源平の戦いから一向一揆の時代まで

(2004年1月7日一部削除・加筆修正)

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能登の歴史(利家公入城〜廃藩置県) 能登畠山氏・七尾の歴史
(畠山義綱氏のホームページ)
加賀一向一揆のホームページ
(管理人・林六郎光明)
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1.能登の武士 2.荘園と村 3.日本海の廻船と湊町
4.地頭御家人の時代 5.守護代飯河氏の登場 6.民衆と信仰
7.蓮如の布教・一向一揆・能登への伝播

 1.能登の武士

北国武士

「平家にあらずんば人にあらず」といって憚らなかった平家一門を心よく思わなかった後白河法皇の皇子、以仁王(もちひとおう)は、平氏討伐を源氏などに呼びかけました。それに応じて治承4年(1180)5月まず、源頼朝が挙兵し、やや遅れて同年9月、源義仲が挙兵した。源(木曾)義仲は、市原の戦いで緒戦を飾り、信州に勢力をのばし、明けて養和元年(1181)6月北陸最大の平家方である越後の城助茂(じょうのすけもち)を、信濃横田河原(長野県更級郡)の合戦で破り、北陸道経由の上洛作戦を開始します。これに伴い、北陸武士の多くが相次いで義仲方に呼応し、越中・加賀・能登・越前の北陸小武士団も続続と見方に付きました。

 能登でも養和元年の夏も終り頃、鹿島郡八田郷(七尾市市街地付近)の国衙でも在地の武士達による反乱が起こりました。時の右大臣・九条兼実(くじょうかねざね)も日記(『玉葉(ぎゃくよう)』)によれば、知行国主・
平知盛(たいらのとももり)目代が命からがら京都へ逃げ帰り、目代配下の従者達は、いずれも現地で捕らえられ、首をはねられたとあります。知行国主とは、国税の執行権を与えられ、正税官物(しょうぜいかんもつ)収取できる権限を持っており、平知盛がその職にありました。
 また、地元の武士(北国武士)が皆、東国の源氏と結ぶ動きをしている、とも書かれています。東国の源氏とは、勿論、木曽義仲の事であります。また目代とは、任国に下向しない国主に代わって在国し、国務を取り扱う代官のことですが、当時、能登では、国務の執行権をもつ知行国主の
平知盛(たいらのとももり)(清盛の4男)のもと、その従兄弟の平教経(たいらののりつね)能登守に補任され、目代は国守にかわって、任国の能登に赴いていた教経の家人(けにん)であった。したがって、さきの反乱は平氏の支配に反抗する能登武士の謀反であった。
(註)
この時代の知行国主については、平知盛(平清盛の弟、教経の父)ではなく、平教盛(教経の父)という資料も多い。しかし、私には、現時点では、どちらが正しいか判別がつかないので、一応両方の名前を書いておく)。 

 義仲は、
越前の燧(ひうち)ヶ城(福井県今庄市)まで進出し、京都へ攻めのぼる勢いをしめした。この城には、『平家物語』によると、平泉寺の長吏斎明・稲津新介・斎藤藤太・林六郎光明・冨樫入道仏誓・土田武部・宮崎・石黒・入善・佐美など6千余騎が篭っていたと書かれています。斎明は越前最大の兵力を持つ総帥格、稲津・斎藤太は越前武士で、林・冨樫は加賀武士です。宮崎・石黒・入善は越中武士です。佐美は森田平次の『能登志徴』では佐味・佐見とみて能登武士(七尾の住人)としていますが、「七尾市史」では、そういう記述があるのを記しながらも、加賀江沼郡の武士とすべきであろう、と述べています。また土田は能登羽咋郡土田庄、武部は鹿島郡浅井庄の住人で能登武士としています。また『源平盛衰記』では、義仲党の能登武士として、土田、日置(へき:珠洲郡日置郷)の各氏が載せられています(ただし武部氏の名はこちらではない)。他に義仲党の能登武士としては、得田氏も知られています。

 得田氏の名は比較的最近発見された資料(『雑録追加』所収文書)に出てきたのであり、能登羽咋郡の得田保(現羽咋郡志賀町土田地区)を本拠とした
得田章通(とくだのりみち)も又、義仲配下に属した地方武士でありました。養和元年(1181)11月、藤原章通という人物が義仲から、本貫地の得田保、及び能登の反乱で確保したと思われる大町保・甘田保(あまだのほ)・神代社(かくみしゃ)の4ケ所の領有(地頭職(じとうしき))を安堵した下文(くだしぶみ)を得ています。『雑録追加』の得田章通と藤原章通は同一人物と考えられます。この時、章通が得た「地頭職」とは、鎌倉幕府地頭の先駆をなすもので、義仲かは与党の武士の要請に応じて、その在地支配の保証を地頭職の安堵と表現していました。このことは、反乱を起し、平氏の支配を排除することに成功した北国武士達が、やがて新たに自己の在地支配を保証する存在として、源氏の棟梁木曽義仲に期待を抱き、そのもとに結集して、義仲と主従関係を結ぶようになっていた事情を物語っています。

 また武部氏でありますが、鹿島郡上日荘(あさひのしょう)のうちの武部村(現鹿島郡鹿島町武部)を本領とした武士であろうと考えられています。武部氏については、他に史料は欠く為、その系譜や消長を知ることはできませんが、本拠地の武部村が、能登の国衙のあった八田郷と近いところから、あるいは国衙とかかわりの深かった在地領主層で、やがて木曽義仲の軍団が崩壊した時、ともに勢力を失ったのかもしれません。

 平家は、寿永2年(1183)春、
平維盛(これもり)を総大将として、義仲優位の北陸道の劣勢を挽回すべく、10万余りの軍で義仲軍を迎撃しようと北陸道に向かいました。そして義仲方の最前線基地の燧ヶ城を総力で攻めました。この城郭は、堅牢で難攻不落でした。山のような磐石が屹立し、四方を峯に囲まれて、前後に山を配し、前には能美河・新道河が流れています。二つの河の合流点に、大石を積み上げ、逆茂木をを引いて、柵を張り巡らすと、堰き止められた水が、湖の様になりました。舟が無くては、容易に渡河出来ません。平家の大勢も、対岸の山から毎日眺め、攻めあぐねていました。

 この時、義仲軍の中の平泉寺の長吏(ちょうり)の斎明がかねてから平家方に心を寄せていたので、裏切り、平家の陣営へそっと矢文を射込みました。
その矢には「この湖は、往古の物にあらず。かりそめに水を堰き止め、水を濁して、人の心をたぶらかすばかりなり。夜に入って、足軽どもを遣わして、柵を切り落とせば、程なく水は落ちるべし。急ぎ渡らせ給え。後矢仕らん。かく申すは、平泉寺の長吏斎明威儀師なり」と,書かれてありました。平家方は、喜び指示通り柵を切り落とすと水はひき、城に一揆に押し寄せました。裏切った越前勢以外の城を守る木曽方は、あきらめて城を退きました。こうして燧が城は落城します。加賀国へ引き退いた義仲方は、林氏・富樫氏・倉光氏らの地元武士を中心として、安宅(小松)で防戦しましが、防げず、富樫・林の城郭を焼き払いました。その後は白山・河内に陣を敷きましたが、それも防げず義仲方は加賀に退き、防げず越中へ退きます。一部の平家軍は義仲軍を追って越中にも進撃します。
 
 敗戦を越後の直江津で知った義仲は、本隊を引き連れて、越中へ進軍しました。5月9日、まず
般若野で平盛俊の率いる先発隊を撃退し、ついで5月11日に越中・加賀の国境にある倶梨伽羅(詳しくは下記)と、能登の志雄坂の二手に分かれて、戦いとなった。志雄坂方面では、平氏軍に対決するため、義仲軍は鹿島郡小田中親王塚付近に陣をとった。おそらく奪い取った、八田郷(現在の七尾市街地)にあった国の役所を死守し、併せて越中進入を防ぐためであろう。

倶梨伽羅峠(くりからとうげ)の戦い(寿永3年(1184)5月11日)

 平家の大軍は二手に分かれ、平維盛は本隊を引き連れて、森本津幡の北陸街道を倶梨伽羅峠に向かって進撃した。平通盛(みちもり)を将とする一隊は、内灘から能登に入り、志雄山に陣を敷く。維盛の本隊が砺波山に到着した時は、既に義仲の軍は迎撃準備を終えていた。小競り合いのうちに日が暮れて、両陣営がそれぞれの陣屋へ帰った。

 平家軍は、倶梨伽羅峠の「猿が馬場」という所で兵を休ませた。それに対して義仲は、兵を7隊に分け、夜ひそかに平家軍を包囲し、牛の角に結んだ松明に火を点けて平氏の陣中に追込み、これを合図に総攻撃をかけた。寝込みを襲われた平家軍は、恐慌を来し、戦うどころか逃げ惑い、砺波山の「地獄谷」に追込まれて多数の死傷者を出した。これが世に名高い
倶梨伽羅峠の戦いで、義仲の火牛作戦といわれるものです。

 志雄山の別働隊も、勢いづいた義仲軍に撃退された。平家軍は、加賀の安宅(小松市)・篠原(加賀市)に逃れ、陣を立て直すが、勢いに乗って義仲はこれも撃破し大勝した(
安宅・篠原の合戦)。この篠原の合戦で、平家武士の中の斉藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)がおり、白髪を黒く染めて参加したが、義仲軍と戦って敗死した話は有名である。義仲は、それが幼少の頃、恩顧をこうむった実盛である事を知ると、深く悲しみ厚く葬ったという。
北陸道で大勝した義仲は、寿永3年(1184)7月、上洛を果たす。この時、義仲に付き従った能登武士も勿論入京した。

義仲の滅亡

 京都に上った義仲は、元暦元年(1184)に征夷大将軍に就き、旭将軍と呼ばれその名の如く旭日昇天の勢いでしたが、家来の乱暴が多くなり、京都の町民に嫌われました。それで後白河法王は、鎌倉を中心に勢力を伸ばしてきた源頼朝に木曽義仲追討を命じました(院宣(いんぜん)を与えました)。頼朝は弟・源義経を派遣して、それにより義仲は京を追われます。元暦元年正月20日、義仲は近江の粟津ヶ原(大津市)で、田圃の泥で馬が足をとられているところを弓で射られ、戦死しました。

 この後、能登を含む北陸道諸国は、鎌倉殿(源頼朝)の派遣した勧農使
比企藤内朝宗(ひきのとうないともむね)の統制を受けることになり、鎌倉幕府の支配下に組み込まれた。文治元年(1185)11月、頼朝が弟源義経の追捕の名分をもって、「国地頭」「荘郷(しょうごう)地頭」の設置を後白河法皇から認められると、新たに御家人となった能登得田保の得田章家(のりいえ)などを地元武士を地頭職補任に加えた。また能登大屋荘に代表される長谷部信連に代表される、外来地頭の来住もはかられました。

 義仲の滅亡は、北国武士団の敗残の姿でもあり、鎌倉以降は武士の世であるのに、加賀能登では、一部の武士が地頭職に補任されたりなどしたとはいえ、有力な武士がほとんど輩出しなかった理由の一つでもあります。なぜなら頼朝に敵対した武士は、鎌倉幕府成立後、御家人には加えられず(したがって地頭にはなれず)、なおかつ、小武士団であったので歴史に登場するような場はなかったのです。まー言ってみれば、運がなかったのでしょう。

長谷部信連(はせべのぶつら)

 平氏を壇ノ浦で滅ぼした源頼朝は、建久3年(1192)征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開き、武家政治を始めました。これより先、頼朝は文治元年(1185)、朝廷の許しを得て、主だった御家人(家来)、守護(地方を治める役人)、地頭(荘園の管理人)を任命し地方を治めさせました。長谷部信連も地頭として能登に着た一人です。信連は大和出身で、はじめ院の御所を警護する北面の武士として後白河法王に仕え、やがてその武勇が認められ、法王の第二皇子である高倉宮以仁王(もちひとおう)の侍長となった人です。以仁王は源頼政の勧めで平氏打倒の令旨を諸国の源氏に送り、平家打倒の烽火をあげ、宇治で戦死しました。

 勿論、長谷部信連も王とともに京都で戦い、破れて平家に捕らえられ、西国に流されました。平家没落の過程で、源氏に見出され、関東御家人のうちに加えられました。『長家家譜』によれば、文治2年(1186)鳳至郡大屋荘の地頭(輪島・穴水付近)となりました。信連の子孫は後に、長氏を名乗り、守護畠山の重臣として活躍しました。さらに、能登畠山氏滅亡後、前田家に仕え、家老となっています。もともとの能登武士と比べると、対照的である。詳しい事を知りたい人は、「長谷部信連」のページを見てください!

畠山氏が能登に来るまでの支配者は?
 鎌倉幕府は、一国に一人の守護と、国衙領と荘園に地頭を任命しました。能登の初代守護は、比企朝宗(ともむね)で、ついで北条朝時が知られ、吉見為頼が北条朝時を輔佐したと思われます。吉見氏は、源頼朝の弟・範頼(のりより)を祖とします。範頼は義経と共に一の谷で平家を破るなどの活躍をしますが、建久4年(1193)に伊豆で殺害されます。幸い次男・範円などが難を逃れ、武州吉見に住まいし、吉見氏を名乗り、その子為頼が守護補佐として、建久8年に能登に入国したと伝えています。 もともと、国司と郡司の支配地域であったところへ、新たに守護と地頭とを任命したのですから国司と守護、郡司と地頭の間で、土地の収益権など支配権をめぐって紛争がしばしば起きました。
 朝廷と幕府は、対立を深め、承久3年(1221)に承久の乱がおこります。執権だった北条氏の勢力を封じるために後鳥羽上皇を中心とする朝廷勢力が、北条義時追放の兵をあげましたが、幕府側の勝利に終わりました。この乱の結果、鎌倉を中心とする北条氏の執権政治ができあがります。そして、南北朝の動乱をへて、足利尊氏が政権を握り、室町幕府を作ることになります。南北朝動乱期には、国衙領や荘園に勢力をもっていた守護が、国衙領や荘園を自分のものにし、支配するようになり強力化していきます。これらの守護が、守護大名なのです。
 能登でも、建武2年(1335)に、足利尊氏が新政権に対抗するや、吉見宗寂が尊氏に組して能登の守護に任命されました。その後、同じ吉見氏の吉見頼顕、吉見頼隆、吉見氏頼と吉見氏の能登守護が続きます。このため、口能登の武士団はほとんど尊氏派となりますが、南朝方の富来氏や越中の井上氏との間に戦乱が続くこととなります。
 観応元年(1350)に尊氏の弟・直義(ただよし)が尊氏に離反するや越中守護・桃井直常が井上氏や富来氏とともに弟側につき、吉見氏を破り、能登守護に桃井盛義が任命されます。しかし直義の死によって吉見氏が盛り返し、吉見氏頼が再度能登の守護になっています。この南北朝の内乱は、石動山、能登部、富来、赤倉山、向田等が激戦地とされています。赤倉山の戦いでは、能登守護・吉見氏頼と越中守護の一族桃井直信との戦いが行われましたが、赤蔵山の僧兵が吉見方に味方した為、吉見方の勝利に終わっています。これらの戦いは単なる尊氏派VS直義派の戦いではなく、能登の支配権、特に七尾湾の地域をめぐっての戦いであったと考えられます。なお、吉見氏の居城は、能登部城と金丸城とされてますが、吉見頼隆の時に、守護所は(現在の七尾の)「府中」に移されました。

2.荘園と村

 能登国の政治行政の拠点である国衙は、鹿島郡八田郷府中に所在した。八田郷は、現在の七尾市域の市街地に比定でき、市内の国下(こくが)町や府中町の地名は、その名残りである。
 平安時代の中期以降、古代の郡郷制が解体し、新たに開発された地域を含む、中世村落の形成を基調とした行政単位の改変が、全国的傾向となる。能登国でも12世紀中葉の鳥羽院政期に、多くの地域が天皇家や公家・有力寺社などの私領である荘園となった。
 鎌倉幕府が成立してから20年経った承久3年(1221)、能登の国衙が「能登大田文(田数目録)」を幕府へ差し出しました。内容は現在の土地台帳のようなもので、能登4郡の85個所の荘園(私有地)と国衙領(公地)の名とその面積をあげ、それぞれにつき、荘園として成立した年代や、国衙領を立入り検査した記録が書かれてあります。能登の国衙領の荘園と対比した割合は、珠洲郡13%、鳳至郡42%、羽咋郡37%、鹿島郡53%で、鹿島郡の中の七尾市域では54&%となっています。このことから、七尾を中心として、遠い所ほど国衙領が少ないことが分かります。これは、七尾に国司のいる国衙(役所)が置かれていた為と思われます。国衙の機能を維持する上で公領を細かく編成することが重視され、郡内での荘園は、数十町以内の比較的小規模のしか認められない。総じて、鎌倉幕府の七尾には鎌倉幕府を背景とする武士の力が弱く、公家の発言力が相当強かったと言えます。
 市域の荘園では、大呑荘(おおのみのしょう)が公田数39町2反で最も大きく、他に八幡新荘・飯川保・万行保があった。公田とは、伊勢神宮および一宮・国分寺の造営や宮中の大嘗会の費用などを、「一国平均之役」として賦課する場合の対象となる田地である。大呑荘は、鎌倉前期の建久8年(1197)に、荘園として成立し、富山湾岸付近の市内灘浦(南大呑・北大呑)地区に比定できる。
 鎌倉中期には、羽咋郡の堀松荘(現志賀町)とともに、天台僧の円基・円尊・定任らの相伝私領と見え、暦仁元年(1238)12月に、近江日吉三社の9月会料所とあり、建長8年(1256)正月には、大呑・堀松両荘の年貢が延暦寺(山門)の供料に充てられていて、山門日吉社領であった。八幡新荘は、平安末期の久安年中(1145〜51)に、石清水八幡領として荘園化した越曽飯河保の出作地が、独立したものであったが、鎌倉初期頃には、飯川保と越曽郷に分立し、後者は国衙に収公されて、公領となっていた。
 公領には、いずれも小規模であるが、三階良川保が公田数18町2反八で、最大であり、他に南湯浦保・奥原保・東湯浦村・三室村・湯河村・沢野村・八田郷があった。また比定地不明の高堀開発は、大田文の記載順から当市域のうちと推定できる。
所領単位の「保」は、国守が自らの負担を負う国の貢物進納の困難さ打開する目的から、在地の有力者(保司)が開発した土地を公領として確保したもので、「村」は、屋敷・畠地を中心とした土地が、公領の徴税単位に組み込まれた所領であった。

 「大田文」を始めて幕府へ提出してから121年後・康永(こうえい)元年(1342)の田数目録を調べると、郷や保といった名が付いた国衙領はかなり減って、庄や村といった名が付いた私有地がかなり増えています。このことから、税の対象となる公田が相当減っている事が分かります。武士が次第に力を付け、国衙領を自分の領地に吸収していったものと思われます。
また、中世の奥能登の代表的な荘園である若山荘(現在の珠洲市・珠洲郡一帯の地域、能登最大規模の荘園)については別に「中世の奥能登の荘園・若山荘」のページをを設けたので、そちらを見てください。

また
能登の荘園においての相論など「荘園をめぐる争い」をみたい人はここをクリックしてください!

3.日本海の廻船と湊町
 国家への貢納物や荘園年貢の輸送が中心であった水運に、鎌倉後期以降、隔地間交易の商品輸送が加わるようになりました。廻船ルートが新たに開かれ、北陸の日本海沿岸部では、小型のテント船が盛んに行き交い、若狭の小浜湊と越前の敦賀津を基点に、越前三国湊(福井県)・加賀大野荘湊(宮腰・金沢市)・能登小屋湊(おやみなと)(輪島市)・越中放生津(ほうしょうづ)(富山県新湊市)・越後直江津。同柏崎・佐渡国津などが主要な湊として繁栄し、さらには東北の出羽酒田保(山形県)・津軽十三湊(青森県)へと広がっていきました。
 能登の主な湊としては、日本海に面した外浦では、羽咋郡の羽咋湊・竹津(羽咋市)・直海(のうみ)保北浦(福浦・富来町)や鳳至郡の櫛比川尻・志津良(しつら)(門前町)・曽々木浦(輪島市)、珠洲郡の高屋浦・塩津(珠洲市)がありました。また富山湾・七尾湾岸の能登の内浦には、珠洲郡の正院(しょういん)湊・直(ただ)湊(珠洲市)・小木湊(内浦町)、鳳至郡の宇出津(能都町)・甲浦・中居浦・穴水湊(以上、穴水町)、鹿島郡の熊来(くまき)浦(中島町)・大津(田鶴浜町)・所口湊(七尾市)などが知られています。
 長い海岸線を持つ能登では、日々の暮らしにおいて船運は必要不可欠でしたが、日本海の航行は、秋口から春先までは波が荒く困難であったのに対して、内浦では一年を通じて、磯伝いの船運は可能でありました。内浦からは、越後と結ぶ航路も開かれていたらしく、戦国時代前期の永正15年(1518)3月、能登に下向していた公家の冷泉為広は、信濃善光寺に参詣に赴くのに際し、戦国城下町七尾の外港にあたる所口湊から乗船し、湾内経由でいったん小木浦に向かい、そこで船に乗り継ぎ直江津に着いている。つまり、奥能登から富山湾へ横断する航路が既に出来ていたらしいのである。
 
4.地頭御家人の時代
 七尾市域の荘園・公領を名字の地とし、そこを在地領主的基盤とした鎌倉武士に、飯川三郎資光(いがわさぶろうすけみつ)・三階七郎三郎家秀(みかいしちろうさぶろういえひで)・三室判官代入道某・万行又五郎胤成(まんぎょうまたごろうたねなり)らがいた。南北朝期に公家の洞院家が編纂した系図集『尊卑分脈』によれば、鎌倉時代中頃に、加賀の林一族の豊田次郎光広の嫡男豊田弥次郎光忠・次男飯河資光・六男藤井六郎光基の三人が、能登国鹿島郡内の豊田保(中島町)・飯河保(七尾市)・藤井村(鹿島町)に居住したとある。 その理由は定かではないが、飯河氏には、資光の嫡男景光・次男左衛門尉光政のほか、建武元年(1334)8月には、その後裔である飯河播磨房光瑜が、後醍醐親政の雑訴決断所で、北陸道を担当する四番方の職員として見えている。三階家秀は、南北朝前期の鹿島郡酒井保の禅刹永光寺(曹洞宗)の檀越として知られ、弟の無底良韶(むていりょうしょう)は、峨山(がざん)門下の禅傑で、陸奥国黒石(現岩手県水沢市)の正法寺として著名である。兄弟には、羽咋郡の湊保にも所領を確認できるが、母の尼性韶は、酒井保の地頭酒井章長の曾孫で、「三階池崎後家」と称されていたから、三階氏は鹿島郡の三階良川保(現七尾市高階地区)を本貫地とした鎌倉武士で、保内の池崎に居館があったらしい。
 三室氏は、近年明らかになった建治元年(1275)5月の京都六条八幡官(源氏の鎮守神)の造営用途支配注文に、能登在国の御家人役として、銭五貫文を負担した。「三室判官代入道跡」の記事が載せられていたことで、初めてその存在が確認され武士である。
「跡」の記載は、かつて地頭三室氏の惣領であった判官代入道の所領を分割相続した者達の負担分を、建治元年に当時の三室氏の惣領が、まとめて進納していた状況を意味しており、このことから判官代入道は、建治元年以前の地頭御家人であったことになる。三室氏の本貫地は、国衙周辺の公領の中で2番目に公田数(13町5反)の多い、鹿島郡三室村であり、小口瀬戸を隔てて富山湾に通ずる、七尾南湾頭の要地であった。
 また、万行胤成は、建暦元年(1211)に公領から荘園となった万行保(市内万行町付近)の御家人である。永仁6年、万行保の地頭職をめぐって、一族の万行五郎成資(なりすけ)の御家(尼宝蓮)及び子息亀鶴との間で、訴人(原告)の立場から訴訟に及んでおり、嘉元3年(1305)5月の北条宗方の謀反事件の際には、遠路鎌倉に馳せ参じ、執権北条師時から着到状に、証判を受けていた。
5.守護代飯河(いがわ)氏の登場
 元弘3年(1333)、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇のもとに、再び天皇を中心とする政治が行われました(建武の新政)。このとき能登国司に、村上源氏である中院定平(なかのいんさだひら)が補任された。鎌倉幕府を倒した武士は公家政治を望んだのではなく、新しい武家政権を期待したのであり、公家を優遇する新政府に多くの武士がすぐに反抗した。その中の中心であった足利尊氏は、光明天皇を立てて、建武3年(1336)室町幕府を開きました。後醍醐天皇の側を南朝、足利尊氏の側を北朝といいます。
南北朝時代、能登国は吉見氏が守護として分国の経営にあたっていた。この守護のもとで、その経営の一翼を担ったのが、守護代の飯河氏である。飯河氏は、鹿島郡飯川保(現在の七尾市飯川町)を本貫とし、『尊卑分脈』によれば、加賀の有力武士・林氏の一族である飯河三郎資光(すけみつ)を始祖としている。
飯河氏が守護の被官として初めて登場するのは観応3年(1352)に、守護吉見氏頼が越中の桃井直常を討伐した際の軍奉行(いくさぶぎょう)として、飯河五郎左衛門尉(めしかわごろうさえもんのじょう)の名が見えることである。さらに実際に発給された文書を見ると、応安元年(1368)7月2日に、守護吉見氏頼(道源)が得江八郎次郎に本知行地を返付するにあたり、飯河左近将監(家光)と共に遵行(じゅんぎょう)(守護の命令を下達)することを、守護代である飯河左近将監家光・飯河左衛門藤光の連署で打渡状(うちわたしじょう)(当事者に伝達する為の文書)が出されている。飯河家光は、守護代のもとで実務を担当する守護使であろう。このように、飯河氏は一族で守護吉見氏の分国経営の重要な位置を占める被官人であった。吉見氏にとっても、在地の有力な領主と手を組むことが、得策であったことは容易に理解できる。
その後、飯河氏は、室町期においては守護畠山氏の被官としての名が見られ、やがては戦国の動乱に巻き込まれていくのである。
6.民衆と信仰

能登の霊山

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岩倉山の歴史  ◎石動山の歴史   高爪山の歴史  ◎ 赤蔵山の歴史 
伊掛山の歴史  ◎宝立山  ◎山伏山

板碑文化

 道端に、寺・神社の境内や墓地に、梵字や仏像を彫刻した割合小さい石碑を、板碑といいます。板碑は鎌倉時代の初め、関東地方に現れ、その終わりに能登に伝わっています。そして、室町時代の中頃から近畿地方からも伝えられ、江戸時代の初めに終わりをつげています。七尾は石川県の中で、比較的に板碑の多い所です。徳田地区に82基、東湊地区に13基など各地区に点在しております。殆どは自然石を使用しており、時には岩層から切り出した石を割って形を整えた割石(かっせき)にしたものもあります。
<板碑の里>

 石動山の北麓に位置する、若林町・飯川町・江曽町・八幡(やわた)町・千野(ちの)町などの徳田地区の集落を歩くと、各所に自然石を少し加工した板碑が見られる。この地区は石川県有数の鎌倉・南北朝時代板碑の集中地域で、
「板碑の里」とも呼ぶべき景観を呈している。七尾市内には、鎌倉時代〜戦国時代にかかる約150基の板碑があるが、この内、約半数が徳田地区にあり、さらに、鎌倉・南北朝時代に限れば、約7割がこの地区で確認されている。
ここで見られる鎌倉・南北朝時代の板碑は、中世板碑文化の初期〜前期の様相を示すものである。その板碑を見ると、不整形な石の面の1/2ないし、2/3の大きさに種子を彫っており、まれにその横や下に年号や人名を刻んだものがある。ここには石の形に対するこだわりはなく、信仰すべき主尊に対する強い意志のみ窺うことができる。
八幡町の小堂に納められた阿弥陀三尊種子板碑には、種子の下に鎌倉時代後期、徳治3年(1308)の年号が見え、七尾市内で最古の板碑であることが確認されている。この7年後の正和4年には国下町で金剛界大日如来種子板碑が造立されている。
これらの板碑の造立趣旨は、短い銘文からは十分に知り得ないが、死者の追善供養を目的として立てられたものであることは他地域の同時代資料より推測されている。能登では鎌倉時代に造立された板碑は、第3者に知らしめる記念碑的なものではなく、親族や関係者のみが分かれば良しとする個人供養的色彩の強いものであった。
徳田地区に多くの板碑が造立された理由については、石動山信仰や在地の有力地頭との関係で検討する必要があろう。いずれにしても密教系信仰の所産と推測されるもので、中世七尾の信仰形態を知る上で重要な造形資料である。
(板碑の例)
若林町菊理姫神社境内の板碑群 11基の板碑が境内の一角に集められている。中には、高さ120cmを超える板碑があり、鎌倉時代の造立とされている。
八幡町阿弥陀三尊種子板碑 安山岩を利用した高さ61cm、幅46cmの板碑で、碑面には次のような陰刻が見られる。(勿論、本当の碑文は縦書きである。)
「サ」(観音) 戌
「キリーク」 (阿弥陀) 徳治三 申
「サク」(勢至) 十一月 十七

若林町金剛界大日如来種子板碑 高さ160cm、幅100cmを測る北陸最大の自然石板碑である。その大きさの為、明治時代中期に戦没者の顕彰碑に転用されている。
国下町金剛界大日如来種子板碑 安山岩製で、高さ75cm、幅43cmである。種子は碑面中央に大きく刻まれている。(本当の碑文は縦書きである)
正和二乙二卯六廿七日
「バン」(金剛界)
佛眼 十 三 九

※一行目の二乙と二卯は実際には正和の文字の下で2つ並んで小さく書かれている。また十 三 九も実際には佛眼という文字の下に3つ横に並んで書かれている。

7.蓮如の布教・一向一揆・能登への伝播

 この一向一揆関係の頁は、この頁から分離独立したので、そちらの頁を見て下さい。
「蓮如の布教・一向一揆・能登への伝播」

(その他、浄土真宗関係の他の頁)
蓮如の浄土真宗の(北陸での)布教
山の寺と能登真宗寺院の中核
参考図書: 「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、
「七尾市ものしりガイド・観光100問百答」(七尾市観光協会)

「七尾市史」(旧版)(七尾市史編纂専門委員会)、
「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)、
「図説石川県の歴史」(河出書房新社)、
「半島国の中世史」(東四柳史明著・北国新聞社)
「石川県の歴史」(山川出版社)
「石川県大百科事典」(北國新聞社)
「石川県の地名(日本歴史地名体系17)」(平凡社)
「広辞苑」(岩波書店)