曹洞宗の広がりと瑩山派の発展

(2004年11月13日一部加筆修正)

 鎌倉時代後期の正応2年(1289)、曹洞禅の根本道場であった越前(福井県)の永平寺の3代住持・徹通義介(てっつうぎかい)が、加賀国石川郡押野荘野々市の※大乗寺に移り住み、禅の伝播がはかられた。当時、徹通は永平寺の世代の順位をめぐり、法弟の義演と争っていた。枯淡な道元流の宗風を守ろうとする義演派に対し、教線の拡大をめざす徹通一派の動きが、その対立の根底にあった。
 そうした中で、徹通の門弟澄海(ちょうかい)の招きにより、徹通の
大乗寺への移住がはかられたのである。大乗寺は、押野荘の地頭富樫家尚(とがしいえひさ)の外護を得て、徹通に帰依した澄海が、真言から曹洞に改宗した禅刹であった。ここに大乗寺は、加賀の有力武士富樫一族の外護のもとで、曹洞宗徹通派の拠点となる。そして、やがてその門下から瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が登場する。
 ※大乗寺:現在の金沢市長坂町に移転されたのは元禄7年(1694)であり、最初はここに書いてあるように野々市にあり、所在を転々とした。

 曹洞宗太祖常済(たいそじょうさい)瑩紹瑾は、文永5年越前(福井県)多禰(たね)の里で生まれ、8歳で永平寺に登り、18歳で諸国行脚の旅に出て、そののち加賀の大乗寺の住職になった。永仁2年(1294)瑩山が45歳の時、能登国羽咋郡中河(または中川)の地頭・酒匂八郎頼親(さかわはちろうよりちか)一族の招きで、能登に赴いた。正和2年(1313)酒井保山中に茅屋を結んだが、それが現在の
豊財院であり、別名“般若寺”と呼ばれました。しかしこのように呼ばれるようになったのは後のことで、ここは永光寺建立前の仮の住まいというのが、当時の状況としては正しいでしょう。瑩山紹瑾禅師が開いた能登最初の曹洞宗寺となりました。なおこの地を選ぶにあたっては、白狐に先導されたという伝説があります。それで、ここは白狐林豊財院という名がついています。現在この豊財院の宝物殿には、国指定重要文化財、藤原時代初期の木造馬頭観音立像、木造聖観音立像、木造十二面観音像が安置されている。(また余談ですが、豊財院には現在この他、月澗和尚が延宝7年(1679)に願を発し、自らの血で書いた紙本血書般若経300巻が残されているますが、その経典の完成までに60年あまりの際月を要したといわれています。) 
 さて話は戻って、瑩山紹瑾禅師を能登に招いた酒匂頼親の嫡女・平氏女(たいらうじのむすめ)(黙譜祖忍尼(もくふそにんに))は、深く山に帰依し、夫の海野信直(うんののぶなお・(滋野信直))とはかって、一族の酒井氏から鹿島郡酒井保(現羽咋市酒井町)の山林・田畠などを買い取り、文保2年(1318)10月瑩山にそれを寄進して、洞谷山
永光寺を建立する。(創建当時は、本寺を中心に五院、二十数坊を擁して繁栄したといいます。永光寺の写真は、「能登の仁王像」の頁に幾つか載せております)
 永光寺が建立されるにいたってここに、加賀についで、能登にも曹洞禅が伝わることになりました。ついで瑩山と祖忍尼は、元応元年(1319)12月に永光寺興隆のための洞谷山尽未来置文(国指定重要文化財)を作成し、寺基を固めました。また瑩山に帰依した性禅尼(頼親の妻)らから、寺領の寄進も図られており、永光寺の創建時には、酒匂一族の女性達の役割も大きかった。鎌倉末期には、羽咋郡周辺に在地領主的基盤を持つ村井氏の一族によって、同郡志々見保(しじめのほ)の他畠が、寺領として寄進されていた。 
 瑩山は、さらに元亨元年(1321)6月、奥能登鳳至郡櫛比荘諸岡村(くしひのしょうもろおかむら)の律宗系寺院の諸岡寺(観音堂)を、定賢権律師(じょうけんごんのりっし)から寄進され、それを禅院化して總持寺と改めた。この頃には、瑩山は、永光寺と總持寺の2寺の住持を兼ねることになります。開山の翌年元亨2年(1322)には、禅師に篤く帰依していた後醍醐天皇が綸旨を下され、總持寺を勅願所として、「曹洞賜紫出世第一の道

江戸後半1800年代に書かれた総持寺の絵図です。
「能州諸嶽山總持寺全図」

場」と定めた。
 こうして、大乗寺を基点とし、永光寺・總持寺の両寺を拠点とすることになった瑩山の門下から、後に明峰素哲(めいほうそてつ)峨山韶碩(がざんしょうせき)らの傑僧が登場し、曹洞禅の全国的発展の基礎が築かれていく。
 瑩山没後の曹洞宗教団は、明峰・峨山の門流の人々が経営の中心となり、明峰派は加賀の大乗寺を、峨山派は能登の總持寺をそれぞれ本拠とした。そして、瑩山の墓所を持ち、その門流の中心寺院については、瑩山が生前に撰述した置文に従い、瑩山門下の明峰・無涯・峨山・壷庵の4派が交代で住職の地位につく、輪番制が敷かれた。
 瑩山派の禅風は、曹洞宗の開祖である道元の枯淡な純粋禅を守るというよりは、世俗への調和主義、祈祷的仏教への接近、仏事・葬儀などの法式(ほっしき)の整備とその荘厳化に特色があり、旧仏教と習合化も随所に見られ、教団の拡張を意識したものであった。こうした宗風は、多くの武士達に受け入れられ、南北朝から室町期にかけて、ことに峨山門流の人々を中心に急速に全国的発展をとげていく。また禅道修行における男女平等と女人救済の教えは、当時の武家女性の間に受けいれられ、寺内に造立された塔頭の円通院は、教団における尼僧たちの拠り所とされた。
 このように武家に受け容れられていく際、曹洞宗寺院の建立にあたっては、特定の仏菩薩を祀る在地武士たちの持仏堂や村堂が、禅僧に帰依した武士の外護を得て禅寺に改められ、そこを寺領として田畠の寄進などが行われて、そこの武士の「氏寺」となるケースが多かった。
 また、禅僧たちは、檀越(だんおつ)(施主のこと)の葬儀や追善供養に際しては、比較的平易な内容を持つ法語を作成し、その生涯をたたえた。南北朝末期の康暦(こうりゃく)元年(天授5年、1379)、通幻寂霊(つうげんじゃくれい)が加賀国能美郡安宅の聖興寺の門前で橋供養を行ったことが知られるが、峨山派の民間布教伝承に、悪龍・鬼神退治や灌漑工事など、神秘的な霊験や公益事業にかかわるものが多く見えることとあわせて興味深い。
 峨山は、羽咋市瓜生の生まれといわれ、16歳の時、比叡山へ修行に出て、その後瑩山禅師との問答で禅師に傾倒したといいます。2代目総持寺住職になり(つまり永光寺の住職も瑩山と同様兼ねると)、暦応3年(興国元年、1340)、永光寺・總持寺の両寺の住職を兼ねることになった峨山が、毎日、永光寺で早朝のお勤めをしたあと、暗がりの中を約52km離れた總持寺まで山道を踏んで行き、朝のお勤めを繰返したという、「峨山往来」の伝説がある。これは、峨山がはじめ瑩山の門下に参ずる以前、修験者であったことを窺わせる逸話である。
 この峨山道のコースは、曹洞宗が永光寺から奥能登に広がっていくときの「信仰の道」であったともされている。瑩山・峨山門流による曹洞宗の教えが、広く武士たちの心を捉えることになる背景に、禅僧の精力的な活動に加え、在来信仰との融合や、加持祈祷の摂取にともなう、禅の世俗化が図られていたのは
興味ある事実だ。
 また、永光寺の檀越としては、南北朝期に能登守護の吉見氏が知られる。建武・南北朝時代には、後醍醐天皇をはじめ、南朝・北朝の帰依があり、光厳上皇の勅願による三重の利生塔の建立などがあった。室町期以降においては、守護の畠山氏と守護代遊佐氏が積極的な外護を加えており、文明11年(1479)には、朝廷の祈願寺となり、宗門の中で権威を高めていた。總持寺については、櫛比荘の地頭である長谷部一族(長氏)の積極的な外護をはじめ、能登の在地領主僧が檀越化し、寺院経営の基盤を支えていた。また、大乗寺は、加賀の守護富樫一族の外護のもとで、足利将軍家から祈願依頼や寺領の安堵を得ている。加賀の白山麓河内荘(こうちのしょう)の祇陀寺(ぎだじ)は、明峰の高弟大智の開山で、有力国人の室町幕府奉公衆の結城氏の氏寺として知られる。
 加賀・能登の地は、浄土真宗本願寺派の教線が広まる以前の南北朝・室町期において、曹洞宗の全国発信の地であり、瑩山門流の勢力は、曹洞宗教団内部で、永平寺を中心とする一派をはるかにしのぐものとなっていたのである。一時は、全国に末寺1600余りを数えるに至っていた。總持寺は、明治31年4月13日不幸にして災禍により七堂伽藍の大部分を焼失し、横浜市鶴見に移転することになります。