三木城(兵庫県三木市上の丸)

 *現地案内板の図を基にしてラフをとりあえず描いてみたが、台地先端の本丸部分を除いて、遺構の大半は隠滅しているようである。時間もあまりなかったので、本当にこんな感じなのかどうか、隅々まで確認はできなかった。だいたい中世城郭なのに「本丸」「二の丸」「三の丸」といった表記はちとアヤシイような気がしないでもない。

 本丸には2つの櫓台のような土壇A,Bがあって、Aの方は「天守台」と呼ばれているようである。実際にここに天守があったという人もいるようだが、どうも眉唾なような気がしないでもない。

 本丸こそは公園となっていて、それなりに雰囲気は残っている。Bの土壇の上には城主別所長治の碑があるし、その下には別所長治の騎馬武者像があったりする。別所長治といっても、全国的な知名度は低いと思うが、地元の人にとっては誇るべき殿様であったのであろう。

 本丸の周囲にはラフの通りに、堀によって区画された多数の郭があったようだが、この辺りは住宅地や体育館になっていて、遺構のほとんどは失われてしまったものだろう。

 城の南側方向には高尾山という小山がある。「城郭体系」によると、ここにはかつて高尾山城があり、土塁や空堀が残っているという。城の中枢部分よりも、比高で18mほど高い位置にあって、城内全域を見下ろす事のできる場所でもある。これは背後からの敵の接近に備えて築かれた出城のようなものであったというべきか。

 秀吉の包囲網に足掛け2年も耐え続けた城ということで、かなりの要害地形を想像していたのだが、美嚢川が前面にあるとはいえ、城の比高は10m程度であり、それほどの堅城であったとも思われない。ようするに、それだけ長い籠城に耐えうる事ができたのは、城が鉄壁の要塞であったからではなく、城主を始めとした籠城衆が一致団結していたからというべきであろう。




Bの土壇の下に建つ「別所長治公像」 別所長治は地元ではこんなにも愛されているのである。 Bの土壇の上にある、城主の慰霊碑。辞世の句などが刻んである。
「今はただ恨みもあらじ、諸人の命に替はる我が身と思へば」
本丸の周囲にはこのような土塀が復元されている。しかし、このような近世城郭的な土塀が実際に存在していたものかどうか。 本丸の西側の斜面には崩落防止の工事が行われたらしい。確かにこの角度だったら敵の接近を阻む事ができるであろうか、城塁がこんなコンクリートの斜面では、ちょっと興ざめである。
Aの土壇。「天守台」と呼ばれているようだが、このような城に天守があったものかどうか。 本丸端の稲荷社の脇にある切り通しの道路。こうした道路は堀切の名残であるというべきか。
 三木城は、播磨の豪族別所氏の歴代の居城である。天正6年(1578)、播磨侵攻を信長に命じられた羽柴秀吉は、この地域にも軍勢を進めてきた。別所氏は始めは秀吉に随うそぶりも見せたが、結局、秀吉に対して反旗を翻してしまった。秀吉が別所氏の立場を重く見ていなかったことから、「田舎侍だとあなどられた!」といって怒ったのがその理由だといわれているが、今思えばそれは判断ミスである。積極的に秀吉に従っていたなら、後に別所氏はそれ相応の大名ともなれたのではないかと思われるのだが、実際にはそうはならなかった。もっとも信長は、せっかく織田方についた尼子勝久や山中鹿之介の籠城する上月城の援軍要請をあっさり断ったりしているから、「毛利に比べて織田は信用ならない」と思われても仕方のないところであったかもしれない。

 秀吉は無用の血が流れるのを嫌い、城の周りを完全包囲して、兵糧攻めに出る事にした。しかし、城兵の結束は固く、ひそかに兵糧を城内に入れる手引きをするものもいて、なかなか城攻めははかどらなかった。とはいえ、2年も籠城していれば、次第に戦意を失ってしまうのもいたし方がない。別所長治は自分が切腹する代わりに城兵の命を助けてもらうように秀吉に条件を出した。というより、秀吉が出したその条件を結局のまざるを得なかった、といったところか。

 「城主のみが切腹して城を明け渡す事を条件に、城兵の命は助ける」 これが、そののち秀吉の城攻めの際の暗黙のルールとなっていく。

























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