大伴家持と能登の海

(2001年2月19日一部加筆修正更新)

 天平20年(748)の春、都から一人の青年貴族が伴の者を従えながら、現在の富山の高岡方面から、石川県と富山県の県境、

奈良時代〜平安(初期)時代の主な出来事
710年 平城京に遷都
716年 大伴家持が生まれる。
718年 能登国が越前国から分国され立国
729年 長屋王の変
740年 藤原広嗣の乱
741年 能登国が廃止され、越中国へ併合
746年 大伴家持が越中国守に任命される。
748年 大伴家持が能登巡行を行なう。
757年 能登国が再度立国
784年 長岡京に遷都
785年 大伴家持が亡くなる。
同年、皇太子早良親王を廃する。
794年 平安京に遷都
823年 越前国から加賀国が分国される。
能登が立国-廃止−再立国という経緯をたどったのは、
中央の政治状況が反映。当時の橘諸兄(もろえ)政権は
戦乱で疲弊した国家財政を立て直すため、行政機構改
革の一環で能登国を廃止した。その後、藤原仲麻呂に
実権が移り、能登国は再び立てられる。東北制圧の拠
点、大陸との対外的な窓口として、独立した地方組織
の方がメリットがあったと推測される。

志雄町と氷見市を結ぶ「臼ヶ峰往来」を越えて、羽咋の海岸へ出た。そしてさらに北へ向かおうとしていた。彼の名は、大伴家持(おおとものやかもち)、当時30歳を少し越えたばかりであった。
 
当時、能登半島は越中国に属しており、家持は国守(国司)として現在の高岡市にあった国衙を発ち、公出挙(くすいこ)を円滑に実施するために能登の各地を巡行していたのである。(出挙とは古代朝廷が行った利子付き消費貸借であり、公出挙は国家が行った出挙である。出挙とは本来農民を救済する政策の1つで、春に種籾を貸し付け、秋に返済させるというものであったが、実態はこの公出挙もそうであるが強制貸付けを行い、利息をとる雑税であった。ちなみに公出挙は、春に官稲を農民に貸し付け、秋に3〜5割の利稲と共に回収する制度である。)つまり、家持は、その公出挙が厳密に行われているかを監視するために、能登4郡(羽咋・能登・鳳至・珠洲)を巡行するための旅だった。
 そのため、能登の人々にとっては、当時大伴家持の姿は、畏怖の対象だったはずである。
(◆大伴家持(716〜785):奈良時代の歌人。大伴旅人の子。越中を初め、中央や地方の諸官を歴任。延暦2年(783)に中納言。三十六歌仙の一人。万葉集中、歌数が最も多く、その編纂者の一人に擬せられる。繊細で感傷的な歌風は万葉期を代表する。奈良時代の能登を語る史料が乏しい中で、一人文献を残した人物が大伴家持であった。彼が越中守(当時は能登は越中の一部)に赴任したおかげで、能登を題材にした短歌が多数『万葉集』に残ったのである。)

 ●之乎路(しおじ)から直(ただ)越え来れば羽咋の海(み)朝凪したり舟楫(かじ)もがも
 (意味)志雄街道からまっすぐ越えて来ると、羽咋の海はいかにも穏やかだ。この海を漕ぎ渡って行く船や櫓があればいいのだが。
(注)之乎路は勿論、現在の羽咋郡志雄町のことである。

 羽咋を過ぎた大伴家持は、邑知潟を通り、香嶋津(七尾港付近)に出て、そこから船に乗り込み、熊来(くまき)村(中島町)の方へ向かおうとしていた。
香嶋津から熊来まで陸路ではなく、船で七尾西湾を進んだのは、ちょっと不自然な感じがするが、これについては島根県古代文化センターの森田喜久男主任研究員は、「重要拠点や産業の視察」をその目的にあげている。しかし私は、その目的は否定しないにしても、私は、明治の時に来たアメリカ人パーシヴァル・ローエル(後の有名な天文学者)も七尾西湾を船で穴水まで行っていることなど考えると、別にそのような目的がなくとも、道路事情の悪かった古代にあっては、なおさら波の静かな海を船で行くのが当たり前と考えられていたような気がするのだが・・・・。
 とにかく、七尾西湾を進んで、船上から当時の造船基地である能登島を視察し、税金の1つであるイリコなどの海産物の収獲状況などにも注目し、巡行したのであろう。
 話がそれた。香嶋津から熊来への船での旅の際、家持は船上で次のような歌を詠んでいる。
 ●鳥総(とぶさ)立て船木伐(ふなきき)るといふ能登の島山今日見れば木立(こだち)繁(しげ)しも幾代神(いくよかむ)びそ (「万葉集」巻十七−四〇二六)
(意味)島総を立てて船材を伐採するという能登の島山よ。今日見ると木立が繁っていて幾多の年月を経て何と神々しいことか!
 上の歌謡を詠むと、家持は百姓に強制的に稲を貸し付けて利息を獲るといった公出挙の業務から開放されて束の間のひとときを楽しんでいるかのように見える。しかし、この歌を注意深く読んでいくと、必ずしもそうではないことがわかる。この歌には、船材が七尾湾の南湾や西湾に浮かぶ島々から伐り出される様子が詠じられているが、能登半島にはヤマト王権の時代から舟木部(ふなきべ)が置かれ造船が重要な生業の一つだったのである。そして穏やかな七尾湾に面した国津・香島津があり、その近隣の島から採れる船材による造船業が盛んだったことから、ここは当時、中央政府の東北政策の重要な軍事的拠点の1つとされていたのであったのだ。
 家持は、能登の島山が「
島総立て船木伐る」場所であったことをあらかじめ踏まえた上で、香嶋津から船に乗り込み、海上を航行しつつこれを確認したのであった。
 養老令の中に国司の任国における巡行の規定を定めた条文(戸令33条)があるが、これによれば、国司は、地域の産業(なりわい)や百姓の風俗を観察するように義務付けられている。国司は都から派遣されてきた貴族だが、任国において政策を円滑に進めていくためには、郡司(ぐんじ)や国造(くにのみやっこ)の流れを汲む有力首長と交流し、地域社会の実状を把握する必要があったのである。
 このように考えていけば、家持が西湾・南湾を航行した理由は、遊覧が目的であったわけではなく、あくまでも律令に規定された国司巡行における産業の視察にあったと見なければならない。1250年前の能登の様子を歌で今に伝える家持は、重要地域に派遣された有能な官僚だったのである。だが、それでも家持は、やはり公務の合間にかすかに旅愁を覚えたようだ。
● 香島より熊来を指して漕ぐ船の楫(かじ)取る間なく都し思ほゆ
(「万葉集」巻十七−四〇二七)

家持が能登を巡行していた頃、都では元正太上天皇(げんしょうだじょうてんのう)(上皇)が危篤状態に陥り、やがてこの世を去った。そして盧遮那仏(大仏)の造立事業が急ピッチで進められていたのである。家持がそのような中央の情勢を、どのような思いで見ていたかは、わからない。七尾南湾から七尾西湾に入り、机島が真正面に姿をあらわすと、家持は再び気を引き締め、風俗歌舞の奏上を受ける為に熊来に向かって船を走らせた。

その他にも色々と能登の歌を詠んでいるので、以下それを紹介する。

能登国の歌三首
梯立(はしだて)の 熊来のやらに 新羅斧(しゃらきとの) 落し入れわし 懸けて懸けて
勿泣(な)かしそね 浮き出づるやと 見むわし
右の歌一首は、伝えて云わく、或有(ある)ときに、愚人斧を海底に墜して、しかも鉄(かね)の沈みて水に浮かぶ
理なきことを解(さと)らざりしかば、聊(いささ)かに此の歌を作りて、口吟(くちずさ)みて喩(さと)すことを為せり
といへり、
梯立の 熊来酒屋に 真罵(まぬ)らるる奴(やっこ)わし 誘ひ立て
率(ゐ)て来(き)なましを
真罵らる奴わし
右一首
香島嶺(かしまね)の 机の島の 小螺(しただみ)を い拾(ひり)ひ持ち来て
石以(いしも)ち 突き破り 早川に洗ひ濯(すす)ぎ
辛塩(からしお)に こごと揉み
高杯(たかつき)に盛り 机に立てて 母に奉(まつ)りや 愛(め)づ児の刀(と)自(じ)

父に献(まつ)りつや 愛(め)づ児刀自

(『万葉集』巻16所収)


●妹(いも)に逢はず久しくなりぬ饒石(にぎ)川清き瀬ごとに水占(みなうら)はへてな
(注)饒石(にぎ)川は、現在の門前町琴ヶ浜に注いでいる仁岸川のことである。
●珠洲の海に朝びらきして漕ぎ来れば長浜の湾(うら)に月照りにけり

(大伴家持の能登巡行路)

 氷見から現在の国道415号線にあたる道を通り、之乎路(志雄町)に入り、羽咋に出た。それから邑知潟、撰才、能登部、越蘇(江曽)を通り香島津(七尾)に入った。香島津から船で熊来(中島)まで行き、そこから現在の富来町の外浦の方へ抜け、門前町の仁岸川を通り、おそらく現在の国道249号線のルートで、輪島に出た。輪島からは海岸沿いに待野(現在の輪島市町野)を通り、珠洲市の鰐崎あたりから、馬緤峠を越えて、珠洲市正院に出て、そこからは船に乗り、穴水まで行った。穴水から中島町深浦の辺りまで船で行き、そこから熊来まで山越えし、また熊来から香島津まで船で戻った。(「輪島市史」の門脇禎二氏作成の地図にしたがった)