龍野城(兵庫県たつの市龍野町上霞城)

 *現地パンフレットの図や古図を基にして、鳥瞰図を作成してみた。現状と比べてみてもらうとすぐに分かるのだが、現在は、正面の大手門の脇から、城の両側に上がるスロープがあり、この坂虎口のような道を通って本丸内部に進入するようになっている。しかし、考えても見れば、正面に大手門があるというのに、このようなスロープが両脇にあるというのもおかしな話である。後で知った事なのだが、明治年代にこの本丸には女学校が置かれ、その後、車ででも上がれるような道をつけたということである。したがって、このスロープは両方とも後世の所産であり、本来は存在してはいなかった。石垣がけっこうそれらしく見えるので、つい旧状の通りかと思ってしまうので注意すべきであろう。

 近世城郭とは言っても龍野城はとても小さな城であり、どちらかというと陣屋といった規模のようなものである。そこそこ広い郭は本丸だけであり、そこに御殿が置かれていた。(御殿の規模もまたささやかなものである。) 郭らしい広さのある部分といえば、もう1つだけで、本丸の下には長屋が建ち並ぶちょっとした広さの郭が1つあるが、この部分は現在では龍野小学校の建設によって失われてしまっている。なお、現在の城址には、2層の櫓があってこれが龍野城の象徴となり、とても目立っているのだが、実はこの櫓も模擬建造物であり、古図には描かれていない。(鳥瞰図にはつい描いてしまっているが、本来は存在していなかったのではないかと思われる。せっかく木造で復元しているのを模擬というのは可哀想な気もするが、実際模擬らしいのだからしょうがないことである。) 本来の龍野城においては、櫓は単層の多聞櫓が1基だけしかないというささやかさであった。5万石クラスの大名の城としては、とにかく質素な造りと言う他ない。

 本丸には御殿が復元されているが、入場料は無料で、管理人のおじさんが内部を案内してくれるという親切ぶりである。まったくありがたいことだ。地元では領主の脇坂氏はとても親しまれているようで、管理人のおじさんは何度も「脇坂公じゃ」と連発されていて、ついついこちらも「ところで脇坂公は?」と返事を返してしまったりする。脇坂氏を偲んで「貂の皮祭(正式な名称は忘れてしまった)といった催し物も行われているらしい。脇坂氏と言っても一般には有名ではないが、地元ではこのように親しまれているというのは、なかなかいい感じである。この御殿の内部には茶室なども再現されていた。

 山麓部分に居館部があり、山上に籠城用の城がある、というのは、出石城園部城をはじめとして、兵庫県辺りの近世城郭にはありがちの形態である。龍野城の背後には比高150mほどの鶏籠山という、本当に鶏のような形をした目立つ山があって、その上に山城が築かれていた。この日山城をいくつも登り、大分疲れていて「登ろうかどうしようか」とみんなで悩んでいたのだが、結局「そこに城があるのだからとりあえず行こう!」ってことになって、最後の気力を振り絞って山頂まで登ってみる事にした。いつものことで、それはそれでちゃんと城を見ることができるのだからよいのであるが、この登山で、この日は完全に体力を消耗してしまたのであった。

 山麓の城の奥から登り始めると、途中で一ヶ所、郭のような削平地が見られた。しかしそれが本当に郭であるのかどうかはよく分からない。さらに歩いていくと、横堀状の郭があり、その上に2段ほどの小郭がある。さらにその上のまとまった広さの部分が「二の丸」と看板がある所である。この山城部分は近世はあまり用いられていなかったであろうから、本丸、二の丸という名称が本当に正しいのかどうか確信が持てないが、とりあえず、現地の看板に従っておくこととする。下から山を見上げた時の、鶏の頭の部分に見えるのがこの二の丸である。この郭にもあちこちに石積みの跡らしいものを見ることができる。

 本丸に行くには二の丸をいったん下がって、再び数段の小郭を越えて上がって行く必要がある。その上の山頂部分が本丸である。山城なので郭そのものはそれほど広くはないが、あちこちに石垣が見られる。要所は石垣で固めるという発想を持っていたらしい。ただし積み方がだいぶ乱雑なので、崩落してしまっている部分も多いように見える。本丸の北西側裏手辺りの石垣が一番よく残っており、本丸下の郭には虎口の脇の櫓台かと思われるような石垣もある。なお、本丸下にはかつて八幡神社があったらしい。その辺りには「石だたみ道」「城の石段」といった案内も出ていたが、これらはおそらく神社に伴うものであろう。

 さて、再び二の丸に引き返すのは面倒だったので、本丸北西下から竪堀の脇を通って、野見宿禰神社の方向に降りていく事にした。すると、いきなり、小鹿が飛び出てきたのでびっくりした。利神城に登っていく林道の脇でも見かけたが、この辺りには野生の鹿がいるらしい。それにしても動きのすばやい事といったら! でも可愛かった。一瞬の事で写真に撮れなかったのが残念である。
 こちら側から降りていく道の途中に、若干の石垣があり、そこに「侍屋敷」という案内があった。谷合に侍屋敷が営まれていたらしい。

龍野城の大手門。 大手門の両脇はそれぞれ坂虎口のようになっている。
本丸に復元された御殿建造物。 御殿内部に展示してあった槍を持って脇坂公のように構えるワカレンジャー。
大手門の枡形構造を内側から見たところ。 本丸隅櫓。古図には描かれていないので、どうも模擬のようである。しかし模擬とは言っても木造による建築である。
搦め手門。 下の龍野小学校から見た本丸の石垣と土塀。
搦め手の登り口から見た模擬櫓。 本丸の奥から、山上の詰めの城にもがんばって登ってみた。下からの比高は150mである。これは途中にあった横堀形状の腰曲輪。
ところどころにこのような低い石積みが見られる。 2の丸の脇にも横堀形状の腰曲輪があった。
二の丸跡。遠目に山を見て鶏の頭に見える部分がこの郭である。 二の丸から本丸に行くにはいったん下の郭に出て、さらに何段かの小郭を上がっていく。その途中にあった石垣。
本丸西側下の石垣。 さらにその下の郭にあった石垣。この脇を通って上がるようになっていたらしい。これは櫓台であったかもしれない。
西側のだいぶ下にある竪堀の跡。中世城郭的な匂いの強い部分である。 降りるときは西側の神社参道を通ってみた。それにしてもけっこう距離が長い。途中に侍屋敷跡の石垣というのがあった。
 龍野城はもともと明応8年(1499)頃に塩屋城主赤松政秀が、幼い村秀のために築いたのに始まるという。その後は赤松氏の城となっていたようだが、詳しい歴史については分からない。

 天正5年(1577)、播磨制圧に乗り出した羽柴勢はこの地にも押し寄せ、城は結局蜂須賀正勝が支配する所となった。天正13年、蜂須賀氏が阿波徳島に移ると、替わって木下勝俊、次いで小出吉政が城主となった。慶長5年の関ヶ原役後は、播磨のほとんどは池田輝政の所領となった関係で、龍野城も池田氏の勢力下に置かれ、池田氏の家老荒木但馬守がその城代となった。

 元和3年(1617)、本多氏が入部してきて、近世龍野藩が成立した。その後藩主は、小笠原氏、京極氏、と替わったが、京極氏が讃岐丸亀に移った後は一時期天領となった。寛文12年(1672)、龍野城には脇坂安政が入城し、再び龍野藩が成立する事となった。以後は脇坂氏が代々続いて明治維新に至る。脇坂氏は5万石の所領に過ぎず、しかも外様大名ながら、譜代大名の堀田氏から2度にわたって養子を迎えたということもあって、幕府からは準譜代の扱いを受け、老中にも抜擢されている。一般には知られていないが、赤穂藩断絶の際の赤穂城受け取り、延命院事件の裁決、仙石騒動の裁決など、脇坂氏はけっこう重要な役割を果たしている。そのようなこともあってか、現在でも地元では「脇坂公」と呼ばれて親しまれているのである。

























大竹屋旅館