篠山城(兵庫県篠山市北新町)

 *正保城絵図を基にして、篠山城の鳥瞰図を描いてみた。現状からはわりと単純な構造の城であったかのような印象を受けるが、こうしてみると、馬出しの内部もかなり複雑に枡形を組み合わせていたのだという事が分かる。しかし、そうした二の丸内部の遺構の大半はすでに取り払われている。

 06.7.15(土)、ヤブレンジャー夏合宿の最初の目的地がここであった。(実際には、途中ついでに園部城に最初に立ち寄ったのであるが)、市川でウモ殿を乗せた後ナビの目的地を篠山城にしたら、ざっと630kmほどあった。かくも長い距離を夜中ず〜っと走り続けてここにやって来たのである。篠山城に着いたのが午前8時頃。コンビニで買ったお弁当をまずここで食べたのであるが、朝の空気はさわやかで、篠山城で食べた朝食はとてもおいしかった。

 篠山城は、平地にあった台地を本丸に利用している。その周囲を高さ10mあまりの高石垣で囲み、北側の大手口には、二重に枡形を組み合わせて厳重な虎口を構成している。本丸に続く土橋部分は大手方向も、搦め手方向も、いずれも多聞櫓を縦にしたようなものを載せているのが特徴的である。また、本丸の一角には「殿守丸(天守丸)」と呼ばれる、天守台を中心とした郭を設けている。天守台には天守は実際には建てられなかったが、本丸と二の丸にあった三重櫓が、実質的には天守のようなものであった。天守台には単層の櫓が1つ置かれていたが、こんな大規模な天守台に、単層の櫓1つが載せられている姿にはなんとも悲しいものがある。本丸には御殿があったが、このうち大書院と呼ばれる最大の建物は、昭和28年まで現存していた。しかし、火災にかかって焼失してしまった。現在ある大書院は、近年、復元されたものである。

 本丸の石垣下には犬走りがあるのだが、この犬走りの幅がやたらと広いのも篠山城の特徴の1つである。幅はおおよそ5,6mほどはある。城の兵士が走り回るための空間というよりは、堀を越えて上がってきた敵を迎撃するための場所として意識されていたのであろう。本丸周囲の堀は、かつてはここに学校などが設置されていた事から、大部分が埋められてしまっていたのであるが、これも近年、復元工事が盛んに行われている。今回の訪問でも、南側の堀が掘り返されている最中であった。往時の堀の姿を取り戻すためにはまだまだ年月がかかりそうである。

 本丸の周囲を取り囲むようにして二の丸が置かれていた。現在は、特に仕切りのない、ただただ広い空間になってしまっているが、本来は図の通りに、馬出しから進入した後、登城路が何度も折り曲げられて、複数の城門をくぐらないと本丸方向に進入できないように枡形が組み合わされていた。このようなところが近世城郭らしい部分である。二の丸には石垣は虎口付近にしか用いられていないが、土塁はかなり高く上端幅も広い。その上の土塀には、何ヶ所も外側に突き出した部分がある。側面の敵も迎撃できるようにという工夫のためのものであるが、これほどおおく、突き出した部分を持っている城もめずらしいといえる。

 さて、この城でもっとも印象に残るものの1つが、各虎口の外側に造られた馬出しである。大手馬出しこそは隠滅してしまっているが、東馬出し、南馬出しの2つは、現在もほぼ完存している。近世城郭に馬出しは付き物であるが、実際の所、破壊されてしまっているものが多く、このようにきちんと土塁まで残されている例は意外と多くないのである。そういう意味ではかなり貴重な遺構であるといってもいいであろう。

 篠山城には、大書院以外の建造物は存在していないが、石垣や土塁、堀はよく残されており、かつて学校があった二の丸もしだいに復元整備されつつある。今後、さらにどのように篠山城が整備されていくのか、今後とも楽しみである。

 また、篠山城は天下普請によって築城されたために、石垣にはさまざまな刻印が現在でも残されている。そうしたことに興味のある人は、石垣の刻印を調べてみるのも面白いかもしれない。

東馬出し付近の堀。幅は30m以上もあり、かなり広い。 東馬出し。以前は民家が建っていたような気がするのだが、現在ではきれいに整備されている。
東馬出しから駐車場に入って車を置いた。ここでコンビニで買ってきた朝食をみんなで食べたのであった。ちなみに篠山城は入城料は無料だが、駐車料金はしっかり取られる。 本丸表門手前の堀。かつては埋まっていたものだが、徐々に復元されつつある。城内側の犬走りの幅が広いのもこの城の特徴の1つである。
表門の枡形。奥には復元された表書院の屋根が見える。 本丸の城塁。けっこう高く、角度も急峻である。
本丸の井戸(左側)と表書院。 本丸搦め手門。ここは埋門形式であったろうか。
天守台から下の二の丸を見る。学校のグランドとなって埋められていた本丸の堀は、ここでも復元されつつある。 天守台。天守のある部分は天守曲輪とでも呼ぶべき一角となっている。
本丸下の幅広の犬走りを歩いてみた。何ヶ所か、このように城塁が出っ張っている部分がある。 本丸下の犬走り。こうしてみると石垣が高いのがよく分かる。
本丸の搦め手門を外側から見たところ。ウモレンジャーが指差しているのは・・・・ 石垣に刻まれた刻印であった。「三左衛門」と読める。これは池田輝政の事ではないだろうか。
復元された本丸の堀越しに天守台を見たところ。 二の丸から見る天守曲輪。
西馬出しの土塁。この馬出しもきれいに形が残っている。 西馬出しから見た二の丸。土塁がかなり高く詰まれている。
外堀の外側にあった家老屋敷の長屋門。 篠山城の本丸からは、戦国期まで当地の領主であった波多野氏の居城八上城がよく見えた。
 丹波の中心的な領主は波多野氏であった。波多野氏は篠山城から程近い所にある八上城をその居城としていたが、明智光秀によって滅ぼされた後は、八上城にはさまざまな領主が入り、このような山城であるのに、近世初期まで用いられていたようである。後に八上城主の松平康重は、篠山城代となるので、そのころ、八上城も廃城となったものと思われる。

 関ヶ原役後の慶長14年(1609)、徳川家康は、京都から山陰道、山陽道に出る途中に当たるこの地の重要性に目をつけ、天下普請によって幕府の直接支配による拠点的城郭を築く事を決めた。それが篠山城である。工事は山陰、山陽地方を中心に、多くの大名を動員して200日余りで完成した。動員された人数が多かったとはいえ。これだけの城郭を200日ほどで築いたとは驚くべき事である。徳川家康の威光がそれほど大きかったのだということもできるであろう。この時動員された大名は

 池田輝政(姫路)、池田忠継(岡山)、森忠政(津山)、戸川達安(庭瀬)、木下勝俊(足守)、福島正則(広島)、毛利輝元(萩)、有馬豊氏(福知山)、松平康重(八上)、織田信包(柏原)、谷衛友(山家)、別所吉治(綾部)、京極高知(宮津)、浅野幸長(和歌山)、蜂須賀至鎮(徳島)、生駒一正(高松)、山内康豊(高知)、加藤嘉明(松山)、富田信高(宇和島)、藤堂高吉(今治)らで、その合計石高は、354万石にも及んだ。

 完成の後、篠山城は幕府の番城となり、城代が置かれるようになる。初代城代は、八上松平康重であり、それ以後、松平氏が8代、寛延元年(1748)に丹波亀山城から青山忠朝が転封されてからは、青山氏が6代続いて、明治維新を迎えるようになる。

























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