黒井城(保月城・兵庫県丹波市春日町黒井)

 黒井城はJR黒井駅の北方にそびえて見えている。比高240mほどもあるとても目立った山で、いかにも城山という雰囲気がある。今回、訪れた部分を鳥瞰図にしてみたが、実際には城の遺構は支尾根上のあちこちに展開しているようで、これらの支城群が一体化したものが黒井城の全貌であったものと思われる。また山麓の興禅寺は城主の平素の居館の跡であるといわれる。城の登り口は麓の黒井小学校の上辺りにある。そこには駐車場もあり、パンフレットなども置かれていてなかなか親切である。

 城に登るときにはこのパンフに気がつかず、何の予備知識もなく城を見たのだが、降りてきた後でパンフレットを見て、ここが赤井悪右衛門の居城であったことを知って急に親しみが湧いてきた。赤井悪右衛門といえば、司馬遼太郎の小説「貂の皮」で有名な人物である。

 昔、脇坂安治という人物に関しては、賤ヶ岳の七本槍の一人という程度の事しか知らなかったのだが、司馬遼太郎のこの小説を読んで一気に興味が湧いたのを覚えている。さすがに司馬遼太郎は一流の歴史小説家であるだけあって、人物の描写がとてもうまい! 赤井悪右衛門に関する部分の概要は以下の通り。

 信長から光秀の丹波攻略の援護のために黒井城を攻める事を命じられた秀吉は、あまり気乗りがせず(明智光秀の手伝いなんか厭だったんだろうなあ)自分が赴く代わりに、脇坂安治に300ほどの兵を与えて「攻めて来い」と命じた。安治は秀吉に教えられた通りに、降伏を勧めるために単身城内に入り、赤井悪右衛門直正と面会した。しかしそこで悪右衛門の威光にうたれてしまった安治は、「降伏」を勧告する代わりに、ついつい「勉強のために武功の数々を聞き、武士としての生き方を教授して欲しい」と下手に願ってしまう。てっきり降伏勧告に来たものだと思っていた悪右衛門は、安治のこの意外な一言に「少年愛すべし」と思い、赤井家に代々伝わる貂の皮の槍袋(メス)を与える。こうした皮袋はオスとメスとが一対となっているのが普通である。「オスの方は?」と訪ねる安治に悪右衛門は「それはわしから直接奪うがよい」といい、翌日、城を打って出る時間を教えた。それにしたがって悪右衛門と闘った安治は悪右衛門を討ち取って、貂の皮を手に入れたのであった。死を決した悪右衛門と脳天気な安治との人物描写がとても生き生きと描かれていて、昔一度読んだだけなのに今でもよく記憶に残っている部分である。そうしたやり取りがこの城であったのかと思うと、こんな山城にも関心が湧いてくるのであった。

 城は非常に急峻な山上にあり、郭の面積もそれほどは広くないので、多くの人数を籠城させることは不可能であると思われる。赤井氏は平素は山麓に住み、山上部分は本当にいざという時の籠城用の施設であったものと思われる。

 山頂に連郭式にいくつかの郭が配置されているが、登城道に接する、2郭、3郭の前面に石垣が積まれている。また1郭の南側にも石垣がかなりの部分、積まれている。反対側の斜面には積まれていないのだが、これは要するに、山麓の城下町方向から見える部分に重点的に石垣を配置したという事なのであろう。そういう意味では防御面もさることながら「見せる事によって威勢を示すための構造物」といってよさそうである。また、小さいながら、1郭、2郭にはそれぞれ枡形構造が見られ、なかなか技巧的である。こうした構造物や石垣がいつの時代に築かれたのかはっきりしないが、おそらくは赤井氏の時代の城はもっと素朴なものであり、明智勢の支配が進んだ頃に築かれたものなのではないかと思われる。新しくこの地の支配者となった明智勢が、城下からもはっきりと見える新しい石垣や建造物を示す事によって、支配者が交代したことを、一見して明らかにするということを意図していたのではないだろうか。築かれてから400年を経過しても石垣はほとんど崩れていない。よほど周到な技術で積んだものであろう。また城内には瓦が落ちていた。かつて瓦葺の建物が存在していたのである。

 城に上る中腹には石踏みの段と呼ばれる平坦地がある。平坦地の少ないこの城にあっては、この部分も重要な居住空間であったことだろう。また、ここにはなぜか山門だけが取り残されたようにたたずんでいる。ある時期、ここに寺院が営まれていた事があるのだろうか。

 石踏みの段から少し降っていった辺りのAの部分には竪堀の跡かと思われる部分が二箇所ほどあった。もしかすると、ただの自然地形、あるいは自然の水路の跡であるにすぎないかもしれないが、通路上にあり、竪堀が合ってもおかしくない場所なので一応鳥瞰図にも描きこんでおいた。

 城の主要部は以上の通りであるが、上記の通り、その外に各所に支城が築かれていた。特に、主要部の西側下にある西城は堀切や櫓台などがしっかりと残り、赤井氏時代の黒井城の雰囲気をよく残しているらしい。再びここを訪れる機会があったら、今度はその辺りもゆっくりと歩いてみたいものである。

南側の黒井駅の方から見た黒井城。比高240mほどの山城である。上が平らになっており、石垣がありそうな雰囲気が分かる。 黒井小学校の脇からどんどん上っていくと、やがて山門が見えてくる。この上が「石踏みの段」と呼ばれる郭の跡となっている。
山門下にはいくつかの郭がある。 3郭の入口にある石垣。
2郭に上がる道は、石垣は用いていないが、枡形形状をなしている。 2郭から1郭を見たところ。1郭との間には浅いながらも堀切がある。
1郭から見た黒井市外。さすがに眺めはとてもよい。 1郭にあった城址碑。「保月城跡」とある。
1郭の南側には石垣は積まれていない。しかし城塁は急峻である。 1郭の城塁を西側下の段から見たところ。
1郭南側の石垣。こちら側にはかなりしっかりと石垣が積まれている。南下の城下からでも見えることを意識しているのであろう。 2郭南側の石垣。
3郭の石垣。 麓の興禅寺は城主の平素の居館の跡であるといわれる。また、ここは春日局の生誕地でもあるらしい。
 上記の通り、赤井氏の居城である。しかし、城主が赤井氏なのになぜ城が黒井城なのかが謎だ。赤井氏滅亡の後は、丹波を攻略した明智氏の城となり、光秀の家臣斉藤利三が城主となったという。徳川家光の乳母として著名な春日局は、この斉藤利三の娘である。山麓に「春日局生誕地」とあるのはこのことによる。また、この一帯は春日町と呼ばれており、春日局という名称もそこからきているという。

 山麓の興禅寺。石垣も堀も立派で、見るからに城構えである。黒井城の山麓の居館であったという。



































大竹屋旅館