兵庫県丹波市

*参考資料  『日本城郭体系』 『図解 近畿の城郭』T〜W

*参考サイト  城郭放浪記

柏原(かいばら)陣屋(丹波市柏原町柏原683)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地パンフレットを参考にした。

 柏原陣屋は、JR柏原駅の北東400m、崇広小学校に隣接した西側にあった。かつての陣屋の範囲は、この小学校や北側の柏原総合庁舎のある部分などを含めた200m四方ほどのわりと広い敷地であった。

 道路を挟んですぐ西側には郷土資料館があり、こことの共通入場券を買って中に入ることができるようになっている。資料館には陣屋に関する資料が展示されているので、ここに立ち寄ってみることをお勧めする。

 車も資料館の駐車場に停めておけるのだが、駐車スペースが2台分しかないので、2台停まっていたら、どこか別の所を探すしかない。周囲には裁判所などさまざまな施設があり、それぞれに駐車場も設置されているのだが、勝手に停めたら何か言われそうなところばかりである。

 さて、道路に面して長屋門が設置されている。これは現存門で、正徳4年の創建時のままのものであり、かつての陣屋の表御門として使用されていたものである。なかなか重厚な造りをしており、左右には番所もあったようだが、長屋門そのものは表門としては、ちょっと格が落ちるものである。

 中に入るとけっこう広いスペースがあり、唐派風の風格ある御殿玄関が見えてくる。この御殿も現存建造物であるが、こちらは一度火災で焼失し、その後文政3年に再建されたものである。資料館との共通入場券を購入して中に入るようになっているのだが、こちらには誰も番をしている人がいなかった。国指定の史跡であるというのに、これで大丈夫なのであろうか。

 中はきれいに整備されていて、古い建造物だとは思えないほどであった。明治維新以降は小学校の校舎として使用されていたというから川越城の御殿と同じような扱いを受けていたようである。中には金屏風なども展示されていた。現存しているのはかつての御殿の3分の1ほどの部分にしかすぎないが、それでも御殿がこのように残されているというのは実に貴重なものである。

 現存建造物はもう1つあって、太鼓櫓という3階建ての櫓が残されている。しかし、こちらは移築されているので、探すのにちょっと苦労する。市街地の中を西側に進んでいったこの位置に現在は移築されており、大歳神社の隣接建造物となっている。場所は分かりにくいが、道路沿いに案内があり、駐車スペースもちゃんと2台分用意されているので、たどり着ければ簡単に見学できる。ただし内部に入ることはできない。

 小規模ではあるが、3階建てというのはなかなか目立っており、天守を建てられない陣屋としては、陣屋を象徴する建造物だったのではないかと思われる。



 柏原陣屋は織田氏の陣屋であり、パンフレットにも、「織田家の城下町」と大きく銘打っている。初代藩主は、織田信長の弟である織田信包で、丹波国氷上郡に3万6千石を与えられたのに始まる。信長には多数の弟や子供がいたが、何とか諸侯として近世にも存続したのは、信雄、有楽斎、そしてこの信包くらいである。それにしても3万6千石もありながら、城を築かなかったのは、幕府に対して遠慮していたからであろうか。

 この柏原織田藩は、3代目信勝に後嗣がなかったため一度断絶してしまうが、その後織田信雄の子孫にあたる信休が大和松山から転封となり、結局織田氏の支配は続いて、明治維新を迎えることとなる。織田信雄はあちこち転封した人物であるが、子孫は最後にはこのような山間の地の支配者となっていたのである。

 ただし、現地パンフレットには、柏原陣屋を「後期柏原藩によるもの」と書いてある。織田信包時代の柏原陣屋は、この場所ではなく、別のところにあったとも言われているようだ。

道路沿いに見る柏原陣屋の長屋門。御殿の屋根も見える。 現存の長屋門。
奥御殿。これも現存である。 奥御殿内部。明治の頃には小学校として使われていたという。
御殿内部にあった見事な金屏風。 奥御殿の玄関。
もう1度、長屋門を見たところ。 移築された太鼓櫓。かつては大手脇にあった。
三重構造で、実質的な天守と言っていい建物である。




岩尾城(丹波市山南町和田)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板と『図解 近畿の城郭』Tを参考にした。

 岩尾城は、和田小学校の背後にそびえる比高250mの蛇山に築かれていた。県指定の史跡となっていて登り口は何カ所かにあるようである。そのうち、和田小学校の裏側から登るルートが最も整備されており登りやすいとのことであったので、小学校を目指すことにする。本来は東方400mの城ヶ谷というところから登るのが大手道であったという。

 小学校の入口に登城口の案内表示があったが、「岩尾城に登る人は小学校に断ってからにしてください」といった看板が立てられている。そこで職員室を訪れて登城の許可をもらうことにした。そのことをお願いすると快く「どうぞどうぞ」と言われ、車を停めておくことも許してくれた。岩尾城に来る人はけっこう多いのであろうか、慣れた感じであった。

 小学校の裏側高台に職員駐車場があり、ここに車を停めさせてもらうのが一番楽そうである。そこから背後の山稜を目指す。行ってみると登り口脇の砂防ダムのところまで車道が付けられており、どこか東側の山麓からここまで車で来ることもできるのかもしれない。登り口を確認していないのだが、この砂防ダムまで車で来られれば、それが最短ということになる。

 登城口は2か所あるのだが、結果として見ると、上の砂防ダムのところまで行ってそこから鉄柵をはずして入っていくルートの方が登りやすい。それから山道を歩いていくと比高100mほどで尾根に出る。ここで親縁寺方面からの登城道と合流することになる。親縁寺方向へは「大手門曲輪を通って下屋敷、親縁寺に至る」と書いてあったので、親縁寺方向に行けば、山麓居館の遺構などもあるのかもしれない。こちらが本来の大手道だったということなのだろう。

 そこからは尾根伝いに登っていくのだが、これがまた、けっこう歩きにくい山道であった。というのも、この山はわりと岩が多いらしく、道にも岩が露出していて、ゴツゴツとしているのである。さらに岩場が多いためか、登城道付近には木があまり生えておらず、直射日光にさらされながら登っていかなければならないのである。太陽に照らされながらの登山だと、11月でもけっこう暑い。これが真夏だったら、熱射病に注意しなければならないほどである。

 それにこの尾根道、けっこう長いのである。さらに比高100mほど登っていって、やっと最初の南曲輪のところに到達した。ここまでくれば、主要部まではあとわずかである。

 南曲輪は尾根を削平しただけの細長い郭である。それを過ぎていくと一段高く下知殿丸に出た。こちらも尾根を削平しただけの郭であるが、ここには東・南・西の三方向からの尾根が集まり、敵兵を防ぐのに重要な位置であるという案内板が立てられていた。こちらも南北に長く、69m×15mほどの長靴状の郭である。

 そこを過ぎていくと堀切がある。堀幅があり、深さはそれほどでもないので、あまり鋭さは感じられないが、このすぐ上が主要部分である。登城道はここから左手の山すそを通るようになっている。

 そちらを進んでいくと、左側に大きな竪堀が掘られているところに井戸の表示があった。ちゃんと石組みで組まれた井戸である。このような山中に井戸があるというのも意外だが、井戸がなければ籠城戦には堪えられない。岩の多い山というのが意外に水源に豊富だったりするものだが、この山にも水源が存在しているのであろう。

 その先を進んでいくと、斜面にしっかりとした石垣が築かれており、城の中心部が近づいてきたことが分かる。さらに進んでいくと、上の城址方向へ向かう道と、若林方面との分岐点のところに出た。若林地区から登ってくると、ここで合流することになるらしい。

 ここから登るのが現在の登城道であるが、むき出しの斜面を無理やりに登っていくような道で、どう見ても本来の登城道らしくない。手持ちの図面を見ると、その辺りから右手の斜面に登っていくルートが描かれているのだが、どうもそのような道が見あたらない。どうやら、本来あった大手道が崩落してしまっているようで、現在はむき出しの斜面に付けられた階段を登っていかなければならないようになってしまっている。

 現在のルートを進んでいくと、石垣囲みの小規模な郭の周囲を巡るようにして5の下に出る。5の下の石垣には「危険」という注意表示があったが、崩落の危険性があるということなのだろうか。いずれにせよ、遺跡保護のためにも石垣にはあまり近寄らない方がよいかもしれない。

 さらに進んでいくと西の丸の立派な石垣が見えてきた。西の丸には櫓でも建てられていたのではないだろうか。実際に西の丸の内部には、瓦がたくさん散乱していた。瓦建造物が存在していたことは明らかである。

 それを抜けたところが二ノ丸。さらに小規模な枡形虎口を入ったところが本丸ということになるのだが、いずれも狭隘な郭であり、しっかりとした石垣構造があるわりには極めて小規模な印象である。これではそれほど多くの兵を込めておくことはできないであろう。

 本丸の北側には土塁状の高まりがあり、ここが蛇山の山頂である。ちゃんと削平せず土塁状にして残しているのは、その先の堀切の高さを稼ぐためである。また、本丸の南側には天守台がある。さほど大きな面積がないので、天守と言ってもせいぜい2層くらいのものだったのではないかと想像されるが、ここにも瓦が散乱しており、実際に天守が建てられていたであろうことが明らかである。天守台には南側に付け櫓の石垣も付属しており、付け櫓から登るようになっていたようである。

 天守台の南側には石垣構造物があり、その下が三ノ丸であった。

 本丸の北側の切岸を降っていくと、そこにかなり広いスペースがあった。6の郭である。しかし、石垣構造は見られず、織豊期に改修される以前のままの姿をとどめているようだ。しかし、面積はかなりあるので、居住性のある建造物を建てるとしたらこの郭ということになろう。6郭は微妙な段差によって2段構造となっている。

 6の郭からは東西に尾根が延びている。このうち北東側の尾根には切岸で接しており、そこを降りていくと、両側に土塁を侍らせた切り通し状の空間となっている。接近する敵を一列にして迎え撃とうという構造物である。その先には小規模な堀切があり、中央部に土橋が接続している。そこから先は自然地形のようで、北東側の城域はここまでである。

 一方、西側の尾根には二重堀切が掘られている。その二重目の堀切にはやはり土橋が付けられており、北東側の先端部と似たような構造になっている。その先は自然地形であるというのも同様である。

 岩尾城は、石垣を多用し織豊期の城郭らしさを今に残している城郭である。しかし、郭の面積そのものは小さく、拠点的城郭というよりは、砦的な構造物であったように思われ、城主の勢力はそれほど大きなものではなかったのだろうと想像される。それなのに天守まで存在していたとは意外な構造である。建造物があったころにはどのような威容を誇っていたものであろうか。いろいろと想像を膨らませてみたくなる城郭であると言っていい。

和田小学校の前から遠望する岩尾城。ここからの比高は250mもある。 小学校背後にある城址入口。鉄柵を開けて中に入っていく。
山道をだいぶ登った後、最初に目に入ってくる南曲輪。 下知殿丸曲輪の先にある堀切。ここから先が主要部である。
堀切から進んでいったところに井戸の跡がある。石組みのしっかりとしたもので、現在も水を湛えている。 その先の通路脇の斜面に築かれた石垣。
西の丸下方の4郭の石垣。 西の丸の石垣。
同じく西の丸の石垣。 本丸虎口周辺の石垣。
二ノ丸南側の石垣。 西の丸には瓦がたくさん散乱していた。
本丸から見る北側の山頂部分。 天守台の石垣。
同じく天守台。 天守台東側の石垣。
二ノ丸の石垣。 三ノ丸の石垣。
山頂部背後の6郭。 その下の北東部分には土塁囲みの通路がある。
その先の堀切と土橋。 背後の郭北西部分の二重堀切。
 岩尾城は、和田氏によって永正年間に築かれたものだという。和田氏と言えば将軍家お側衆の一人であった和田惟政を思い出してしまうのだが、あの和田氏と何らかの関係があるのであろうか。

 天正14年、近江国木戸より佐野栄有が3750石で入部してきた。岩尾城が現在のような石垣を豊富に用いた城郭として変貌を遂げるのはこの佐野氏の時代のことだったのではないかと思われるのであるが、何しろ3750石といったら、大名とは言えないくらいの規模であるから、山城部分の城域が狭いのも当然と言えば当然なのかもしれない。

 文禄4年、佐野氏は近江木戸に再び戻り、岩尾城は前田玄以の持ち城となった。前田玄以の時代にも改修工事は行われていたであろう。

 その後、秀吉によって「山城、要害よろしからず」という発言があったため、岩尾城は廃城となったと言われているが、この程度の山城のことを秀吉がいちいち気にしていたのかどうか怪しいところだと思う。実際のところは、あまりにも高所にあって不便だったので、廃城とすることになったのではないだろうか。




朝日城(丹波市春日町朝日537)

*鳥瞰図の作成に際しては、『図解 近畿の城郭』Tを参考にした。

 少林寺の西側にそびえる比高40mほどの山稜が朝日城の跡である。したがって城を訪れるには少林寺を目指していけばよい。駐車場も少林寺に停めさせていただいた。すぐ北側には黒井城が見えており、JR黒井駅をはさんで、ちょうど黒井城と向かい合うような位置にある。

 とりあえず少林寺にお参りした。少林寺はまだ建物も新しく非常に立派な寺院であった。しかし、朝日城に関する案内などはいっさいなさそうである。城への登城道がどこにあるのかも分からない。仕方がないので少林寺から南側の土手に上がって行ってみた。

 少林寺のすぐ上には北近畿豊岡自動車道が通っていた。しかしこの高速は城の南端の堀切から少し先の部分を通っており、城を破壊しないように配慮して設置されているようである。ところが、城そのものは北側半分が宅地開発のために削られてしまっているのである。

 この高速のそば辺りから小川を渡って城塁に取り付いてみた。するとすぐに1郭背後の堀切のところに出た。城域を画する巨大堀切である。

 ここから小山のように見える土手を回り込んでいった先が1郭である。小山と見えたのは大きな土塁であり、ここには櫓が立てられていたのかもしれない。

 1郭は城内で最大の郭で、長軸30mほどあるのだが、整備されてはおらず、一面はヤブだらけで見通しはよくない。それでも東側の側面部に回り込んでみると、斜面に竪堀が何本も掘られているのがよく分かる。なかなか技巧的である。

 1郭から坂虎口を通って2郭に降りていくと、その下に3郭があるのが見えてくるが、そこから先は削られた斜面になってしまっていた。平成4年の宅地開発によって城の北側半分ほどが削られてしまったということで、右の図の赤い線で囲まれた範囲がそのまま消滅してしまっているようである。消滅部分は、上記の本の図面に頼ったものである。

 というわけで、そこから先には進めないので、2郭から側面部の腰曲輪群を通って下に降りていくことにした。東側斜面には4〜5段ほどの腰曲輪が段々に造成されている、その間には虎口が設定されており、登城ルートはそうした虎口や竪堀・横堀などを組み合わせた構造物を経由して上がって行くようになっていたようである。これまた複雑なルートであり、なかなか技巧的な構造であったと言ってよいと思う。

 このように朝日城は、この地域にしては技巧的な構造を有している城郭の1つであるといえる。このことをどのようにとらえるべきなのだろうか。近年では、朝日城は単なる在地領主の居城ではなく、黒井城攻撃の際に明智軍によって改修された付城であったのではないかと言われている。そのため、在地領主とは一線を画する構造を有しているといったところであろうか。

 なお、朝日城の北側山麓の住宅地には「館」を示す地名があり、土塁らしきものもあちこちに残っているようだ。在地領主の本来の居館は、その辺りに埋もれているのかもしれない。













東側にある少林寺。この背後の比高30mほどの山稜が城址である。 南側の大堀切。
1郭南側の大土塁。櫓台というべきかもしれない。 堀切から続く竪堀。
1郭内部。 東側には畝状竪堀がある。
東側の腰曲輪。3段ほどある。 腰曲輪の城塁。
腰曲輪に見られる虎口。 少林寺下の畑。この辺りから取りつくのが分かりやすいかもしれない。
 朝日城は、当地の国人領主であった荻野氏の本拠地であったという。

 戦国後期になると、氷上郡の赤井時家が、次男の才丸を荻野家に送り込み荻野直正と名乗らせ、荻野氏の後継者とした。そうして荻野家の実験を赤井氏が握ったのである。

 直正は後に黒井城にいた外祖父の荻野秋清を殺害し、黒井城を奪取して拠点を黒井城に移していく。こうした行動から彼は悪衛門と呼ばれ武名を高めていくことになる。これが有名な赤井悪衛門直正である。

 直正は後に明智光秀の攻撃を受け、やがて赤井氏は没落していくことになる。