利神(りかん)城(兵庫県佐用町平福)

*注意 この城はその後、石垣の崩落が進んでしまい、現在は立入禁止になっているという情報を得ました。むやみに立ち入ることのないようにお願いします。

 *鳥瞰図はざっと歩いてみた範囲を記憶を基にして描き起こしたものである。実際には城域はもっと広いし、さらに遺構があちこちに展開していると思われるのだが、主要部のイメージはだいたいこんな感じであった。

 中国自動車道の佐用ICを降りて国道を北側に向かって走るとすぐ右手前方の高い山の上に石垣らしきものがあるのが見えてくる。これが利神城である。標高373m、麓からの比高でも200m以上はあるのではないだろうか。とても急峻な山である。登り口は智頭急行智頭線の平福駅の南300mほどの場所にあり、ここから上がって行く道が大手道ではないかと思われ、途中に遺構を見ながら登る事ができるらしいのであるが、今回は時間がなかったこともあり、背後の林道を車で登っていった。この林道の入口はちょっと分かりにくい。道の駅「平福」を過ぎてさらに国道を北に数百mほど進むと、右手に農機具屋さん(クボタだったかな?)のある信号がある。ここを右手に曲がり、どんどん進んでいく。線路を越えると道が段々細くなっていくが、かまわずにさらに1kmほど進むと、右手の川を渡り、城址方向に上がって行く林道が見えてくる。(入口に「利神城入口」といった石碑が建っている) 後は林道をあがっていけば本丸の90m下辺りまで行く事ができるのだが、この道は舗装もされておらず、けっこう荒れている。しかも行き止まりに路上駐車をするような形になっており、さらには「この方向からの登城は石垣の崩落の可能性があり危険なのでなるべくやめてください」といった案内板も出ている。したがって、この道から行くのはよほど山城歩きに慣れたた人だけにした方がよいと思われる。車を大事にしている人も、この道は通らない方が無難であると思う。

 利神城のことは、実際に訪れてみるまでほとんど知らなかったのであるが、来てみて驚いた。なかなかよくできた城である。たとえて言うならば「ミニ竹田城」といった趣で、こんな急峻な山上に総石垣造りの城を築き、さらには虎口に枡形を必ず配置するといった技巧部分を見ても、竹田城との類似性を強く感じる。織豊期の山城の典型の1つといえるであろうか。

 山頂の本丸は長軸20mほどのかなり狭い空間である。ここは「本丸」というよりも実質「天守台」とでもいうべき区画であったかもしれない。慶安3年(1650)に平福藩松平氏の家臣都築四郎左衛門が書いた利神城の絵図によると(「日本城郭体系」の解説による)「天守屋敷」「天守閣」といった文言が見られ、実際三層ほどの天守が建っていたらしい。この本丸は高石垣によって守られていた形跡が見られるが、現在では東側の石垣がかなりの部分、崩落してしまっている。残った部分も、このまま放っておけば、近い将来に崩れていってしまうのではないだろうか。できることならば、保存の手を打ってもらいたいものである。

 本丸の北東部分が「鴉丸」と呼ばれている郭であるが、本丸との比高差はほとんどなく、本丸が天守台であったとすれば、実質的にはここが本丸というべき郭であったといえるだろう。この郭もすべて石垣によって囲まれている。本丸との間には小規模な枡形がある。鴉丸から西側下の郭に降りる部分には埋門の跡のようなものがある。人が一人やっと通れるくらいの幅の関門であるが、下の部分との間に石段もない。往時、ここには梯子でも架けていたのであろうか。いずれにせよ、普通に歩いて通るのは難しいので、こちらは大手道ではなかったかと思われる。

 本丸の南側に2の丸がある。やはり石垣造りで、さらに南に2つほど郭が続いているが、郭の先端部分の石垣には虎口のようなものが認められない。こちら側からの通路は、石垣の東側下の斜面沿いにあり、二の丸の北東部分の立派な枡形を通って二の丸内部に進入するようになっていたようである。この二の丸北東の枡形は、利神城でも最大の枡形であるが、北側の石垣がせり出してきており、あと一回地震でも来たなら、たちどころに崩壊してしまいそうでちょっとこわい。しかし、これを修復するのも難しいし、費用もかかることであろう。

 本丸の下から南西に向けて三の丸が展開している。こちらもやはり総石垣造りであり、各所に枡形のような遺構も見られるのであるが、こちら側の方面の石垣が一番崩落している。地盤が弱かったのか、台風か大雨の際に崩れてしまったものであろう。本来ならば見上げるほどの高石垣であったろうと推測されるのであるが、崩落のあとは痛々しく、残念な事である。また、この部分の石垣はかなり弱っているので、あまり端の方に立たない方が無難であると思われる。

 平福駅の近くに案内のあった登城道は、地形図を見ると、尾根筋を通ってこの三の丸の北側に出るようになっているようだ。三の丸から二の丸に至る部分は、石垣の脇を通る坂虎口になっている。この付近も崩落が激しく旧状は分かりにくくなっているのだが、この坂虎口を通って二の丸に進入し、さらに本丸に上がっていくというのが大手道であったものと思われる。

 利神城の構造はざっとこのような感じである。要所要所に石垣を用いた枡形を配置させ、登城ルートを何度も折り曲げるといった構造は、織豊期遺構のものであろう。竹田城と構造が似ていることから、この地域が秀吉によって支配されていた時期にこの城も改修されたもののように思われる。しかし、後で城の歴史を調べてみたら、近世に入ってからも利神城は、姫路城の支城としての拡張工事が行われていたらしい。となると、現在見られる遺構というのは、まさに近世山城のそれである、というべきなのかもしれない。城内には瓦もあちこちに落ちていた。近世城郭としての建造物のかつては山上に構築されていたのである。その時代の利神城は、山麓から見ても、かなり壮観なさまであったことであろう。

南西山麓の道の駅辺りから見上げる利神城。比高200m以上はあろう。目を凝らすと山上に石垣があるのが見える。 背後の林道に車を止めて歩き出すとすぐに本城部分が見えてくる。ここから400mほどである。
鴉丸の石垣。かなり長い距離にわたって延びている。 二の丸入り口の枡形虎口。右側の石垣がせり出してきていて、いまにも崩れかかってきそうである。
二の丸郭から見た本丸の石垣。 本丸の枡形虎口。
本丸から三の丸越しに山麓の道の駅の方向を見たところ。 本丸内部。
*注意 このような山城にスイカを持って上がるのはとても大変なのでお勧めできません。
鴉丸北側から本丸郭の枡形虎口を見たところ。 本丸西側下の腰曲輪から鴉丸郭に上がる道はこのような細い埋門のようになっている。しかも、石段があるわけでもない。往時は梯子で接続していたのであろうか。
本丸下の石垣。こちらはわりとよく残っている。 本丸西側の石垣。かなり崩落が進んでいる。保存の手を打たないと、そのうち全面的に崩れ去ってしまうのではないだろうか。
三の丸下の先端部分。左右二箇所に石垣による桝形構造が見られる。 三の丸下の部分へはこの石垣脇の急坂によって接続されている。
三の丸下の部分にある枡形構造。 三の丸下の部分から本丸方向を見たところ。崩落の跡が痛々しい。
二の丸南側の登城道脇にある苔むした石垣。 二の丸南側の先端の郭にある石垣。
 利神城はもともとは、赤松氏の支族で、播磨地域でかなりの勢力を誇っていた別所氏の城であったという。天正5年(1577)、播磨地方に侵攻してきた秀吉軍は利神城にも攻め寄せてきた。城主別所定道は、勝ち目のないことを悟り、三人の人質を出して、秀吉に降った。それ以降、利神城は秀吉方に属する事となる。とはいえ、新興の秀吉の風下に立つのは不満だったのであろうか。病弱だった定道に代わって城主となった弟の別所林治は、秀吉に対して反旗を翻した。そこで、南方6kmほどの所にある上月城の城代となっていた山中鹿之助が利神城を攻撃、これによって城は落城したという。

 上月城が毛利方の宇喜多勢に攻められて落城すると、利神城も宇喜多氏の手に落ちることとなる。その後、秀吉が中国地方に深く侵入してくると宇喜多氏は秀吉に随うようになったため、利神城を奪われることなく、その後、関ヶ原の合戦まで、宇喜多氏が利神城を支配することとなった。

 関ヶ原合戦で破れた宇喜多氏は領国を没収された。代わりに播磨の国主となったのは家康の娘婿であり、西軍に加担した池田輝政である。利神城には輝政の弟出羽守由之が配され、当地域を中心として3万石を支配した。由之は関ヶ原直後の慶長5年から5年間をかけて利神城の大々的な改修を行っているので、現在見られる遺構の多くは、この時代に構築されたものと見られている。

 その後、どういういきさつからか、池田由之は兄の輝政から利神城を没収されてしまう。一説には利神城のあまりの要害さを見て気を悪くしたからだというが、それだけが理由であったのかはよく分からない。その際に三重の天守なども破壊されてしまったのだと言われる。

 後に、利神城は池田輝政の7男であった松平輝興の城となったが、寛永7年(1630)、輝興が赤穂に転封になると、利神城は廃城となったという。
























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