姫路城(兵庫県姫路市本町)

*今更・・・・とも思ったのだが、姫路城の鳥瞰図を描いてみた。現地パンフの図等を参考にしたのだが、基本的には記憶に頼って描いている。だから細かい所がよく分からなくなってしまった。備前丸の南側の多聞櫓は現在は失われているが、その辺りは想像で描いてみた。

 世界遺産にも登録されている姫路城は、日本で最高の名城である。よく「日本○○名城」などという言葉があるが、それらすべてを超越した名城が姫路城であるといえるだろう。それはなぜか? それは、この城を訪問した事のある人なら誰でも分かるはずである。いろんな意味でこのような「美しい城」は日本には他に存在しない。この城とチバラギのヤブ城が、同じ「城」というジャンルに入っていることを思うと、あまりの畏れ多さに罪悪感を感じてしまうほどである。

 2006.7.17(月)、ヤブレンジャー夏合宿で久しぶりにこの城を訪れた。姫路城に来るのは何年ぶりだろう。姫路城が名城であるだけに、多くの人にとって、姫路城は「思い出深い」城であるに違いない。それはもちろん、私にとっても同様である。

 はるかはるか遠い昔、私が中学1年生の時、突然父親が「東京へ連れていってやる」と言い出した。当時、東京なんぞへ行った事のなかった私の心はそれを聞いてときめいた。

「東京に行けば、江戸城を見ることができる。それに・・・・」私はあることをもくろんだ。それは・・・。

「ねえ、東京に行くのなら、長野県経由で行って、松本城に寄ろうよ」と、提案したのである。

 当時、私は現存の城というものをまだ見たことがなかった。それまでに私が訪れた城といえば、うちの近所のちっこくてヤブだらけの城くらいだったのである。松本なら東京に行く途中で寄ってもらうことも可能なんじゃないかと考えたのだ。その当時は我ながら「名案だ」って思ったものだ。

 父親も「松本城か、寄ってもいいかもなあ」と、なんだか乗り気になってきた。よっしゃ!

 ところがその後、事態は思いも寄らない方向に転換していった。東京で会う予定だった埼玉のおじさんと父親が電話で話をしているうちに、埼玉の叔父さんの方から(この人もかなりの歴史好きなのである)、「どうせだったら、東京から新幹線で姫路城に連れて行こうか」などと言い出したのだ。それを聞いていて、私はとにかく興奮した。「うん、行くいく!」 もちろんふたつ返事でOKである。

 そんなこともあって、その年の夏休みは、東京旅行に行き、さらに途中の二日を姫路で過ごす事というになったのである。言ってみるもんだなあ。今は亡き親だけど、親って本当にありがたいものだと思う。

 しかし、私には心配事が1つあった。それは・・・・「もし姫路城に行く予定の日に、城がお休みだったら、どうしよう」 ふと思ったことだったのだが、悩み始めると気になって、ほかの事をしていても手に付かなくなってしまった。

 私は自分の持っていた城の本をめくり、姫路城のページを改めて見てみた。そこには、姫路城の連絡先の電話番号が掲載されていた。

「ここにかければ本当に姫路城につながるんだろうか・・・かけてみようかなあ」 当時、市外電話さえかけたことのなかった私は、なんだかとんでもない事をしようとしているように思った。姫路城までかけたら電話料金がどれだけかかるかしれないし後で親に怒られるのではないかとか、それよりもなんて話をすればいいんだろうとか、いろんな考えが頭の中を駆け巡った。

 しかし、今も昔も私の性格は変わっていない。悩むより先に、指は電話のダイヤルにかかっていた。半ば本能的に姫路城の電話番号を回していたのである。(こうやって考えなしに行動する性格だから、それで今までにけっこう失敗もしているよなあ・・・・)

 トゥルルルル、トゥルルルル、電話が鳴り始めた。「相手が出たら、なんて言おう!」と考える間もなかった。間髪をいれず相手の声がした。

「はい、こちらは姫路城管理事務所です」

 姫路城につながっている! 確かに本物の姫路城だ! うちと姫路城とが本当につながるなんて! 今思うと当たり前のことなんだけど、ガキだった私はそれだけのことでやたらと興奮し、心臓が高鳴ってしまった。

「あ、あのう、姫路城はいつがお休みですか?」 たどたどしくだが、何とか言えた。私とは違って冷静な口調で相手は答えた。

「はい、年中無休でやっておりますよ」 おおっ!そうだったのか。いつでもOKじゃん! 用件はこれで終わってしまった。だけどなんとか会話をつなげたい。

「雨が降っても開いていますか」 次に口に出てしまったのがこれである。なんておバカな質問なのだろう。相手は年中無休だって言っているというのに。

「はい、雨でも雪でもやっていますよ」 その言葉を聞いて私はひたすら感動してしまった。そうかそうか、雨でも雪でも中に入れるんだあ。そして続けてさらに輪をかけておバカなことを言ってしまったのだった。

「あのう、ぼくが行ってもいいでしょうか・・・・」 なんでそんなことを言ってしまったのかよく分からないのだが、とにかくそう言ってしまった。それに対して相手が答えたひと言を、私は生涯忘れないだろう。

「はい、どうぞ。いつでもお待ちしておりますよ」

 なんと! 姫路城が自分を待っていてくれている! あのあこがれの姫路城が! その時誰かがそばにいたら、私の心臓のドキドキという音をはっきりと聞く事ができたであろう。その日は興奮して夜も眠れなかった。そして、ひたすら姫路城に行く日を待ち続けた。


 ってなわけで、その年の夏休みには東京見物と姫路城見物とをしたのである。東京でも私にとっては衝撃的な出来事があったのだが、それは城とはまったく関係ないので、ここでは触れない。とにかく、その夏は姫路城に行って姫路に泊まったっていうそれだけで、私にとっては最高の夏休みとなったってことである。

 そんなこともあって、姫路城は私の城めぐりの原点でもある。今はチバラギのヤブの中を蠢いていることの多い私であるが、この城を最初に見たからこそ、城の魅力に取り付かれた、って言えるかもしれない。姫路城のすばらしさ、それはひと言で言い表す事はできない。私にとってそれは生涯忘れ得ない思い出の城でもある。

 なお、この時の訪問では、叔父さんが8ミリカメラで、城の内外の様子を撮影してくれた。そのフィルムは今でも実家にあるのだが、現在では映写機が壊れていて見ることができない。(時々見たいなあと思うこともあるのだが・・・・) ただ、この8ミリのフィルムから現像した写真が何枚か、いまでも手元にあり、思い出のアルバムに貼ってある。

最初の姫路城訪問。映っているのは私と弟。まだガキだなあ。8ミリカメラで撮影した映像から写真を起こしたので、映りがいかにも古くさい。 就職して、城めぐりを始めた頃。この頃はまだ若かったなあ。今と違って情熱とパワーがあった・・・・。
今回は東側の方の搦め手門から入った。搦め手門から入城したのは初めての体験だった。写真は東側から見た天守。どこから撮っても絵になる城である。 搦め手門の枡形。
入場券売り場の脇から見上げる高石垣。何とも高い! 20mほどもあるだろうか。 搦め手門から見上げる大天守。
門を通って天守郭の内部に入っていく。 真下から見上げる大天守。天守台の石垣もまた高いこと。
小天守には石臼が積まれている。伝承では秀吉が姫路城の天守台を築いていた時に、地元のおばあさんが提供したものだという。 天守の真下まで来ているというのに、このような門をいくつも通り抜けないと内部には入れない。その間に天守からの攻撃にさらされてしまうのである。
城門と油土塀。 段差のある石垣にもこのような櫓門が置かれている。形状的には埋門といった方がいいかもしれない。
天守の入り口。三重の櫓門である。これまた立派だ。 天守内部。雨で薄暗かったために、暗い写真しか撮影できなかった。
天守から南側の方向を見下ろす。城内はかなりの広さである。 化粧櫓方向を遠望したところ。櫓や塀があちこちに展開しているさまがよく分かる。
天守郭内部の様子。天守群をつなぐ多聞櫓も三重構造と大規模である。 天守内部に展示してあった大天守の構造模型。立体設計図とでも呼ぶべきか。
天守から下の方向を見たところ。 乾小天守と西小天守。この小天守だけでも、ちょっとした城の天守クラスの規模がある。
南側の備前丸から見た大天守。近くで見ると、そのでかさといったら! 斜め下から見上げたところ。
二の丸方向に続く登城道。何度も折れながら本丸に接近するようになっている。 二の丸あたりから見上げる天守。
西の丸との分岐点に近づいている。 二の丸から遠望する天守。
西の丸の櫓は一部工事中であった。 西の丸から遠望する天守。
西の丸の多聞櫓の内部。千姫の化粧櫓とも言われている。外観は単純な多聞櫓のようだが、内部には小部屋がたくさん仕切られている。 化粧櫓へと続く多聞櫓から見た天守群。地勢が平坦ではないらしく、多聞櫓を進んでいくと、途中2ヶ所ほど、階段を上がって上の階に行って前進するようになっている。単層なのにめずらしいことだ。あるいは敵が一直線に進めないようにわざとこうした構造にしているのであろうか。
化粧櫓では千姫が貝合わせをして遊んでいるではないか。相手をしているのは誰であろう。 再び西の丸から遠望する天守群。手前左側の西小天守が、秀吉時代の天守だったといわれているものである。
三国堀に続く門。 三国堀と天守群。
菱の門。で、でかい! 入場券売り場の脇にそびえる西の丸の高石垣と櫓。
大手門方向から見る天守。 大手門脇の水堀と石垣。
大手門。 大手門手前の土橋は本来は木橋であったという。復元工事の真っ最中であった。
 姫路城の歴史は古く、もとは赤松氏によって築かれ、その後この地方の豪族小寺氏の城となったといわれる。さらに後には小寺氏の家臣、黒田官兵衛の城となるが、秀吉が中国遠征を始めると、いち早く織田方に着いた官兵衛は、自分の城を秀吉に提供する事になる。秀吉の気に入られようとしたのだろうが、思い切ったことをしたものである。その際、秀吉によって城はかなり拡張工事され、大規模城郭に変貌を遂げたようである。

 天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長急死の知らせを聞いた秀吉は、ただちに毛利と同盟を結んで、備中を引き上げた。そして姫路城に戻って休息した後、都に向かって猛ダッシュを懸ける。

出陣の朝、秀吉は、「今日は出かけた主人が帰ってこなくなるという縁起の悪い日です」と部下に言われたが、「帰ってこないというのは、戦に勝利して都を手中にするから帰ってくる必要がなくなるということで、それは縁起のいい日ではないか」と秀吉は答えて出陣したという。大将たるもの、これくらいの機転が利かないではしょうがない。

 そういうわけかどうか知らないが、秀吉は山崎の合戦で勝利し、京都宝寺城を新たな居城とした。さらには翌年、賊ヶ岳で柴田勝家を破り、大坂城を築き始める。自身が言ったとおり、戦に勝利した秀吉は姫路に帰る必要がなくなったのである。彼は家族を大坂に呼び寄せた。

 後、関ヶ原合戦の戦功で播磨一国を手中にした池田輝政はこの城に入って、城を大々的に改修した。現在見られる姫路城の遺構のほとんどは、この池田輝政の時代に築かれたものである。藤堂高虎や加藤清正などと違って、池田輝政が築城の名手だっていう話はあまり聞かないが、姫路城の構造を見ると、彼が非常に優れた城郭構造の専門家であったらしいということを感じる。

 元和2年(1616)といえば、徳川家康の死んだ年でもあるが、この年、池田輝政の跡を継いだ利隆は京都で突然病死した。利隆の嫡子の光政は、その翌年、鳥取に転封となるので、これだけの城を築いたにもかかわらず、池田氏の支配はわずか3代16年で終了する。

 その後は徳川譜代大名の本多忠刻が入城した。大坂落城時に城内から救出された家康の孫娘千姫は、この忠刻と再婚する。そうしたこともあって、忠刻は徳川秀忠に目をかけられていたのであろう。西の丸はこの頃、千姫の化粧料を用いて整備されたものだといわれている。しかし、やがて忠刻は嗣子なく没してしまう。

 その後は松平氏、再び本多氏、榊原氏、再び松平氏、酒井氏と交替して明治維新に至る。現代でもその威容を残している姫路城ではあるが、その城主は転変めまぐるしく、誰も安定した城主として代々存続してはいなかった。




置塩城(姫路市夢前町宮置)

 置塩城には06年のヤブレンジャー夏合宿で訪れたのだが、雨のため、登城できなかった。が、『兵庫県の中世城館2』や「中世城郭事典』などの図を見ていたら、メラメラと鳥瞰図を描いてみたくなったので、ちょっと描いてみた。実際に、登ってみたいなあ・・・・。
 国守赤松氏の居城にふさわしい広大な山城で、石垣などもあるようだ。大きく、5つの郭群に分かれていた。

置塩城の入り口。 南側から遠望する置塩城。比高200mほどもあるだろうか。
 置塩城は、姫路市の北方にある。けっこう山深いところである。どうしてこんな辺鄙なところに城を築いたのかちょっと不思議な気がする。

 置塩城といえば赤松氏である。赤松氏は嘉吉の乱で満祐が、将軍足利義教を殺害したために幕府の攻撃を受けて、いったんは没落したが、赤松政則の時代に再興した。その政則が居城としたのがこの置塩城なのである。置塩城の赤松氏はその後5代に渡って存続したが、天正年間、秀吉の播州攻めが始まると、秀吉に随うようになる。後に赤松則房は、阿波住吉1万石を得て、この地を去っていく。置塩城もそれとともに廃城となったようで、城の廃材は運ばれて姫路城に転用されたという。したがって、姫路城にある多数の櫓や門のうちのどれかが、置塩城のものであった可能性がある。

 この城からは姫路城が遠望できるというので訪問してみたのだが、雨がひどかったこともあって、登城は断念した。次回に期したい。
























大竹屋旅館