竹田城(兵庫県和田山町竹田字古城山)

 *現地案内板の図を基にして鳥瞰図を作成してみた。そのうち気が向いたら、想像復元図なども描いてみたいと思っている。

 竹田城はJR竹田駅のすぐ西側にそびえている比高250mほどの城山全体に展開している。特に主要部は総石垣造りで実に見事な城郭である。登城道もあちこちにあるのだが、車で山頂近くまで行く道もある。竹田駅の南西500mほどの所から、車道がついており、上がっていけるようになっているのである。どんどん山道を進んでいくと、やがてわりと広い駐車場に出る。ここから歩いて登ると10分ほどで花屋敷の部分に出るのであるが、ここに車を留めずにさらに駐車場から右手方向の道を進んでいくと、北千畳のすぐ下にまで行く事もできる。ただし、こちらには車数台分のスペースしかないので、見学の人が込んでいる際には避けた方がよいだろう。

 「天空の城」とも言われる竹田城はとても絵になる城郭であり、雲海に浮かぶ石垣などの写真がよく知られている。また大分以前のことになるが、角川映画の「天と地と」で、この山城全体にセットが組まれて春日山城(本当は越後の城なんだけど・・・)が再現された事もある。映画館のスクリーンに映し出されたその姿は実に壮大で、この竹田城にいつかは訪れてみたいと思っていたのである。

 06年7月15日(土)、ついに念願叶ってヤブレンジャーツアーでこの城を訪れる事ができた。この日の天候はあいにくの雨、しかも夕方であり、薄暗くなりつつあった。それでもめげずに傘を差して城に登っていった。辺りには霧が立ち込めていて、城の様子を隅々までよく見ることができないような状況であった。しかし山の天気は変わりやすい。しばらく城内にいるうちに天気はみるみる回復していき、霧はしだいに晴れ上がり、やがて本丸から遠くの山まで遠望できるようになっていった。次第に霧の中から遠くの石垣が姿を現していくさまは、感動を通り越して神秘的でさえあったといっていい。こうした雰囲気こそ、まさに名城と呼ぶにふさわしい。ただ石垣がたくさん積まれているだとか、景色がいいだとかいうのは別のオーラのようなものがこの城にはあるのである。日本の代表的な山城といえば、高取城、岩村城、備中松山城が3大山城であると言われているが、どうしてこの城が入っていないのかが不思議である。古城としての雰囲気のすばらしさでいえば、竹田城はこれら3城以上であるとさえいえるであろう。

 このような古城としての雰囲気もさることながら、竹田城は非常に技巧的な城郭でもある。登城道を何度も折り曲げ、枡形を連ね、あちこちに櫓台を配置している。この城にかつてどのような建造物が建っていたのかは史料に欠けており知る由もないが、建造物が建った状態では、登城道はかなり複雑で見通しが利かず、城内に入り込んだ敵は迷路の中をさまようような気分になったのではないだろうか。本丸に到達するまでの防御の深さは実に執念深い。これが織豊期城郭というべきものなのであろうか。いや織豊期の城郭であっても、これほどのものは珍しいであろう。竹田城は織豊期城郭の到達点に位置する城郭であったと言えるかもしれない。

 それにしても、これほどの石垣を構築するための石をどうやって運んだものであろうか。山中に石材を切り出したと思われる部分もなかったので、どこかよその山から切り出して運んだとでもいうのであろうか。それにしてもこれだけの量である。重機など存在しておらずマンパワーで仕事をこなさなければならない時代、その作業量を考えるとまったく気が遠くなってしまいそうだ。豊臣氏の財力にあかせて、これだけの作業をさせたのであろうか。ところで、現地の図面によると、この城には、山麓近くまで一直線に延びた竪堀が存在しているという事であった。これがもしかすると、山麓から石をロープで釣って運び揚げるために利用されたものであったのかもしれない。

 天正年間、但馬に侵攻した秀吉軍は、弟の秀長にこの地の支配を命じている。竹田城を現在のような城にしたのは、この秀長であったのではないだろうか。城内の発掘調査によると、安土桃山時代の遺物が多数出土していた事が示されている。その頃がこの城の最盛期とも言うべきであったのだろう。天正8年に竹田城に入部したのは桑山重晴、さらにその後、天正13年、その桑山氏が紀州和歌山に天封されると、変わってこの地には名家赤松氏の一族であった赤松広秀が入城した。その後、慶長5年、関ヶ原の役以降、廃城となるまで、赤松氏が城主となるのであるが、桑山氏にしても赤松氏にしても、その所領は2,3万石程度にしか過ぎない。その規模の大名がこれだけの城を単独で構築できたとは考えがたく、やはり上記の通り、羽柴秀長が一枚噛んでいるのではないかという気がする。つまり現在見られる城の原型は、秀長の財力によって構築され、その後も桑山氏、赤松氏が城を使用し続けたので、発掘結果からは、文禄から慶長期までの遺物が出てきているのではないかと想像するのであるが、実際の所はどうであったろうか。

 竹田城の石垣は非常にきれいに整備された穴太(あのう)積みである。400年間、まったく崩れる事もなくこのままの状態で残っていたとは思われないので、かなりの部分、修築され、草取りなども行われているのであろう。これだけの山城をこれほどきれいな状態で維持するのは、かなりの大事業であり、そうとの費用もかかるものと思われる。しかし、和田山町(あるいは兵庫県、それとも国?)は、このように竹田城の整備に力を注いでいる。その努力は感服されるべきものであり、城を回るわれわれとしても感謝すべきものであると思う。同じ兵庫県でも、石垣を崩落するに任せている利神城などとはえらい違いである。

 そのためか、竹田城には訪れる人は多く、この日は雨模様であり、しかも夕方5時を過ぎた時間帯であったというにもかかわらず、われわれ以外にも、城址見学に来ている人が何人もいたのであった。

 竹田城、それは城好きならば、一度は訪れてみたい城である。

山麓から見た竹田城。山上の石垣がよく見える。 車でいけるところまで行ってみた。本城部分のすぐ真下である。
上がり始めるとすぐに「目付」の高石垣が目の前にそびえてくる。見事である。 二の丸方向の石垣を見たところ。
北千畳の枡形。城の周囲は霧に覆われている。 その上にもさらに一段の枡形がある。
枡形部分を上から見下ろしたところ。霧のため、山麓部分は見えない。 二の丸から天守台方向を見たところ。
二の丸から天守台に向かって石垣が長く延びている。雨でレンズが曇ってしまって、うまく撮影できない。 天守台には石段はなく、梯子を伝って上るようになっている。
天守台下の石垣を見たところ。内部が複雑にクランクしている。ここにどのような建造物が建っていたのであろうか。 南二の丸方向から天守台の高石垣を見たところ。かなり高い!
天守台から南千畳方向を見る。周囲は霧に包まれていて、まさに天空の城といった趣である。 霧が急速に晴れつつあった。
天守台の北側にも、複雑なクランクをした石垣があった。 霧が晴れた南千畳。
改めて南二の丸から天守大方向を見たところ。 南千畳の虎口。
南千畳の高石垣。地勢も高い!比高250mもあるのである。 南千畳から本丸方向を見たところ。石垣が複雑な構造をしているのがわかる。
 竹田城はもともとは山名氏の家臣で、但馬生え抜きの国人であった太田垣氏の城であった。といっても、そのころは当地域にありがちな、単純な構造の山城であったものだろう。そして、城主の平素の居館は山麓に営まれていたであろう。

 戦国期になると山名氏の勢力も衰え、太田垣氏は独立勢力のようになっていく。天正年間になると、中国地方の大勢力毛利氏は但馬地域にもその勢力を伸ばしつつあった。一方織田氏も、羽柴秀吉に中国地方攻略を命じたため、但馬地域は織田勢力と毛利勢力の衝突地帯となっていく。結局、毛利氏よりも羽柴氏の方が、早め早めに手を打ち、但馬の諸城を従える事に成功した。竹田城も羽柴氏の手に入っているわけであるから、太田垣氏は降伏するか、抵抗して滅亡するかしたのであろう。その詳しい経緯については不明であるが、その後秀吉の配下に太田垣氏の名前を見ることができないので、その後、武将として存続する事はできなかったのであろう。

 上記の通り、天正年間以降、この城には桑山重晴、赤松広秀らが城主として入城した。特に赤松氏の支配時代は長く、天正13年から慶長5年にまで及んでいる。

 慶長5年の関ヶ原の役で、西軍に属した赤松広秀は、丹後の田辺城攻撃に参加した。しかしその戦いの最中、関ヶ原で西軍が敗れた事を知り、慌てて竹田に引き上げていった。その後東軍に属した亀井茲矩に協力して、鳥取城を攻撃したが、その際に、城下に火を放って延焼させた。後にそのことを家康に詰問されて、鳥取で切腹して果て、ここに赤松氏は断絶した。城下に火を放ったことへの責任といわれているが、実際のとこr、西軍に加担しておきながら関ヶ原の敗報を聞いて、途中で寝返った広秀を家康は快く思っていなかったのであろう。その後、竹田城も廃城となったといわれる。

























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