院経験を、子どもだった私は受け止めるだけだったけれど、
その後、対応の悪さや不調を認めなかった医師の話を語る親のことばに悩まされた。
なぜそれを私に話すかもわからずに、腹立たしい思いをしたこともずいぶんあった。

どんなことがあっても、長く続けていくことになる関係。
仲人から相手を貶されたようなもので、
大変だったけれど乗り越えられたことを共有できなくて、
よくなかったことに意識が向くばかり

心配しているのとは何かが違うと感じていたが、ある時もれた言葉で理解した。
術後もっとよくなると思っていて、自分のせいで苦しい思いをさせたと感じていたのだ。
自分を責めていたから、周りに対しても許せなかったのか。
手術を決めた責任以上のものを、自分のせいだと背負っていたのか。

決断し任せた以上、結果はどうあれ、それは受け入れねばならぬもの。
万一つまらないミスで命を奪われたなら、その人の夢枕に立ってやる。
再手術のとき、そんな想いを持ちながら臨んだ。

あの人は、覚悟ができていなかった。
だから私への愛情よりも、別のものを強く伝えていた。
あれが自分にできる精いっぱいだったといったなら、感謝を伝えられました。
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良い面悪い面

小さな子どもや胎児への治療ができるようになり、
人工臓器や移植手術も周囲の大人の判断で行われているのを見ると、非常に気にかかる。
生まれついて形が異なる心臓を、良い状態になるよう治療した、
それは同時に、生まれ持ったその人の一部を否定する意味あいも含まれる。
治療に関わる個人にそんな気持ちはなくても、物事の表と裏の面が一体であるように。
臓器移植では、他人の死の上に成り立つという、もう一つ複雑な意味合いがついてくる。

若く未熟だった頃、生きていることがよいとは思えなかった。
周りの大人をみても、生きることが素晴らしいとは感じられず。
まして心臓病という問題を抱えた身体でやっていかなければならないと思うと
申し訳ないと思いながらも、助けられたことを私は拷問のよう感じた。

この世が素晴らしいものだと、先を行く大人が示さなくて、子どもたちに失礼ではないか。
人との関わりの密度が薄くなっている中、当人の力を過信されても困る。
当時は受け取り拒否もしていたように思うが、伝えてくれる人も少ない。
そんな中で、ただ生きることはよいことなのだというメッセージのみ伝えられれば、
何か大事なことを取り落としているようで。
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修復手術前のあまり動けなかった頃の記憶がある私は、
動けない経験を引きずっているところがある反面、
手術ができ、動けるようになった有難さも、
多くの方々の奮闘でそこにたどり着けたことも、身に染みている。
変えなければやっていけないことを意識する間もなく
この方がいいだろうと変えられる今の子どもたちは、どうとらえるのだろう。

幼い時のことも、記憶の断片がある。
言葉にできなくとも、感じ取ったものがある。
幼いなりの視点や判断が、大人より鋭いこともある。
伝わらないまま、埋もれているたくさんの想いがある…

周囲の思惑の中で、その環境に適応しながら育つ子どもたち。
こちらの想いを伝えていかなければ、間違って覚えてしまうだろう。
本来の言葉を閉ざせば、おそらくは後に心を病むことにもなるだろう。

生きることは、チャンスが与えられていること。
それは、これから良くなることができるということ。
喜び、苦しみ、楽しみ、悲しみなど様々な感情や出来事に出会い、
悪いと思えることも、やがて熟す時がくれば、実りとして糧にすることができる。
病や制限があっても、思いがけず豊かな世界にたどり着けるのです。
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