兵庫県宍粟市

波賀城(宍粟市波賀)

 中国自動車道の山崎ICを降りて、国道29号線(因幡街道)をひたすら北上する。20kmほど車で走って波賀地区に来ると、国道429号線と合流する辺りの右手(東側)に、山上に建造物のあるとんがった山が見えてくる。これが波賀城である。比高200mほどの急峻な山である。
 道は何箇所からかあるので、右手の山の方に入っていく道を適当に進んでいけば、城への道と合流することができる。道は山の南側に回りこむようにしながら、東側の尾根の先にある駐車場の所へと続いている。

 駐車場に車を置いて歩き始めると、道のすぐ下に側面部を石垣で固めた道が見えてくる。これがすでに遺構なのであろうか。ただし、石の積み方はけっこう新しい。それ以外にも登り石垣のようなものも見えているのだが、遺構なのかどうか、さっぱり分からない。

 尾根を少し降っていくと、ちょっとした広場があり、ここに案内所、トイレ、城址碑、案内板などが建っていた。しかし、これもまだ城域内ではないらしく、ここから模擬の門をくぐって谷戸部に降りて、再び登っていった所が城址であるらしい。正面には城址北側のえぐられたような斜面が見えている。

 谷戸部に降りていく最中、左側の脇には、石垣に用いるような石がごろごろしている凸凹の地形があった。自然石が並んでいるにしては少々不自然なのだが、あるいはこの辺りにも石垣があったのであろうか。

 谷戸部から順路に従って進んでいくと、木の桟橋のようなものが、山裾を廻るようにして付けられている。こういう道よりも本来の山道の方が歩きやすいのだが、一応、遊歩道としてかつての波賀町が設置したものだろう。竹下内閣時代の「ふるさと創生事業」の1億円を使用して造られたものらしい。
 桟橋を通って山上に向かっていくが、途中に腰曲輪のようなものは特に見られなかった。ひたすら急な斜面ばかりである。

 山上に到達すると、いきなり正面奥に、物見櫓とその下の石垣が見えてきた。本やネットでよく紹介されているアングルである。波賀城といえば、だいたいこの写真が映っている。しかし、今回の訪問で気がついたのだが、この城で、そこそこそれらしい写真が撮れるのは、このアングルだけなのであった。

 物見櫓が建っているのは、櫓1つ建てるのがやっとといった狭いスペースであった。そこからすぐ上の頂点への道が付いていたので、まずそちらに登ってみる。しかしそこにあったのは小さな神社だけであった。頂上が本丸というべきであろうが、ここは長軸20mほどの楕円形の狭い区画であり、削平も不十分であった。土塁も石垣もない。どうも拍子抜けである。

 物見櫓の方に戻ると、この下には数段の石垣が積まれている。ただし積み方が新しく、復元されたものであることは一見して分かる。

 どうもこの城はこれだけでしかないらしい。城下の方から見ると、山上の櫓と石垣が見えていて、そこそこ城らしい威容を誇っているようだが、城としての実質はほとんどないに等しい。正面からのデモンストレーションだけを目的とした張りぼての城であったものだろうか。

 いずれにせよ、城地はとても狭いもので、物見のための簡単な施設の域を出るものではない。それにしては、石垣がかなり立派に積まれているのが意外である。本当に復元された石垣なのか?と疑問を感じないでもない。城の規模からすると、これほどきちんとした石垣を供えていそうにないような気がしてしまうのである。

 結局、波賀城は物見櫓1つと、それに伴う石垣を備えただけの、ごくごく小規模な、物見のための施設であったようだ。

駐車場から歩いていくと、やがて案内小屋のある場所まで来る。ここから谷戸部に降りて再び上がった所が城址である。正面奥の崩落した崖が目だって見える。 谷戸に下る途中の左手には、妙に石がゴロゴロしている。自然に転がっているにしては数が多すぎて違和感を感じてしまう。この辺りにもかつては石垣があったのだろうか。
城址に向う道には、このような桟橋状の道が山の中腹を廻るようにして延々付けられている。こんなものを造らなくとも、普通の山道で十分だと思うのだが・・・・・。ふるさと創生事業で造られたものらしい。 波賀城の物見櫓。下には復元されたという石垣がある。波賀城といえば、この写真がよく掲載されている。これだけみると、石垣造りのすごい城のように見えてしまうのだが、実際、石神が見られるのはこの部分だけである。
物見櫓下の石垣。どうみても積み方が新しい。復元石垣ということであるが、模擬のように見えてしまう。 物見台から見る波賀の町。高いだけあって、かなり眺望の良い場所である。
山頂の本丸と思しき所に祭られている神社。本丸といってもたいした広さはなく、削平も不十分な狭い郭である。 物見台下の石垣。段々に積まれているのは、高石垣を築くほどの技術がなかったということであろうか。
 波賀城がいつ築かれたのか、定かではない。鎌倉時代に、この地に地頭として幕府御家人であった中村氏や大河原氏が移り住んできた。この中村氏は初代光時から、戦国末期20代目の吉宗まで、代々この地域の領主であったという。したがって波賀城を築き、整備したのはこの中村氏であったと考えられる。播磨の守護大名は赤松氏であったので、室町時代には中村氏は赤松氏に属していたと思われる。

 となると、波賀城はこの中村氏の居城であったということになるのかもしれないが、この城には居館部と呼べるだけのスペースがない。山麓にそういった機能を持った郭が展開している可能性もあるが、今回はそちらまでは確認していない。





































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