福知山城(京都府福知山市内記)

*現地案内板や正保城絵図などを基にして復元図を描いてみた。しかし、細かいところはよく分からないのであった。福知山城の位置はここ

 現在の地形と古図を比べてみて真っ先に気がつくのは、現在は二の丸の台地そのものが存在していないっていうことである。この部分は裁判所や検察庁などになってしまっていて、その向こうの市役所の脇に三の丸の台地が見えている。間にあったはずの二の丸の台地そのものがそっくりなくなっているのである。どうやら役所の建設などに伴って台地そのものを削り取ってしまったようである。

 二ノ丸を削り取ってしまった理由について、メールで情報をいただいた。それは戦前の話で、陸軍の福知山連隊が、駐屯地から演習地に向かうのに、二ノ丸台地が邪魔だったので削ってしまったという話があるとのことであった。

 福知山城は福知山市の中心部にある。土師川と法川に面した台地を選地し、川の水を取り込んで水堀として利用している。台地部分は東西に細長く、そこに連郭式に本丸、二の丸、三の丸を配置していたが、二の丸部分がすっかり消滅しているのは上記のとおりである。

 現在、城址公園となって整備が進んでいるのはこの本丸部分だけである。したがって、城のことをよく分からない人は、城址公演になっている部分だけを見て「福知山城ってかなり小さい城なんだ」と思うかもしれないが、本来の城域は、現在公園になっている部分の10倍以上もあり、実際にはかなり大きな城であった。

 わずかに公園化されている本丸であるが、現存の隅櫓の他に、天守や付け櫓が復興されており、かつて崩れていた本丸の石垣もすっかり修復されている。この部分の石垣はいかにも真新しい感じがする。また、現在も(06.7.15)、山麓の櫓などの復興工事が行われており、福知山城は次第に旧状を取り戻していってくれそうな雰囲気である。福知山城への市民の熱い思いが伝わってくるような気がする。福知山市はこの城の復元について、かなり強い意欲を持っているのであろう。かつてこの城に最初に訪れた時(昭和61年頃だったと思うが)、天守が完成しオープンする予定日の直前で、城の入口が閉まって、正面からは入れなかった。それでもはるばる千葉県から復元されたばかりの天守を見にきたのに、写真一枚も取れないというのが悔しくて、城塁をよじ登って本丸に上がり、天守を見たことがあったのだが、今思うと、よく登れたものだなあと思う。現在のように整備された石垣ではとてもよじ登る事はできなかったであろう。

 現在の本丸はこじんまりとしてしまっているが、それでも、中央に天守台を置き、西側には御殿を配置しており、さらに本丸の周囲を石垣で固めている、といった具合に、かなり守りの堅い郭である。また天守の東側には現在もかなりおおきな井戸が残されている。

 ところでこの天守、かなり個性的なデザインをしているが、それにもまして目を引くのは天守台の石垣である。この石垣には不遜にも五輪塔の基部などがふんだんに使われている。石材を集めるに当たって、周辺の墓石までも徴収したものとみえる。この石垣は野面積みの手法から明智光秀の時代のものと思われる。明智光秀といえば、敬虔で信仰心の厚い武将のように一般的に思われているが、築城に際して墓石までもこのように非情に集めて使ってしまうといったやりかたは、まさに信長のイメージそのものである。このことから考えると、明智光秀という人は、一般に言われているように信仰心の厚い人物ではなかったのかもしれない。彼もやはり、目的のためには手段を選ばない、織田家の人間であったのである。 

 と以前は書いたのだが、光秀と信長の石材の徴収の仕方は違っていたということを、後日、地元のAさんからご指摘を受けた。そこの部分を引用させていただく。

 「寺社仏閣や墓、石仏を破却して石を転用した信長とは違い、光秀は寺社に対し「丹波平定が成就したら必ず再建する」ことを約束して石を集めたとされています。善政をしいた明智光秀は地元では神社に奉られ、福知山城築城時の労働の様子や他地域攻略の様子をうたった盆踊りなどもあり、「光秀さん」として市民から今でも親しまれています。親しまれている光秀がこのように書かれていると少し悲しく感じます。」

 いずれが真実であったか、史料によって確認できないのだが、光秀が地元の人に今も愛されているのだということを改めて知った。情報提供ありがとうございます。


 福知山城を築いたのは上記の通り、明智光秀である。丹波攻略後の明智光秀の拠点は、亀岡城(当時は亀山城)と、ここ福知山城とであった。

 明智光秀の死後、福知山城の城主はめまぐるしく入れ替わる。最初に丹波に入ったのは秀吉の養子秀勝、しかし彼はすぐに没してしまい、次に秀吉の正室寧々の叔父である杉原家次が2万石で入城した。家次が没すると、小野木重勝が3万石で入城。

 重勝は関ヶ原の役で西軍に属したため切腹。その後は有馬豊氏が6万石で入城した。城下町が整備されたのは有馬氏の時代であったという。元和6年(1620)、有馬氏は久留米に転封となり、替わって岡部長盛が丹波亀山から移って来た。その後も、稲葉氏、松平氏と、城主は次々に替わっていくが、寛文9年(1669)、常陸土浦から朽木稙昌が3万石で入城すると、明治に至るまで、代々、領主として続いていくことになる。

駐車場(有料)から城址公園に向かう道から見た復興天守。橋が工事中で、いずれはここからも渡れるようになるのであろう。 道路脇に復興された櫓。復元工事はなおも進行中である。
本丸下の高石垣。昭和61年頃来た時には、こんな石垣、なかったような気がするので、積み直したものであろうか。土塀が土の色のままなのが、何ともいえない味を出している。 この新しい石垣から天守方面に向かう石段。これも新しく積みなおしたものだ。
天守の入り口。「忍たま乱太郎」のキャラがあちこちに描かれている。忍たまは、この城のイメージキャラクターなのであろうか。 天守の付け櫓。中は「忍たま乱太郎」の資料館となっている。そういえば、忍たまのアニメ、現在でも放映中であるが、ずいぶん息の長いアニメである。
天守から西側の市役所方向を見たところ。本来なら本丸がこの方向に続いていたはずなのだが、途中の台地がごっそりと削られてしまっている。 福知山城の航空写真。本来なら西側(写真上)の部分と、台地続きとなっていた。
復興天守。 現存の隅櫓。単層の質素な造りである。
隅櫓の内部。内側の壁がない。 天守台の石垣。節操もなく、墓石などを乱積みにしているのがやたらと目立っている。
(以前の記述)なかなか個性的な天守だ。各地に安易に建造される天守のほとんどは犬山城似の望楼式天守なので、もう少し、考証して欲しいものだ。さて、この天守は昭和61年の11月に復興された。よし見に行こうと言うことで、当時さっそく出かけたのはいいが、日程を間違えて、オープンの1週間前に着いてしまった。
 喜び勇んで城内に入ろうとしたら、登城口に工事関係者がいて、まだ立ち入ってはいけないとのこと。遠くからわざわざ来たのだと言ってもだめ。入れてくれなかった。しかしこのままでは帰れない。登城口の反対側にまわって、山の斜面を必死によじ登り、本丸に入り込んで撮ったオープン前の天守がこれ。昔は結構無茶をやったものだ。




猪崎城(福知山市猪崎字城山

 猪崎城は川を挟んで福知山城の北側にある。三段池公園と呼ばれている公園内の一角であり、現在でも「城山」という地名で呼ばれている場所である。三段池公園に登って行き、台地の南西端辺りに進むと、そこに墓地があり、その脇に城の案内板が建っている。城はとてもきれいに整備されており、遺構は一見してよく分かり、とても好感が持てる。

 現地では図面を描くひまがなかったので、鳥瞰図は記憶を頼りに描き起こしたものである。したがって、細かい所がだいぶ違っているかもしれないが、おおまかなイメージであると思っていただきたい。

 構造を見てみると、南西に突き出した台地部分のトップを削平して主郭となし、その周囲に腰曲輪を展開させるという、中世城郭の基本形のような城である。この地域を訪れて、近世城郭を中心に回っていたので、このようないかにも「中世城郭」といった城に訪れると、なんだかほっとしたような気分になるのが不思議である。こういう形態の城ならば、関東地方にもいくらでもある。ちょっと懐かしいような気分にもなったりする。

 1郭には西側に小規模な枡形のようなものがある。また北側の登城道の脇には櫓台があり、虎口に対してにらみを利かせている。1郭の規模は長軸50mほどの楕円形に近い形状をしている。土塁などはめぐらせていない。

 1郭の周囲には横堀が巡らされている。深さ5mほどで、外側の土塁の高さも2m程度と、それほど大きなものではないが、こちらもきれいに整備されているので、その形状をよく見ることができるのがうれしい。北側に一部、堀底が箱型に窪んだ部分があるが、これは城の構造の一部なのであろうか。ちょっと変わっている。あるいは、ゴミを捨てるために後世に掘られた穴であるに過ぎないのかもしれない。

 台地基部に従って2、3,4,5といったように段々に削平された郭が配列されている。単純な構造だが、この辺りもきちんと草取りがされているので歩きやすい。

 福知山市といえば福知山城だけが有名な気がするのだが、すぐ近くにあるこのような城まできちんと整備されているのには非常に感動した。福知山城は現在も復元工事が進んでいて、市はその整備にかなり気合を入れて投資しているようだが、ごく近場にあるこのような城郭までも、きちんと保存整備しようとしているのは、賞賛に値する事だと思う。観光になりそうな著名な城を抱えている多くの市町村の場合、普通は有名な城の近くにある中世城郭などは放っておいて荒れるに任せている場合が多いのである。それに比べて、福知山市の文化財に対する意識はとても高いものと思われる。とにかく福知山市はエライ!と言うべきであろう。







案内板の方から、主郭入り口の方向に向かう道。左手の上には段々の郭がある。ただし、この道が往時のものであったかどうかは怪しい。 主郭の周囲には横堀が掘られている。一部は枡形に欠けているのであるが、これは遺構なのだろうか。それともごみ捨てに掘った穴?
主郭北側の横堀。深さ5m、幅6mほどだが、メリハリの利いた形状をしている。 主郭から見た福知山城。主郭の広さは長軸50mほどである。
主郭南側に空けられた窪み。枡形虎口の跡であろう。この下には数段の腰曲輪がある。 北側の入り口に近い部分から主郭方向を見たところ。郭が段々に配列されているのがよく分かる。
 猪崎城は、明智光秀が福知山城を築くまで、この地の拠点的な城郭であったといわれている。天正期目前の、中世城郭の姿を今に留めている城郭であるといえる。
 城主は当地の豪族であった横山一族の塩見氏であった。天文7(1538)年4月、塩見利勝は、赤井氏との戦いに戦功を上げて、管領細川氏から感状を得ている。
 その後、丹波地方は波多野氏やその一族の赤井氏らに支配されるようになったため、塩見氏もそうした勢力に組み込まれていったものと思われる。天正7年(1579)、明智光秀による丹波攻略は着々と進められていた。8月19日、黒井城が攻め落とされると、その余勢を買って、当地域も明智軍の侵攻にさらされた。当時の城主塩見播磨守家利は、衆寡敵せず、城を焼いて落ち延びようとしたが、その途中で明智軍と遭遇し、奮戦して討死したと伝えられる。城はそれ以降、廃城となったものであろう。

























大竹屋旅館