感状山城(瓜生城・兵庫県相生市矢野町)

*現地按配版などの図を参考にして鳥瞰図を作成してみたが、基本的には記憶に頼って描いているので、あくまでもこんなイメージであったという程度のものである。

 感状山城は、相生市矢野町森にそびえる、比高200mほどの感状山にあった。山麓には羅漢の里があり、その辺りから山上に向かう遊歩道がついている。比高200mといえば、相当な高さではあるが、遊歩道はかなりきちんと整備されたいい道になっており、時間さえあればそれほど辛くはない。われわれが訪問していた時には雨が降っており、しかも遠くで雷がごろごろと鳴っているという悪天候であったのだが、道が整備されていたことで、傘を差しながらでも余裕で登る事ができた。山上はの郭もきれいになっておりヤブもない。夏でも歩くことのできる山城である。

 羅漢の里から登っていく道は傾斜が緩やかになっているので、距離は長くなるが、途中に「感状山城まであと○○m」という看板もたくさん出ていて、残りの距離を感じながら歩き進む事ができるので、なかなか親切であるといえる。

 登って行くとやがて物見岩という所にある。実際物見を置くのによさそうな所である。それに岩がごろごろしている。この城の主要部の城塁は石垣造りといっていいが、材料の石材は城内のこういう箇所から切り出しているのであろう。

 さらに進んでいくと、出曲輪という平坦地に出る。ここはかなりまとまった広さのあるスペースであり城内で最大の郭である。この郭内には石がごろごろしているのが印象的である。かなり規則的に並んでいるような印象もあり、もしかしたら、この配列そのものに何か意味があるのであろうか。まるで礎石のようにもみえるのであるが、礎石にしては、石が平坦なものではなく、これでは礎石になどなりえないであろう。というわけで、なんのために並べられているのかはよく分からないのであるが、自然に転がったものではなく、誰かが何かのために並べたものということは間違いなさそうである。また、この郭には低い石積みが何段かにわたって見られる。それぞれの段の高さは1m程度のものであるが、本来は数段の郭として構成されていたものと見える。

 この出曲輪から、岩がごろごろしている部分を上がった所が主郭部ということになる。この斜面にはかなりの量の岩が露出しており、石垣の材料はこの辺りの斜面からも産出されているのであろう。

 さらに進むと2郭の南側の数段の腰曲輪の石垣が目に入ってくる。登城道の正面に当たっており、「見せるための石垣」である。高さは3mほどあってなかなか立派に見えるものであるが、積み方がいかにも粗くて、素人っぽい。戦国末期や近世城郭の石垣のようにしっかりとしたものではない。角の部分は曲線を描いており、古代山城の石垣となんとなく似ている。ということからして、この城の石垣はかなり古い時期のものだということなのだろうか。そういうこともあって、石垣はかなり崩れている。2郭の西側の城塁はほぼ総石垣造りであったと思われるのであるが、残存している部分は所々にしかなく、大半は崩れ去ってしまっている。高さも2m程度である。この城の石垣構築技術では、それほど高い石垣を築く事は不可能だったのであろう。

 2郭の下の腰曲輪への入口は、未発達ながら石垣を用いた枡形になっている。多少とも技巧的な面も見られることをどう捉えるべきであろうか。発掘成果によると、2郭には大規模な建物がいくつも建てられていたらしい。

 2郭をさらに進んでいくと、一段高い1郭がある。1郭はもともと岩盤の上にあったものか、格別に石垣は積まれていないが、城塁に岩はごろごろしている。城塁の高さも2m程度で、ほとんど自然地形利用といった様子である。1郭の北側にはやはり数段の腰曲輪がある。こちら側には石垣は積まれていないが、北側からの敵の接近はそれほど警戒してはいなかったようだ。

 1郭にも、礎石の跡かと思われる石の配列が見られる。発掘によると、排水溝などもあり、また御殿建造物が、郭の端ぎりぎりまで建てられていたといったことが推定されている。

 2郭の南側下には3郭がある。3郭の先端下には石垣によって構成された虎口が現存している。人一人がやっと取れるような埋門の跡のようで、下から3郭に上がるような途上道もあったと思われる。

 感状山城はざっとこんな感じの山城である。気になるのは先に述べたように、石垣の構築時期がいつであるのかということである。石材は山中から産出できるので、ちょっと積む技術があれば、誰にでも積めるのである。城そのものは南北朝時代から存在していたようであるから、構築時代の可能性の上限はその頃という事になるだろうか。この地域の城のことについては、それほどよく分からないのであるが、わりあいと石垣の見られる城はあるようであり、こうした技術が、早くから応用されていた可能性もあるだろう。

ふもとの羅漢の里にあるオブジェから感状山方向を見上げたところ。比高200mほどはある。 登城道は整備されているので、ゆっくり上がれば、雨でもそんなにきつくはない。
まず最初に尾根に出ると、物見岩がある。このあたりの岩から石材を産出していそうである。 出曲輪。曲輪内部にはあちこちに石が散乱している。石垣が崩れたものにしては転がり方が広範囲である。誰かが並べたのであろうか。
曲輪内部のあちこちにはこのような低い石積みが見られる。 二曲輪方向に向かう道・・といっても岩山の脇をただ進んでいくという感じである。。
二曲輪の石垣。このあたりはけっこう立派である。 二曲輪に入る部分の枡形状遺構。
一曲輪の様子。ここは石垣を組まずとも、ほとんど天然の岩山であったらしい。 一曲輪にはやはり石が敷き詰められている。礎石のようにも見えないが、何かの仕切りに置いていたのであろうか。
二曲輪の脇には石垣が積まれているが、あちこち崩落してしまっている。 南曲輪群の先には石垣によって構築された小規模な枡形門の跡があった。
 感状山城の歴史は古く、鎌倉時代に瓜生左衛門尉によって築かれたものという。この城の本来の名称は瓜生城であった。建武3年(1333)、後醍醐天皇に逆らった足利尊氏は都を追われ、九州に落ちていった。追撃の命を受けた新田義貞は、播州に攻め込んできた。播州は足利氏に心を寄せる赤松円心の勢力下であり、赤松円心は、居城である白旗城に籠もって、新田勢に抵抗をした。その白旗城の支城として赤松勢力の拠点の1つとなったのがこの瓜生城であった。

 新田勢は瓜生城に攻め寄せてきたが、城主赤松則祐はよく守って持ちこたえた。そのことが後に足利尊氏に高く評価され、則祐は尊氏から感状をもらうことになる。そのことを誇り、以後この城のことを感状山城と呼ぶようになったというわけである。「この城に籠もって感状を得たのだ」ということを宣伝するための改称といったところであろうか。

























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