赤穂城(兵庫県赤穂市上仮屋)

 *現地案内板などを基にして鳥瞰図を作成してみた。赤穂城については正保城絵図が手元になかったので、図面だけを見て、櫓などはまったく想像で描いてみたものであるが、まあ、旧状もだいたいこんな感じではなかったかと思う。

 赤穂城といえば、とにかく「忠臣蔵」であろう。「忠臣蔵」というものがなかったなら、都市の平場にある赤穂城はとっくに開発の手によって破壊されつくされてしまっていたかもしれない。しかし現実にはそれと反対に、現在も赤穂城の復元工事が進行中である。昔訪れたときには、城内には高校があり、堀も石垣もだいぶ埋められてしまっている様子だった。城内にはそれほど見所もなかったように感じたものだが、今回(06.7.16)の訪問で、城の様子が以前とはだいぶ変わっているのを知った。ちょうど工事の真っ最中であり、二の丸のあちこちには重機が置いてあった。この日は休日なので工事は行われてはいなかったのだが、堀を掘ったり、土塁を盛り上げたりと、あちこちで作業が続けられている様子である。城内にあった高校はとうの昔にどこかに移転してしまったようで、この広い城内はすべて市の土地となり、公園化されていくのであろう。

 本丸もだいぶ以前とは様相が変わっていた。本丸内部には御殿の礎石が並べられ、北側の本丸門が復元されている。石垣もだいぶきれいになったような気がする。本丸の工事はすでに完成しているようである。

 現在行われているのは二の丸の工事である。図にも書いてある二の丸庭園が往時のごとく復元される予定で、整地作業の真っ最中という様子である。二の丸北側の堀は、東側部分だけが残っていて、西側の部分はすっかり埋められていたのであったが、ちょうど掘り返されている最中である。つい1ヶ月前にもこの城を訪れたオカちゃんは、「この堀(西側部分)は、まだ掘り返されていなかった」と言っていた。つまりこの1ヶ月の間に、堀1本が掘り戻されたと言うことなのである。このペースなら、旧状通りになる日もそう遠くあるまい。広大な二の丸庭園が完成したら、赤穂城の魅力はさらに増し、観光客もたくさん訪れてくることであろう。

 さらに三の丸の広大な土地も整地されて工事が行われるのを待っているといった状況となっていた。大石内蔵助などの居宅などを順次復元して、壮大なお城パークを造ろうとしているのであろうか。

 地方財政がどこでも苦しくなっている折、赤穂市などといったそれほど大都市でもない1地方都市が、これだけ金と手間のかかる工事を進めていると言うのはある意味驚異的なことである。それだけ市民の、この城に対する期待と情熱とが大きいのであろう。「忠臣蔵」の影響の大きさを感じてしまうというのは、こういう点にである。そういう意味でも「忠臣蔵」って偉大だよなあ。

 赤穂城は山鹿素行の設計による城だと言われている。つまり軍学者がその技術を遺憾なく発揮して造り上げた城であるというのである。軍学者が設計したからと言って、そう極端に他の城と違った城になるというわけでもなかろうが、それでも平城にしては、かなり個性的な縄張りであるとは言えるかもしれない。

 城の構造を見ていて一番目を引くのが、本丸の形状である。この形式は新潟県の新発田城とよく似ている気がする。平城の場合、本丸が単純な方形をしているケースが多いのだが、赤穂城の本丸はかなり複雑な折れを伴った多角形となっている。これは累上からの死角を無くすための工夫であるが、特に櫓台はすべて、城塁からはみ出すような形をしている。この辺りも軍学的な要素を強く感じる部分である。

 本丸には御殿と天守台とがあった。天守台は独立式のもので、現在でも高石垣によって築かれたこの天守台はそっくりそのまま残っている。5層の天守が計画されていたと言うが、実際には赤穂城に天守は建てられなかった。赤穂城が築かれたような時期には、すでに築城などということが行われることは少なくなっており、城の形態にも幕府は神経を尖らせていた。外様大名の城に天守を認めたくないという雰囲気があったようである。そんなこともあって、一応天守台を築いては見たものの、上に載る建物は造られずじまいであった。

 本丸を囲むようにして二の丸がある。環郭式構造である。この二の丸の城塁もやはりかなり複雑に折れている。南側の水手門などは、堀を枡形形状にとって、そこに土橋を突き出し、さらに城外と木橋で結ぶという珍しい構造である。堀そのものを枡形に見立てたかのような発想であるが、通常の枡形と違い、土橋上にはたくさんの兵が並ぶことはできなかったろうから、周囲の城塁から攻撃を受けた敵兵は、堀に落ちる以外にはなくなってしまう。そんな意味で、非常に防御に有利な構造である。これが山鹿流の設計というものなのであろうか。

 このように、赤穂城は近世城郭としてはそれほど大規模な城ではないが、かなり凝った造りをしている城であるといえる。この城では今後さらに整備が進んでいくであろう。最終的にどのような城址公園となるのか、とても楽しみである。また何年かたったら、訪れてみたいものだと思っている。 

赤穂城の大手門の脇に立つ隅櫓。激しい雨のために、写真がすっかりかすんでしまっている。 大手門の目の前にはあやしい天守のようなものがあるが、これはおみやげ屋さんである。
二の丸の櫓台。依然来た時にはこの辺は赤穂高校の敷地であったような気がする。 2の丸の堀。20mほどの幅がある。
これは復元途中の二の丸堀。埋められていたものを掘り返しているのである。堀幅は最終的には20mほどになるのであろう。 近年復元された、本丸北側の門。
本丸の堀と石垣。こんな感じで、周囲をぐるりと取り巻いている。 本丸東北の櫓台。本丸はかなり複雑な折れを伴った多角形となっている。
本丸東側の門。 南東の櫓台付近から東門を見たところ。
本丸南西側の城塁。 本丸北西側の城塁。
二の丸の庭園。復元工事中である。 この日宿泊した民宿初音(赤穂市新町)の目の前には赤穂城の模擬櫓があった。模擬とはいえ本物そっくりである。
 赤穂城の前進となった城は、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦功で播磨一国の大名となった池田輝政の家臣垂水勝重が築いたのに始まるという。しかし、それがどの程度の規模の城であったのかは不明である。

 現在見られるような赤穂城を完成させたのは浅野氏による。正保2年(1645)に池田輝興が改易された後、赤穂には常陸笠間から浅野長直が5万3千石で転封してきた。その時に城は大々的に築き直されることになった。元和の一国一城令が出てから久しい時期ではあるが、新たに独立した1藩を設置するということで、幕府も築城を認めたものである。といっても5万石程度であるから、それほど大規模な城というわけには行かないが、上でも書いている通り、軍学者の山鹿素行に設計させて、それなりに工夫された縄張り構造の城となった。

 長直の後は長友・長矩と続くが、この長矩が「忠臣蔵」で有名な浅野内匠頭である。江戸城で勅使の接待をするにあたって、指南役の吉良上野介と衝突し、結局は、殿中で刃傷沙汰を起こしたかどによって切腹改易となる。そうして、赤穂浪士の討ち入り話が始まるわけである。

 日本人に長く親しまれてきた忠臣蔵の殿様ということもあって、浅野長矩は長らく、名君のように言われてきた(確かにドラマの設定上、名君じゃないと盛り上がらないよなあ)。対照的に吉良上野介は、悪役と言われ続けてきた。しかし、近年、さまざまな角度からの研究が進んでおり、長矩が善人で、吉良が悪人であったと単純には言い切れなくなっている。

 考えても見れば、殿中で刃傷沙汰を起こしたら、自身は切腹、藩も改易となって、家臣とその家族数千人が路頭に迷うなんてことは、分かりきっていたはずのことである。それにもかかわらず、長矩はいきなりキレて、殿中で抜刀してしまう。それも背後から何度も斬りつけたというのに、吉良に浅手しか負わせられなかったというのは、武士のたしなみにも欠けていたとしか言いようがない。そんな風に考えてみると、どうも長矩は、自分勝手でわがままな、お坊ちゃんであったとしか思えない。

 以前、「土芥寇讎記」という史料を読んだことがあった。これは元禄の前期頃、幕府の隠密が各地に赴き、その土地の大名の様子を調査したものをまとめ上げたもので、いわば、諸大名の身上調査のようなものである。そこには赤穂藩の藩主の記述も見られるのであるが、それによると浅野長矩は若いわりには酒と女に溺れていて、わがままで気が短い性格だ、というようなことが書かれていた。つまり、もともと長矩は短慮でキレやすい自分勝手な若造だったのである。だからこそ、あのような事件を起こした、ということになるだろう。

 「勅使の饗応の手順を吉良に教えてもらえず意地悪をされた」といった話も伝えられてはいるが、長矩はもっと若い頃にも勅使饗応役をおおせつかったことがあり、つまり、今回は2度目の饗応役だったのである。にもかかわらず「俺は何にもわからないし、吉良が意地悪して教えてくれない!」といってキレてしまうというのはどうしたことだろうか。前回に饗応役を行った際、家臣に命じて記録などを残しておくのが普通であろう。でなくともその頃の出納帳を見れば、何を用意するためにいくら遣ったなどということは分かるはずである。それなのに、「吉良が教えないから斬ってやる」とこうきたわけである。彼はまったく短慮の人であったとしか言いようがない。元禄14年(1701)3月14日に事件を起こした当時の長矩の年齢は23歳、確かに深謀遠慮を求めるには若すぎる年齢ではあるが、それにしても、もう何年も殿様をやっているのだから、よほどのことがあっても耐えるべき立場の人であった。だが、人は時としてコントロール不能になってしまうのであろう。

 そんなわけで、元禄14年、浅野家改易によって赤穂藩は幕府に接収された。そのとき接収役となったのが龍野藩の脇坂安照であった。その翌年、下野烏山から、永井直敬が3万3千石で転封してきた。しかし4年後には永井氏は信濃飯山藩に転封、替わって、津山藩の森氏の一族森長直が2万石で入城し、以後は明治維新まで森氏が続くことになる。となると、浅野氏が赤穂城にいたのはわずか半世紀ほど、その後の森氏は160年余りも在城していたということになるのだが、今でも赤穂城といえばほとんどの人は浅野氏しかイメージしないであろう。「忠臣蔵」の影響はかくも大きいのである。

























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