出石城(兵庫県豊岡市出石内町)

 *現地案内板の図を基にして復元鳥瞰図を描いてみたのだが、基本的には記憶に頼っている部分が多いので、実際にこの通りであるのかどうかは心もとなく、おおまかなイメージ図であると見ていただきたい。

 06.7.15(土)、ヤブレンジャー夏合宿の初日にここを訪れたのだが、出石って人が多いこと多いこと! ここってかなり有名な観光地なのね。われわれはつい城を基準にして考えてしまうために、城の規模からすると、そんなに観光客が集まる場所であるとも思えないのであるが、町全体の雰囲気が観光客向けであるのかもしれない。それに皿そばなんていう名物があるというのもいい。われわれもさっそく食べたが、遅いお昼になったということもあって、とにかくおいしかった! ベースは5皿という事になっているのだが、それぞれ5皿ずつ追加してもらって腹いっぱい食べたのであった。

 さて、城は比高300mほどの有子山城と山麓の部分とに別れる。山上の部分もけっこういいらしいのだが、今回は時間がなかったことと雨が降り出しそうだったということもあって、登山は止めておいた。(実際その後大雨になった。登らなくて正解である。) 近世段階では山麓部分しか用いていなかったであろうと思われる。

 城は近世城郭にしては単純な構造で、山麓の斜面上のひな壇のような平坦地を利用して稲荷丸、本丸、二の丸、下の丸、などといった郭を段々に配置している。一番上の段で、一番高い石垣を持っている部分が本丸になっていないのが不思議であるが、この部分は御殿を建てるほどの広さに欠けていたために、詰めの丸といった位置づけであったものだろう。古図を見ると、本丸、二の丸にはそれぞれ、2基ずつの2層櫓が置かれていたようである。現在、本丸の2基が復元されているが、その形状は模擬ということになっている。しかし、この模擬櫓は城とうまくなじんでいて、実際に建っていた櫓も、このような感じのものであったのではないかと思われる。また出石城には天守は存在していなかった。

 下の丸の北側には谷山川が流れているが、そのさらに北側部分にも堀と石垣をめぐらせて三の丸を構成していた。この三の丸部分が、藩庁などの役所を配置した部分であったという。三の丸の堀は大部分埋められてしまっているが、それでもところどころに石垣などが残存している。出石といえば一番有名な辰鼓楼は、大手枡形があった部分に位置している。本来ならばここにはもっと戦闘的な櫓が置かれていたのであろう。近世城郭としては小ぶりな城であるが、城址としての雰囲気はなかなかいい城である。

 なお、城下には、城郭的な建造物を伴った寺院がいくつかある。これらは、出城としての機能を持っていたものであるといわれるが、今回はそれらをきちんと見ていないので、何ともコメントできない。

 後で寄せられた情報なのだが、本丸御殿と二ノ丸御殿との間には渡り廊下があったという。史料に「階段状の渡り廊下」「斜めになった渡り廊下」といった記述が見られるそうである。(ただし出典不明)

 また、城の下を流れる谷山川は、昭和10年に洪水対策の為に現在の場所に付け替えられたものだそうで、本来は大手門よりももっと北の方を流れていたものだったそうである。現在では堀のように見えてしまうのだが・・・・。

西側の市営駐車場から本丸西櫓を見たところ。昭和43年頃に木造で復元されたものらしい。 駐車場から辰鼓楼へ向かう途中の家老屋敷そばにあった石垣。これも三の丸城塁の跡であろう。西門あたりか。
辰鼓楼。このあたりが大手門の跡らしく、ここから内側が三の丸であった。堀はだいぶ埋められているようであるが、それでも辰鼓楼の東側部分はわりとよく残っている。 辰鼓楼東側に残る石垣と堀。
三の丸から見た有子山城。よく見ると山上には石垣があるのが分かる。比高300m近くあり、登城道はかなり急峻であるらしい。雨が降りそうだったこともあって、今回は登城していない。 谷山川は天然の堀であったようだ。川にかかる登城橋と復元された城門。
二の丸の石垣と西隅櫓。 西隅櫓。なかなかいい雰囲気の櫓で、一見すると現存遺構のようにも見える。
東隅櫓。 東隅櫓を本丸内部から見たところ。こうしてみると、かなり小さな櫓であることが分かる。
本丸のさらに上にある稲荷丸の高石垣。見事である。 左の石垣の上から、下の石段と水路を見たところ。
 出石城(有子城)はもともとは山名氏の城であった。天正8年(1580)、羽柴秀吉による但馬征圧によって、出石城も落とされてしまった。その後は羽柴方の城となり、木下昌利、青木勘兵衛、羽柴秀長、前野長康らが在城し、城そのものはあいかわらず使用され続けていた。前野氏の後は小出秀政が城主となった。

 小出氏は関ヶ原では親子で両軍に分かれることになった。それぞれに身を置くことによってどちらに転んでも家名を存続させようと考えたのであろう。当時出石城主となっていた吉政(秀政の子)は、西軍に加担した。一方岸和田城主となっていた秀政と、次男の吉英は東軍に加担する。結果、東軍が勝利したわけだが、東軍に属した秀家の活躍と存命嘆願もあり、吉政は所領没収を免れた。しかし、数年後、父の秀政が岸和田で没すると、どういうわけか、吉政は岸和田城主となり、出石6万石は吉英の領主となる。 

 慶長9年(1604)、出石5万石の領主となった小出吉英が出石城を本格的な近世城郭として改修した。小出氏の治世は9代続いた。小出氏の後は、松平氏、仙石氏と続いて、明治維新に至る。この仙石氏の時に、仙石騒動とよばれるお家騒動が起こったことはわりと有名である。

 今回は有子山城には登れなかったが、『16世紀末全国城郭縄張図集成』(下)所収の図を基にしてラフを描いておく。登る機会があったら、もっとちゃんとしたものに描き直してみたい。



此隅山城(豊岡市出石町宮内)

 此隅山城にはまだ訪れていないが、山名氏城跡保存会のページに記載されている図面を見ていたら、むらむらと描きたくなってしまったので、鳥瞰図を描いてみた。詳細はまた訪問した際に改訂したいと思う。
 
 此隅山城の位置はここである

 此隅山城は、室町時代の最盛期、11ヶ国を支配していた山名氏の拠点となった城郭である。
















































大竹屋旅館