兵庫県篠山市

八上城(篠山市八上内字高城山)

*鳥瞰図の作成に際しては現地案内板の図を参考にした。

 波多野氏の居城であり、明智光秀との攻防戦で名高い八上城は、東陽寺や十念寺の南側にそびえる比高240mの高城山に築かれていた。

 北側山麓の春日神社に登り口があるらしいので、それを目指していく。それにしても霧がひどい。天気予報ではすでに晴れていなければならないはずなのに、今にも雨が降り出しそうな霧の中で、まさに「きりがない」状態。なんでこんなに霧があるの?と思ってしまったのだが、後で山に登ってみると、次第に霧は薄くなり青空が見えてきた。さらに上に登ると、下の方に雲海が見えてきた・・・・つまり霧だと思っていたのは、いわゆる雲海だったのである。山城部分は雲海から浮かんでいるように見えた。こういうのはこの地域に特徴的な気候のようで、雲海は竹田城だけの専売特許ではないというのがよく理解できたのであった。

 さて、北側の道路を走らせていると、案内板が設置されているのが目に入ってくる。これが春日神社の入口であり、ここから進んでいったところが神社境内となっている。道路脇にはトイレが設置されており、その脇にちょっとしたスペースがあったので車はそこに停めさせていただいた。

 車を置いて遊歩道を歩き始める。登っていくとすぐに切岸が見えており、その上がかなり広いスペースとなっている。ここが主膳屋敷と呼ばれているところで、要するに山麓居館が置かれていたところである。この山は水源が豊富なのか、主膳屋敷内部はけっこう水がたまったり湿ったりしていた。これは雲海とも関係があるのかもしれない。

 主膳屋敷内部を右手に進んでいくと、上に登っていく整備された階段が見えてくる。後はこれを登っていけば城の主要部に到達できるようになっている。主要部までは比高200mほどあるのだが、途中から曲輪が配置されているので、あまり飽きることなく登っていくことができる。

 進んでいくとやがて尾根上の平場に出る。ここが鴻ノ巣と呼ばれている平場で、山上への最初の番所が置かれていたところであるという。そこから尾根伝いに登っていくと、下の茶屋丸、中の壇、上の茶屋丸といった尾根削平の郭が次々と現れてくる。中の壇からは、下の主膳丸に向けて長大な竪堀が掘られていた。

 上の茶屋丸からはしばらく尾根沿いの階段を長く登っていく。するとやがて右手に堀切が見えてきた。城域を画するもので、ここから先が主要部の始まりである。その辺りから上の平場に回り込んでいったところが右衛門丸である。その入り口の脇には石垣が積まれていた。

 右衛門丸から登っていった次の壇が涼御殿、さらに三ノ丸と続いていく。三ノ丸には倒木がけっこうあった。最近の台風で木がなぎ倒されてしまったものであろうか。

 その上が二ノ丸である。この辺り、山上にしてはけっこうなスペースがあり、かなりの人数を込めることもできたであろう。二ノ丸からは本丸の城塁が見えている。そこであと1段登っていけば本丸となる。本丸には波多野秀治顕彰碑が建てられていたのだが、このような大きな石材をどうやってここまで運んできたものであろうか。ヘリでも使わないと、到底ここまで運ぶことはできなさそうである。

 本丸から東側の下にかけて虎口が設定されているのが見えている。下の御蔵方面に続くルートである。そちらに向かう途中に左手に進むルートもあり、その先が岡田丸である。岡田丸もそこそこ広い郭であるが、この郭に面する本丸城塁に石垣が積まれているのが印象的である。八上城ではもっともしっかりとした石垣がここに見られる。岡田丸の先は見晴らしがよくなっていたのだが、下の方には大量の雲海が見えていた。11月のこの時期、雲海は毎日のように見られるのであろうか。

 東側の虎口を通って山道を降っていくと、片側に土塁を侍らせた平場に到達する。これが御蔵屋敷である。その先に土壇と切岸があって一段低くなった先にもさらに土塁を配置した細長い平場が続いている。この辺りに多数の蔵が設置されていたのであろうか。その先には大堀切がある。

 堀切から尾根の下の鞍部に降りてみる。そこには井戸があるらしいのでそれを目指す。すると井戸があった! かなり直径も大きく、石組みの井戸で、現在でも水を湛えている。天然の水源地なのか、あるいは周囲から水がたまるようになっているのか、いずれにしてもかなりの水量がありそうだ。どんな堅城でも水なしには籠城はかなわない。八上城は水源を有しているという点で、実際の長期の籠城戦に耐えうる山城であると言っていい。

 井戸のある部分の両脇には尾根が高くそびえており、それぞれに段々の郭が造成されている。これらは水場を守るための郭ででもあったかもしれない。

 先の大堀切のところに戻る。ここまでが八上城の主要部というべき個所であるが、北側に尾根がさらに長く延びており、こちら側にも城郭加工が施されているようなので、大堀切から山道を降って、北東側の尾根の方向に進んでいった。

 尾根に入るとすぐに「はりつけの松跡」という表示があった。現在は松の木はないのだが、これが有名なはりつけの松があったところということなのであろう。

 かつて八上城に人質に取られていた明智光秀の母が、城主波多野兄弟が安土で殺害されたために、城内ではりつけに架けられて殺害されたという。そのことに対する恨みが、本能寺の件の動機の1つになっている、というのがかつてよく言われていた話であった。現在では光秀の母はりつけ説は否定されているのだが、波多野兄弟を安土に連れていくにあたって、明智側がなんらかの人質を差し入れていた可能性は大いにあったと思われる。したがって、その人質がはりつけになったという事実があったとしても不思議ではないのだが、ただ、この場所がそうであったというのは信じられない。人質を腹いせに殺害するのなら、山麓にいる明智軍からよく見える場所で行うはずであり、こんな背後の尾根で処刑を行っても、明智軍にはさっぱり伝わらないであろう。おそらく、かつてそれっぽい松があったので、こうした伝承が生じたものなのではないかと思う。

 その先には茶屋の壇と呼ばれるまとまった平場があり、そこからは長い尾根が続いている。この尾根は「馬駆場」と呼ばれているようなのだが、このような尾根で馬を走らせていたものかどうか・・・・・・。この尾根沿いには何カ所かに竪堀が見られ、尾根斜面の横移動の阻止を図っていたようである。

 さらに進んでいくと芥丸があり、その先に堀切があって、その上に西蔵丸があった。これが城の最北端であり、城域はここまでであったと思われる。西蔵丸手前の堀切からも山下に降っていくための遊歩道が付けられていたので、帰りはそのまま下まで降りていくことにしてみた。途中から沢沿いに進んでいく道で、やがて下の道路に到着した。

 八上城には充実した遺構が残されており(特にかなり高所にしっかりとした井戸が残されているのに驚かされた)、見どころの多い山城であるとともに、国指定史跡らしく遊歩道もしっかりと整備されており、歩きやすい山城であった。そして何よりも歴史上有名な城郭であり、一度は訪れてみるべき城であるというべきであろう。竹田城に訪れなくとも、ここでも大きな雲海を見ることもできる。

午前8時。天気予報は晴れのはずなのに、雲海のため、高城山がまったく見えない。しかし、上まで登れば、この雲海の上にでることができる。 登り口にある春日神社。かろうじて駐車スペースもある。
主膳丸の城塁。 主膳丸内部。かなり広く、ここに山麓居館が営まれていたものと思われる。
上の尾根にある中の壇から主膳丸まで落ちている巨大竪堀。 尾根に登っていくと、まず鴻の巣と呼ばれる平場がある。
その上にある下の茶屋丸。 中の壇。いずれも尾根を利用した平場である。
上の茶屋丸。 そこから主要部へは長い階段が続いている。
主要部手前にある堀切。 右衛門丸の石垣。
三ノ丸跡。倒木があちこちにある。 遂に雲海の上に出た! 真下に雲海が見えている。雲海は竹田城の専売特許ではない。山上は晴れているが、地上は霧の中なのであろう。
二ノ丸と本丸城塁。 本丸内部に建てられた波多野秀治を称える大きな顕彰碑。
岡田丸。 岡田丸から見た本丸城塁の石垣。
本丸から降っていくと蔵屋敷跡に着く。片側にはしっかりとした土塁がある。 その先の尾根の下には大きな池がある。城の水源となっていたものである。
その南側の尾根の堀切。 北側尾根の堀切。
そこから東側の尾根方向に降っていくと、はりつけの松跡の案内板が立てられていた。 その先の茶屋の壇と呼ばれる平場。
尾根はさらに続き「馬駆場」の案内表示がある。その側面部には何カ所かに竪堀が掘られている。 芥丸跡。
最先端部にある西蔵丸方向を見たところ。その下にはまだ雲海が見えている。 西蔵丸との間の堀切。
西蔵丸跡。 最後は西蔵丸の堀切の所から遊歩道を降りて行った。降りた頃、やっと雲海が晴れ、山頂部が見えるようになっていた。
 八上城は、丹波の国人領主であった八上氏の居城であるが、何といっても有名なのが、天正3年からの、明智軍との攻防戦であろう。

 当主の波多野秀治は、当初は織田軍に味方していたのだが、織田信長に不信感を抱いたのか、赤井氏らと共に織田軍に反旗を翻して、明智軍と攻防戦を展開していくこととなる。

 波多野氏は一度は明智軍を撃退することに成功するが、物量で押してくる織田勢力のために次第に押し込まれていき、天正6年12月からは八上城に押し込められ、籠城戦を強いられることとなる。

 籠城の準備が十分でなかったのか、6か月後には城内で飢餓が始まり、『信長公記』によれば、城兵たちは草木を食べ、牛馬を殺して食べてしのいだというが、ついには抵抗する体力も失い、波多野3兄弟は捕らえられ、安土に連行されてそこで処刑されることとなった。八上城も明智軍の手に落ち、丹波は明智光秀が支配する処となった。八上城には並河丹波守が城代として入城したという。

 天正10年、本能寺の変の後の山崎合戦で明智氏が滅亡すると、丹波は羽柴秀吉の養子秀勝が支配することとなり、八上城には浅野和泉守・余江長兵衛らが城代として入城した。

 さらに羽柴秀勝の転封後は、前田玄以が城主となり関ケ原合戦を迎えた。

 前田玄以の死後、前田主膳正茂勝が城主となるが、山麓の主膳丸はこの人物にちなんだ名称である。どういう経緯か分からないが、慶長13年、この主膳正茂勝は、重臣を殺害して出奔するという事件を起こし改易となる。その後には、常陸笠間城主であった松平康重が転入してくる。

 慶長14年、幕府の命により、篠山城が天下普請として築城される。これにより篠山地区の政治の中心は篠山城へと移り、必要性を失った八上城は廃城となる。




大渕館(篠山市大渕47)

 大渕館は善法寺の北東400mほどの位置にあり、航空写真をみると、その形状をはっきりと把握することができる。畑川のすぐ脇で、水田地帯の奥にある。現在、内部は民家の敷地となっているため見学できないのだが、南側には実に立派な水堀や土塁が現在も良好に残されており、県指定の史跡となっている。

 というわけで、近くまで行けばすぐに分かるだろうと思っていたのだが、この日、雲海がかなり濃厚になっていて、近くまで行ってもどこにあるのかよく分からなかった。そんなわけで集落をしばらく走り回ってようやく場所を見つけることができたのであった。しかし、霧さえ出て居なければ、遠くからでも南側の土塁はよく見えるに違いない。

 規模は60m四方ほどの単郭方形であり、北東側が欠けているのは鬼門除けであろうか。

 南側の土塁に近い部分が現在も水堀となって残されている。しかし、その手前には一段低く水田があり、本来は堀幅がもっと広かったものと推測される。南側の虎口にはいかにもそれらしい門が建てられ、その脇に「土居の内」と刻まれた碑が建てられていた。




 城主は畑氏であったという。畑氏はもともとは武蔵国の豪族であったが、南北朝時代に新田義貞にしたがって軍功を挙げ、この地を領するようになったものだという。以後、戦国末期までこの地の領主であった。北西の山中には八百里山城という詰の城を有していたという。
















南側の虎口の脇に「土居の内」と刻まれた碑が建てられている。 堀と土塁。
南側の堀跡。 南東側の堀と土塁。




大山城(篠山市北野301)

*鳥瞰図の作成に際しては現地案内板の図を参考にした。

 大山城は、大山川に臨む比高10mほどの台地縁部を利用して築かれていた。愛宕神社の北西200mほどの位置であり、道路脇に案内板が設置されている。ここまでくれば案内板が目に入り、背後に堀跡があるのが確認できるのであるが、ここ場所に来るのがちょっと分かりにくい。県道77号線のこの位置から民家の脇を抜けて奥の方に入り込んでいけば、やがて、城址案内板が目に入ってくると思われる。

 現地案内板の図を見ると、7郭ほどの郭が堀によって区画されていたようだが、現状では1郭しか明確には分からない。現地にいらっしゃった土地所有者の方と思われる老夫婦の方に旧状を伺ってみたのだが、現状以外にはよく分からなさそうで、かなり古い時代に、開発のためにあちこち破壊されてしまっているらしい。

 それでも1郭とその北側の堀はよく残されている。虎口の脇にはわずかに土塁が残り、その西側には一段低く腰曲輪もある。また、南側は大山川に臨む断崖となっており、かなりの要害地形である。西側は台地続きのため、要害性は低くなる。




 大山城の城主は中沢氏(長沢氏とも)であった。

 鎌倉時代の承久の変の後、関東御家人であった中沢基政は、当地の地頭となったが、その後中沢氏の子孫が当地を代々支配していくことになる。大山荘西部には「殿垣内」という場所があり、地頭としての館はその辺りにあったと想定されている。

 15世紀末になると、中沢氏は次第に波多野氏と対立するようになり、そのための拠点として築かれたのが大山城であったと考えられている。

 その後、明智光秀による丹波攻略の際に攻撃され、中沢氏は滅亡したという。
















1郭北側の堀跡の東側部分。 同じく西側部分。
1郭の南端部は川に臨む断崖となっている。 1郭西側の腰曲輪。