浦野事件

(2003年12月20日大幅修正改定)

 浦野事件は、加賀藩政時代の能登における最大の事件だったと言っても差し支えなかろうと思います。最大の事件であっただけでなく、その後の加賀藩内における能登の在り様を象徴する事件と私は評価します。そういう意味で、能登の人間にとってはこの事件を知ることは非常に意義がある事と考えました。今回、以前の簡単なあらましだけを書いていたコンテンツ(「道閑と宗閑−浦野事件-」)に、大幅な追記・修正を加え、詳細に事件の経過を記しました。
 (加賀藩内の独立国・能登半郡)
 加賀藩領の中で、鹿島(能登郡(と言った時代もあり))半郡(はんごおり)の約3万石は、天正8年(1580)に、長連龍織田信長から直接に与えられた領地で、連龍が利家の家臣となってからも、その由緒によって、長氏だけが給人支配をとっており、ここだけが独立国のようになっていました。それゆえ3代藩主前田利常が、小松城にあって加賀・越中・能登の3カ国の所領について有名な改作仕法を施行し、検地を行なっても、この半郡に手を入れることはできませんでした。前田氏の行政にとって画龍点睛を欠くものであり、前田家による中央集権化の癌であったことは否定できません。
 長連龍が亡くなると、2代目の好連(よしつら)は、穴水城を放棄して鹿島郡田鶴浜に居館を移し、金沢に住みました。この結果、長氏の家臣は鹿島郡に住む家臣団と金沢に住む家臣団の2派に分裂し、相互の間に次第に違和感が生じてきました。好連のあと弟の連頼(つらより・3代目)が立つと、加藤采女が金沢表の代表の家老として采配を振り、田鶴浜では浦野孫右衛門信里(高田村旦那垣内に居館があった)が国家老として采配を振るいました。なかでも毎日主君連頼と顔を合わす加藤采女は次第に長氏の中枢を握っていくこととなりました。こうして、一方は官僚化していき、他方は在野化-土着性を強くし在地の有力農民層との一体化が強められていきました。

(浦野孫右衛門信里)
 ところで、浦野孫右衛門信里は長氏筆頭の重臣であり、歴代の功績によって慶安より寛文にかけて在地家老として実験を有していました。しかし信里が、ここまで重用されるまでには実は、長年の苦難の道程がありました。
 信里の先代孫右衛門信秀は、慶長16年(1611)長好連死亡による家督相続問題で連頼を当主と定めた功績者でありました。好連には子がなかったので、家臣高田与助が連龍の娘2人に養子を迎えて連龍との3人で領地を分配する案を出しましたが、田鶴浜に在住する家臣等がこれに同意せず、孫右衛門信秀も領地分配には反対でありました。信秀は、高田与助などの不意打ちの陰謀を聞きながらも身の危険をおかして金沢へ出向き、前田家の重臣本多政重(5万石で禄高は家臣の中で最高)と会見し、その援助を得て、鹿島半郡を分けることなく連頼1人に相続させることに成功しました。しかしながら寛永11年(1634)に、連頼が重用した高田内匠(高田与助養子)が長家歴代の重臣を排除して、わが勢力を伸ばすために姦策をめぐらし、信秀を讒言しました。これにより信秀は連頼の怒りに触れ、長家を退散させられることになりました。しかし、伊予候松平隠岐守定行に認められて2千石で仕えたと伝えられています。その子兵庫(後の浦野孫右衛門信里)も、一時は高野山に隠れましたが父に続いて伊予候に取り立てられています。
 高田内匠は、浦野追放に成功してからは、わが意に従う者のみを推挙し、専横な振舞いが多く、家政が大いに乱れました。長氏の重臣の1人である加藤采女は、この状態を心配して、主君連頼を諌め、寛永19年(1642)に高田内匠を排斥し、浦野の復仕に努めました。この時、浦野孫右衛門信秀の子の兵庫が孫右衛門を名乗っていました。伊予候は孫右衛門を手放したくなかったのを、前田利常の依頼で慶安元年(1648)、長氏に復仕させたのでありました。
 孫右衛門信里は、以前の禄高に50石を加禄し、その子兵庫には別に200石が与えられました。また長氏の重臣で嗣子がなく絶えた阿岸家を次男・掃部に継がせ400石を受けさせました。

(深まる対立)
 この頃より浦野一族の実力は次第に強まり、領内の改作方奉行以下、十村(「とむら」と読む。他藩の大庄屋や大名主にあたる者で、加賀藩から代官の役目をおわされた)・肝煎の中で浦野に従う者が多くなっていったという次第でありました。在地家老の浦野にくみすることは、何かと便宜がよく、取り立ててもらえるとなれば当然の成り行きと言えました。しかし金沢居住の家臣達は、面白からず、家老の加藤采女を頭にして、反浦野を唱え互いに対立していくこととなったのです。加藤方は、常時金沢屋敷にある長氏の当主連頼を動かし、浦野を暴く運動をすすめました。先代の浦野孫右衛門信里と加藤采女は互いに助け合って長家に尽くしたのに反し、子の代になると反目しあっていたのです。連頼は、凡庸な主君であったので、若い頃には良臣の言を聞いて治安につとめた実績は多少ありましたが、この頃になると家臣間の争いさえもおさめえませんでした。浦野派が、この機会に連頼を廃して連頼の長子元連を立てる策謀をしたことも窺がえます。

(鹿島半郡検地騒動) 
 浦野孫右衛門と加藤采女の対立が深まる中、ある頃から浦野孫右衛門が、十村ら長百姓と力を合わせて新田を開き、それを私有しているという噂がたちました。そしてそんな中、
寛文5年(1665)2月、長連頼は、調査の意味を兼ねて半郡の新開地検地を行なおうとしましたが、これを加藤采女一派の策動と考えた浦野孫右衛門は、同年3月27日、検地は百姓の騒動をきたすものであるから取りやめ下さるようにと「検地御詫」を主君連頼の子・元連を中にたてて提出しました。しかし、加藤派に動かされている連頼は同年4月2日、三宅善烝・三宅新七の両人を検地奉行に命じました。かくして9月24日検地奉行は、関左近・関治左衛門を帳付に、吉田友兵衛を添帳付に命じ、小原次郎右衛門・小原兵右衛・藤田半助・不破武兵衛を検地算用仕立方として、鹿島路(現羽咋市-昔は鹿島郡内)から曽称(現に至る(現羽咋市-昔は鹿島郡内)に至る一部の検地を開始しました。ここに至り浦野派は、益々結束を固め、一派23名の誓詞文を書いています。起請文は次のようなものでした。
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 天罰起請文前書之事
一、互に相果申迄、九郎左衛門様、左兵衛様御為第一奉公諸事御相談可仕御事
一、此度御為之儀に付、生死如何様に罷成共(まかりなるとも)、此連判之者一所に可罷成御事(おんことまかりなるべし)
一、此度之儀(このたびのぎ)以来互に隔意(かくい)罷成共(まかりなるとも)毛頭他言仕間敷(もうとうたげんしまじき)御事右之条々於(おんことみぎのじょうじょうにおいて)偽申上者(いつわりもうしあげもうすもの)、忝(かたじけなく)も梵天帝釈四天王、惣而(そうじて)日本国中六十余州大小神祇、殊白山妙理大権現、八万大菩薩、天満大自在天神神罰、各々可罷蒙者也(まかりこうむるべきものなり)、仍而起請文如件(よってきしょうもんくだんのごとし)
  寛文六年四月五日
 浦野孫右衛門 浦野兵庫    阿岸掃部    中村八郎左衛門
 駒沢金左衛門 宇留地平八   阿岸友之助   関左近
 桜井次郎兵衛 是清伝左衛門  土谷八左衛門  永江善助
 伊久留八烝  飯坂源右衛門  岩間覚兵衛   田屋六郎左衛門
 仁岸権之助  仁岸権左衛門  長谷川吉右衛門 平井六左衛門
 粟津十兵衛  田辺七郎左衛門 村井七兵衛

(註1)カタカナに書いてある部分は、わかりにくいのでひらがなに改めた、また、読み下し文は私畝によるものである。
(註2)九郎左衛門様は、長連頼のことであり、左兵衛様は長元連(長連頼の子)のことです。
(註3)また一番はじめの条をみると、対立の中心は、連頼でなく
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・元連と連携をとり、また久江村(現鹿島町)の園田道閑(どうかん)、能登部村(現鹿西町)の上野、高田村(田鶴浜町)の二郎兵衛、三階村(現七尾市西三階)の池島宗閑(そうかん)、笠師村(現中島町)の太左衛門といった十村肝煎クラスの有力農民を煽動して策謀したため、検地はできず、半郡の空気は次第に険悪になっていきました。

(前田家の介入と前野一派の逮捕)
 連頼は、この事態を重視し、独力では処理不能と判断し、寛文7年(1667)2月15日、加賀藩の重臣である本多安房守・横山左衛門・前田対馬・奥村因幡・今枝民部を通じて浦野孫右衛門一派の罪状を連記した覚書をしたためて藩当局へ提出しました。
 当時は、5代藩主綱紀の時代ですが、長氏の当主・連頼が凡庸な人物でしたので、綱紀は、長連頼と長氏家臣団との相克の隙を突いていつかは鹿島半郡を直接支配しようと考えていました。この事件により、やっと解決する好機がやってきたわけでした。
 藩は直ちに罪状詮議を開始し、まず阿倍甚右衛門・松崎十右衛門2人に、孫右衛門を尋問させて罪状を調べ、同年3月2日、一味の逮捕に乗り出しました。
 まず孫右衛門を本多安房守邸に召喚し、そのあと浦野一族の8人を家臣の各邸で禁固としました。
 ○浦野兵庫(孫右衛門長男)を横山右近方へ    ○阿岸掃部(孫右衛門次男)を前田又勝方へ
 ○中村八郎左衛門(孫右衛門弟)を村井藤十郎方へ ○駒沢金左衛門(孫右衛門三男)を永原大学方へ
 ○宇留地平八(孫右衛門娘聟)を青山将監方へ   ○阿岸友之助(孫右衛門四男)を永原左京方へ
 ○伊久留八烝(孫右衛門弟)を西尾与三右衛門方へ ○仁岸権之助(孫右衛門娘聟)を前田主膳方へ
 
またこのほかにも一味徒党として捕らえられた者も多数いました。
 
 3月2日夜には、千田八郎平が領地に出張し、翌日には浦野に組する十村などを能登部村算用場に呼び出して取調べを開始。その結果、高田村の十村・二郎兵衛、子の八兵衛、笠師村の十村・太左衛門、三階村の十村・池島、能登部村の十村・上野らを田鶴浜の獄に入獄させ、久江村の十村道閑、子の兵八、六太夫、万兵衛、能登部村の小百姓永屋を能登部の獄に入れて取調べがおこなわれました。

 加藤派のもとで、行われた裁判でありますから、公平な裁判がされた可能性は低かったと思われます。しかし、そのような事に対して、浦野孫右衛門は異を唱えず神妙に応じたようです。彼は、加藤が今回の逮捕劇の主導者と思っていたのでしょうか。実際には、主君・連頼が前田家に通報してこの様な事態に至ったのですが、孫右衛門・兵庫・阿岸掃部の3人は
「九郎左衛門(連頼)方より私共不届之様(わたしどもふとどきのよう)に申上候事(もうしあげそうろうこと)に候(そうら)へは、兎角之申分無御座候(とにかくのもうしぶんござなくにそうろう)、私共如何様(わたしどもいかよう)に成共被仰付(おおせつけられなりしとも)、九郎左衛門家相続申候様(そうぞくもうしそうろうよう)に被成下候(くだしなられそうら)はば、難有(ありがたく)忝(かたじけなく)可奉存候(ぞんじたてまつるべくそうろう)」(読み下し文は畝による・・・・あまり自信はないですが)と述べています。
 訳すと「連頼様より、私めらが不届きだという届出があったようですが、それに対しては、何の反論も致しません。私共らは、どのような処罰を受けようとも、連頼様の家がそのまま相続できるよう処分を下してくだされば、大変有難く忝く思います」といった内容。大変な主君思いの言葉です。  

(道閑の口述)
 久江村の十村役を務める園田道閑は、検地に反対した首謀者として捕らえられ入牢していますが、次のような口述をしています。
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      覚
一、当春御検地御詑言の御訴訟に金沢に相詰候儀、全企に而は無御座候事
一、去年十月頃検地やみ申様に御訴訟仕候へと被仰候へ共、私共田地より出分も無之、迷惑成儀も無御座候故、度々御すすめ候へ共去年中は同心不仕候事
一、当月金沢へ罷登申刻、宇留地平八殿御申候、能州御検地の事此度御詑言申上可然候、去年浦野家訴訟の儀も、佐兵衛様、横山右近様御取持被成たる儀に候へば、此度其方共訴訟も、右御両方御聞候は悪敷は罷成申間敷と御申候、されどもヶ様之御訴訟申上、私共手前如何可有御座哉と無念在旨申候へば、平八殿御申候は、各身命を捨取持可申候間、是非御訴訟申上候へとて、其の後宇留地平八殿、駒沢金左衛門殿、飯坂源左衛門殿、御三人より五人十村方へ右文言にて誓詞被下候故、書付上申候事
一、当春金沢に罷在時分、宇留地平八殿、駒沢金左衛門殿より、肴代由にて銀子五十め、五人之十村方へ被下候、御使山内義兵衛にて御座候、関左近殿より銀子五匁、仁岸権之助殿より金壱分一切被下候事
一、当春佐兵衛様へ指上候書付下書、宇留地平八殿へ懸引談合仕候事

 右之通少も相違無御座候、以上
                                      久江村十村 道 閑 在 判
  寛文七年三月九日
     千田八郎兵衛殿    井関平太夫殿
     堀部勘助殿      三引六左衛門殿
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 陰田詮議では、「いんさ浜」左衛門開が問題となりました。この場所は、現在の田鶴浜町役場裏一帯から海岸に至る一部の地域で、上の台地から流出した土砂が自然に堆積されていったような地帯であります。このあたりの海岸線に連なる部落では、長年水害・潮害と苦闘しながら初めて安定した農地であった事を考えると、こっそり新たに開田し私服を肥やすといったことは難しく、讒訴であった可能性が高いと思われます。やはり加藤派の策謀の可能性が強かったと思われます。

(藩当局の浦野派への処罰)
 藩当局は、孫右衛門らを逮捕すると同時に、藩主綱紀を通して保科正之(会津藩主・3代将軍家光の弟で、綱紀の舅)とともにこの処分を協議しました。おそらく会津候は綱紀の後見人のような関係にあったのでしょう。
 寛文7年8月19日には 藩当局から判決が下りました。浦野孫右衛門は切腹、同じく一族の浦野兵庫、阿岸掃部(源太郎)、駒沢金左衛門、宇留地平八も切腹、中村八郎左衛門、仁岸権之助は越中五箇山に流刑となりました。また阿岸友之助は自決のため刑はされませんでしたが、これら切腹人のうち家族の男子は幼児に至るまで死刑という酷い処置でした。浦野一党に組した十村に所磔(見せしめに居住地で磔にすること)または刎首を命じ、その他の者も追放、入牢などの刑を受けました。 
 寛文7年(1667)12月4日に久江村十村の道閑にも判決が下りました。自村の村端で、彼は磔の刑になり、その3人の子供達(兵八・六太夫・万兵衛)も刎首(ふんしゅ)(首切りの刑)されました。他にも同じ十村の高田村二郎兵衛と能登部村の百姓・永屋(肝煎)が刎首の上、梟首(さらし首)となりました。三階村の池島宗閑、笠師村の太左衛門の二人は追放となりました。高田村八兵衛は父二郎兵衛死刑に免じられて死罪は赦され追放となっています。

(長家への処分と長家のその後)
 長家当主連頼の処分については、長家が名家であることや長連龍の前田氏に対する功績などに免じて触れられなかったが、一子元連は剃髪・蟄居の処分を言い渡され、元連の子・千松(尚連)が長氏の後継者とされ、彼が長家の所領を伝領しました。ただし領内検地の場合は藩令に従うこと、諸役人の任免は藩の承認を得ることなど条件が付けられました。
 そして事件の4年後、すなわち寛文11年(1671)年3月に長連頼が亡くなりました(遺骸は、田鶴浜の東嶺寺に葬られたということです。法号は乾徳院鉄山良剛老居士と称し、父連龍の横に墓碑が建立されているとのことです)。元連の子10歳の尚連(ひさつら)が長家の当主を襲封すると、綱紀(加賀藩)は鹿島半郡を接収し、代って3万3千石を折紙高とし、この石高に見合う米を実際に給することとしました。つまり給人の知行地直接支配を認めない改作仕法を適用し、サラリー(禄)を与えて前田家に完全に従属する家臣としたということです。浦野の勢力を削ぐために加藤派や連頼が、策謀し、加賀藩の力を借りたのでしたが、特権の喪失とともに、長氏の藩内における相対的地位もかなり衰えたのでした。

(滅んだ浦野家の跡)
 浦野家一族及びその一党は、加賀藩により極悪人として抹殺され、わずか2歳の幼児に至るまで殺害されたので、長家維持には成功しましたが、浦野一族はは滅亡してしまいました。田鶴浜町の字三引の亀源寺には、浦野家ゆかりの者によって祀られた一族の位牌が現存しているといいます。

(その後の鹿島半郡)
 鹿島半郡の長氏の独立的な支配は、このようにして終焉を告げました。そして藩は、その領内に、待望の改作仕法を実施しました。その結果、年貢はこれまでの3万1千石から、5万5千石の2倍近くに跳ね上がり、村民の生活は大いに苦しいものとなりました。歴史家の中には「改作仕法は加賀藩の権威を確立した原動力、江戸時代を通じて、幕府をはじめ諸藩から“政治は一加賀、ニ土佐”と評されたのも、その理由の大藩は改作仕法の成功にあったと言っても過言でない」という人も居ますが、これは、完全に支配者前田家の側、または武家の側からみた言い方で、私からいわせると苛斂誅求を強いる悪政でありました。(この改作仕法については、そのうちに特別に1コーナーを設けて説明する事を現在考えております)
 とにかく改作仕法によって、石高がかなり上がったということは、生産性の向上も少しはあったかもしれませんが、藩に反抗した鹿島半郡に対する悪意もあったでしょう。改作仕法では、その年のの作柄で税率を決めるの(検見(けみ)法)でなく、豊凶にかかわりない定率の定免(じょうめん)法です。役人が、総検地の際、派遣された役人が、地味の等級にしたがって斗代(とだい)(一反の標準収穫量)を割高に報告すれば、それだけ農民は苦しむことになります。その上、凶作などで農民が未進の場合は、一部は免除されるものの、残りは敷借米として百姓に貸与するという名目のもと年2割という高利で、今でいうなら悪徳金融業者に近いものだったといえます(税が5割の場合がほとんどの上、払えなくて藩から借りた債務の年利2割ですよ!信じられます?!)。
 また加賀藩はただでさえ、定免法の定率が5公5民の場合がほとんどの上、測り用の枡も他藩より大きく、1升の米といっても他藩の一升よりもかなり多くとるような藩です。2002年に「利家とまつ」がNHKで放映され、加賀藩が注目されましたが、金沢の民(加賀藩は金沢城下の町民と武士だけは大切にしました)以外に対しては、文字通り苛斂誅求を行うとんでもない藩であったのです。

(後世まで慕われた道閑、宗閑)
 ところで、道閑の父は、河内出身で、帰納牢人といわれていますが、道閑の時は、持高300石で、通称・万兵衛といってたようです。鹿島半郡の村民達も、政争と藩の思惑がからんだ事件の背景を朧気(おぼろげ)ながら感じており、道閑に哀れを感じていたので、浦野事件に連座して処刑された道閑を、農民の代表となって一身に罪を負った人物として一層慕い、神様として崇めるようになりました。慶安4年(1651)に鹿島半郡の十村筆頭となったようです。後世に道閑を義民視して、酒井村(現羽咋郡酒井町、当時は鹿島郡)で検地竿を踏み折り、三階村の池島宗閑がこれを持ち帰り、土中に埋めて杉を植えたが成長しなかったとか、藩吏の不手際から赦免状が遅れたとか、この地方に多い日一期(カゲロウ)は道閑の亡霊であるなど、数々の伝説が生まれました。これらも道閑への思慕が影響したものでしょう。
 また鹿島郡の村々の間に、次の様な道閑を慕った「臼すり歌」が伝えられています。
「ああいとしやな ところやちの道閑さまは 七十五村の身代わりに ああ悲しやな」
 町の広場の一角に、昭和42年「義民道閑顕彰碑」が建立されました。近くに道閑の墓や道閑を祀った祠が今でもあります。
 また池嶋宗閑も、追放になる前、百姓から深く慕われていました。三階村を流れている二宮川に、自費で橋を架けたりもしました。この橋は宗閑橋と呼ばれて、その名は今も残っています(ただし、現在の橋は勿論、何代目に当たるのか不明だが、コンクリートの橋である)。浦野事件の時、宗閑は、道閑とともに検地に反対したため、その国払いの刑(他に1名)で越後に流されました。当時の村の人々は宗閑を慕って、
「いとしがらんせ 宗閑さまよ 行くは越後で 果てしは知れぬ」
という、役人に聞かれれば捕らえられかねないこれらの唄を歌って、現在にまで伝わることとなっています。

 
(最後に補説)
 なお事件の一方の主役、加藤采女の邸はどこかな、と思っていましたが、たまたま「鳥屋町の史跡と文化財めぐり」(鳥屋町)にを読んでいたら、記録では鳥屋町の末坂にあったとの事であり、地元の古老の話では、現在の大門池の西側一帯を占め、岩本機業場(現在あるのかな?)の付近が該当と書いてありました。
(参考文献)
「加賀能登史蹟散歩−地方史の視点−」(田中喜男著、北國新聞社)
「図録長家資料」(穴水町歴史民俗資料館)、「田鶴浜町史」(田鶴浜町)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「鹿島町史」(鹿島町)
「石川県の歴史」(山川出版社)、「石川県大百科事典」(北國新聞社)
「鳥屋町の史跡と文化財めぐり」(鳥屋町)