兵庫県加古川市

*参考資料  『日本城郭体系』 『図解 近畿の城郭』T〜W

*参考サイト  城郭放浪記

中道子(ちゅうどうし)山城(加古川志方町岡430−1)

*鳥瞰図の作成に際しては現地案内板および『図解 近畿の城郭』Uを参考にした。

 中道子山城は、安楽寺の東方にそびえている比高230mの山稜上に築かれていた。城址は城山公園として認識されているようで、あちこちに案内板があった。

 登城口に案内板があり、その脇が駐車場になっているので、そこに車を置いて登っていくこととなる。

 ところが、ここからきれいに舗装された車道がずっと続いている。車で城山の中腹まで行けるようないい道が付けられているのである。だが、この入口には車止めがしてあるので、車では進入できないようになってしまっている。そういうわけで、車道をずっと歩いていくことになるのだが、どうみても普通に運転できる道で、しかも終点にはけっこう広い駐車場まであった。どうして車止めをしているのか、その意味が不明である。

 そんなわけで「なんで車道を延々歩かなければならないんだよ〜」とこぼしながら歩いていく。登城道とは言え車道だけに傾斜はそれほど急ではなく歩きやすい。ただし、時間がかかる。この車道を歩いていく途中に毘沙門岩があり、そこから旧登城道との分岐点があった。旧登城道は急峻なようだったので、登りは現在の登城道を利用し、帰りに旧登城道を通ってみることにした。ちなみに最短の「鎖場コース」というのもあったが、こちらは通っていないので、どれほど危険なのかは不明である。

 さて、比高150mほど登ると車道の終点に到達し、ここからは階段が付けられた山道を登っていくことになる。階段もしっかりと付けられているのでわりと歩きやすい。車道の終点から比高80mほど登ったところで大手門跡に到達した。

 旧登城道とはここで合流する。かつてここに城門があり、これに押し寄せる敵は3郭の城塁から攻撃を受けるようになっていた。また、大手の南側の郭も、武者溜りのようなもので、大手を守備するための兵を置いていたところであったろう。ちなみにこの郭の先の斜面は木がきれいに切り払われていて非常に眺望がよくなっていた。どうも、ここはパラグライダーの出発地点であるらしく、そのために木がきれいに切り払われているようである。

 登城道は3郭の脇を通って2郭歩行に進んでいく。その際正面の奥には櫓台が設置されており、ここでも登城道を押さえている。3郭は長軸30mほどあり、土塁で囲まれたしっかりとした郭となっている。ここには何かの建造物が建てられている。

 登城道はさらに進んで二ノ丸の側面部を通って虎口へと向かう。この間の登城道の長さはかなり長く、二ノ丸城塁からの攻撃にさらされてしまうことになる。ちなみに本来の虎口と思われるものの手前にも虎口状の切り通しが見られるのだが、これは後世のもので、二ノ丸上の壇にかつて祀られていた神社への参道としてつけられたものである。

 2郭は城内で最大の郭であり、長軸100m以上もある。そして中央部には大きな土壇がある。図の2の上と書いてある部分である。ここは物見櫓でも建てられていた場所なのであろうか。近代には神社が建てられていたようで、現在建物は残っていないのだが、参道や灯篭、周辺の石畳の道などが残されている。

 2の上の壇の北側下には、かつての神社の社務所かと思われる建物が1棟、ポツンと残されている。その脇の大きな窪みは、かつての池の跡であろうか。あるいは城内に庭園が存在していた可能性もある。

 ここから北側に向かったところが1郭である。1郭の手前には20m四方ほどの土塁囲みの郭があり、そこに米蔵跡という案内板が立てられている。しかし、ここは1郭入口を守るための要所に当たり、出枡形であったのではないだろうか。

 この出枡形の虎口から入ったところが1郭である。1郭は東西に長く長軸100mほどもある。南側から東側にかけては急斜面となっており、北側から西側にかけては、地形がやや緩やかだったのか土塁を盛って防御性を高めている。

 1郭の東側は木が切られていて、とても眺望が利いていた。遠くには大きな池も見え、その周辺には雲海も見られた。また、1郭の中心には大きな城址碑が建てられており、そこには「赤松城址」と刻まれている。やはり播磨といえば赤松氏なのであろう。

 2郭から西側に進んだところが4郭となっていた。その辺りに「搦手口を通って88カ所巡りをしながら七つ池に至るルート」の表示が設置されていた。実際5郭や搦手口の先の郭には、多数の石祠が設置されている。城内を一周することで88カ所巡りができるようになっていたようだ。

 搦手口は小さな構造だが、内部がしっかりと折り曲げられており、側面部には石積みも見られた。ここに2カ所ほどの城門を設置していたのだと思われる。この下の谷戸部には数段の郭が設置され、ここに井戸も置かれている。井戸は2郭の東側斜面にもあり、複数個所に水源があったようだ。山の上に井戸を掘るというのもなかなか大変なことだが、水源がなければ籠城はできないものである。

 搦手口を降りていくと最初の堀切があった。この堀切についてはある伝承が存在しているようで、その案内が設置されていた。この城が羽柴軍の攻撃を受けた際に、敵が滑って登ってこられないように、竹の皮に油を塗って、この斜面に敷き詰めていたという。ところが羽柴勢はそれに火をつけたために、竹の皮はたちまち燃え上がり、その火は城内にも延焼し、城が落城するきっかけになったのだという。かなり眉唾な気がするが、なかなか興味深い話である。

 ここからさらに進んでいったところにもっと大きな堀切がある。これが城域を区画する大堀切となっていた。この堀切は両端が竪堀となって落ちているだけではなく、上からの竪堀とも接続している。

 さて、ここまでで城域は終了ということなのだが、この先にも赤いテープが貼ってあって、散策ルートが設定されている。このまま進んでいけば、旧登城道に合流するのではないかと思って、そのまま先に進んでいった。ところが尾根が長く、いつまでたっても下りにならない。そこで地図ロイドで位置を確認してみると、すでに最初の登城口(駐車場に車をとめたところ)の真上近くまで来てしまっていることが分かった。どうも七つ池というのは、山稜の北側下にあるもののようで、このまま降りてしまったら、駐車場まで戻るのにかなり長く歩かなければならなくなってしまう。そこで城内まで引き返すことにした。

 近年、山で迷いそうになった時、地図ロイドが威力を発揮してくれる。これがあれば迷わないで済むのである。まったく便利な時代になったものである。そんなわけで、大手口まで戻り、そこから旧登城道を使って降りて行った。旧登城道は七曲に折れながら降っていく道で、最後は毘沙門岩のところに出た。これで城内を一周したわけである。

 中道子山城は、かなり規模の大きな山城で見どころが各所にあり、登城道も整備されている。ただ、きちんとした車道を延々歩かされるのが腑に落ちない。終点の駐車場まで車で行けるようにしてもらいたいものだ。

南側から見る中道子山城。一番奥の高いところが主郭。ここからの比高は220mほどある。 駐車場脇にある案内板。ここから車道を延々と歩いていく。
途中に急登城道との分岐点がある。写真の毘沙門岩の所から登っていくのが旧道である。 登りは歩きやすい車道をまっすぐに進んでいった。その先にはかなり広い駐車場があった。ここまで車で来れれば・・・・。
そこから比高80mほど登っていくと大手門跡のところに出る。 その先の登城道の脇にある櫓台。
3郭。土塁で囲まれ、大手門を上から攻撃できる位置にある。ここに何かの建物が建っている。 2郭への虎口。こちらは新しいもののようだ。
2郭への本来の虎口。石積みが見られる。 1郭虎口。
1郭内部。「赤松城址」と刻まれた石碑が建っている。 1郭からの眺望。遠くの方には雲海も見える。
2郭にある社殿跡。 2郭の池跡のような窪み。奥に見えるのが2の上高台。
2の上高台の上部。 北側下の井戸跡。
4郭。88カ所巡りの祠が並んでいる。 搦手門跡。やはり石積みが見られる。
その先の堀切。油を塗った笹の葉を置いていて、逆に羽柴勢に火を付けられたという伝承のある部分である。 さらに先にある大堀切。
 中道子山城とはまた変わった名称であるが、これはかつて弘法大師の弟子真然僧都が、この山に中道寺という寺院を建立したことにちなんだものであるという。となると、本来この城の名称は中道寺山城なのではないかと突っ込みたくなるところなのであるが、どうしたわけか現在は中道子山城と呼ばれている。

 南北朝時代、赤松則村の4男であった氏則が志方の地を賜り、その拠点として中道寺のあるところに城を築くことになった。それが中道子山城である。

 応安2年(1369)、赤松氏則は、摂津で反乱を起こし、兄の則祐や従妹の光範らに追討され、天王寺で一族と共に討ち死にした。これによって中道子山城も、城主を失うこととなった。

 その後、孝橋繁広が中道子山城の城主として文献に現れてくる。孝橋氏は赤松氏の一族であり、嘉吉の乱で赤松本家が滅んでしまった後も、赤松家再興のために尽力した人物である。その後戦国期に至るまで、孝橋氏が中道子山城の城主として続いていった。

 天文7年(1538年)、尼子氏が播磨に攻め寄せてきた際には、孝橋氏は櫛橋氏と共に英賀城で尼子勢を迎え撃ったが、敗れてしまい、中道子山城に逃げ帰ったという。

 天正年間、中道子城は、羽柴秀吉の軍勢に攻められて落城したという伝説を有している。城側は堀切の側面部に油を塗ったタケノコの皮を敷き詰めて、攻城側の足を停めようとした。ところが、これに火を付けられてしまい、かえって落城を速めてしまったという。