京都府京都市

*参考資料 『日本城郭体系』 現地パンフレット

*参考サイト 城と古戦場  北の城塞  ザ・登城  タクジローの日本全国お城めぐり  ちえぞー城行こまい  城跡巡り備忘録

周山城(京都市右京区周山)

*鳥瞰図の作成に際しては「ウッディ洛北」で頂いたパンフレットの図を参考にした。(ウッディ洛北は、国道162号線と477号線との交差点脇にある道の駅で、ここの人にお願いすれば城の案内図を入手することができるのである。)

 明智光秀が築いた石垣造りの山城として著名な周山城は、上記の交差点の北西にそびえる比高200mほどの山頂部に築かれている。登り口はこの辺りである。

 住宅地のはずれに登城口があるのだが、この周辺、道が狭い上に空き地がないため、車を停めるのに困ってしまう。

 登城口の案内から城に向かって悪路を200mほど進んでいくと、道路の終点になり、ここに数台駐車できるスペースがあるのだが、悪路に強い車でないと難しい(私は果敢に進んでしまったが、ちょっと後悔した)。すぐ近くに自治会の倉庫があるので、地元の人にお願いして、そこに停めさせてもらうのが良いか、あるいは無難にウッディ洛北に停めさせてもらった方がよいかもしれない。

 山は急峻であるが、山道は斜面に沿って付けられているので、意外にも、それほどきつくもなく、とても歩きやすい道であった。鼻歌を歌いながらそこをつづれ折りに進んでいくと、やがて道は切り通しのカーブになり、尾根の所に出た。6の郭との分岐点の所である。6もすでに城域であろうから(先端に鉄塔が建っており、けっこう広いスペースがある)、この切り通しも一応、遺構と考えてもよさそうだ。

 そこで向きを変えて南側に進んで行く。親切なことにところどころに「周山城←」といった案内があり、迷うこともない。さて、ここから道は細く、左側の下は鋭い急斜面となっている。非常な急斜面であり、うっかり滑り落ちでもしようものなら、下までゴロゴロと転がり、大怪我は免れないであろう。そんなわけで、斜度が少なく歩きやすい登城道ではあるが、ちょっと注意して歩いていく必要がある。

 そこを進むと、5の郭との間の分岐点に出た。ここも尾根上を削平したスペースであり、郭であったことは間違いなさそうである。そこから緩やかな斜面を通って今度は北西側に進んでいく。すると正面に4の郭正面の急斜面が見えてくる。この上にはNHKの受信アンテナがあるため、正面から登っていく道も付けられているのだが、あまりの急斜面で危険なせいか、ビニール紐で遮断してあった。しかし、巻き道(おそらく本来の登城道)が左脇についているので、素直にそこを進んで行った方が無難である。

 さらに進むと虎口を経て4の郭に上がりこんだ。この虎口は大規模なものではないが、脇に石積みが見られる。これが最初にお目にかかる石塁である。もともとは石垣で固めた虎口だったのであろう。ただし、単純な虎口に過ぎず、枡形といった上級なものではない。ここにあった門もそれほど大きなものではなかったであろう。
 
 3郭に上がってみると、正面に3の郭の城塁が見えてくるのだが・・・・・これがまたとんでもない急斜面である。ここにも正面に段のある道が付けられているのだが、これを上がるのはいかにもきつそうだ。ここも素直に左手の巻き道を通った方がよいであろう。ただし、この道、途中で消滅してしまっている。だが心配をすることはない。上を見ると先の方の道が見えているので、それを目指していけばよい。やがて3郭の虎口に到達することになる。

 この辺りから石があちこちにゴロゴロしている。本来石垣があったものが崩落してしまっているのであろう。ここにも石垣を伴った虎口があり、その内部が3郭となる。3郭から本丸に向かうルートは緩やかな斜面となり、その両脇に土塁が廻らされている。そして、そこにはやはり石が多数ゴロゴロとしている。これも石垣の名残だったのだと思われる。しかし、自然に崩壊したにしては、あまりにもバラバラになりすぎである。どうやらこれらの石垣の破壊は、廃城後の城割り(破城)によるものなのではないかと思う。

 石垣造りの枡形を通ったその先が本丸である。といっても山上のため、それほど広い郭ではなく、一辺が30m程度のスペースでしかない。ここに案内板と城の図面が置かれていた。

 本丸の南側に土塁のようなものがこんもりとしている。本丸内部に土塁があるのは妙な郭だなあと思ったのだが、よくよく考えてみると、これは天守台の跡のようである。天正7年という築城年を考えてみれば(安土城は天正4年に築城が始まっている)、天守がある方が自然なのである。天守台の規模は10m×13mほどで、三層ほどの天守を置くにはちょうどよい広さであろう。この天守台も徹底的に破壊されてしまっているのだが、もとはしっかりとした石垣で構成されていたのだと思う。天守台は穴蔵を内蔵するタイプのものだったようである。
 また、この天守台の北側には井戸のような窪みがあるが、これはいったい何であろうか。(実際の井戸の跡は西曲輪の北側下の斜面にある。)
 
 本丸の北側の虎口を抜けると、緩やかな斜面となり、西曲輪群へと続いていく。こちらも石積みはだいぶ崩れているが、かつては石段があったようで、また途中には小規模ながら枡形状の石積みも見られる。

 西曲輪は西側に長く展開しているため、意外にも広い面積を持つ曲輪群である。そして城内最大の見所は、この西曲輪の先端近くまで進んだ所にある。こちらには現在でも、見事な高石垣が残されているのである。野面積みながら、高さ5mほどにも積まれた石垣である。このような急峻な山上では十分すぎるほどの高さの石垣である。

 西曲輪だけにこのような高石垣が築かれていたというはずはないから(本丸の石垣が一番立派であるのが普通である)、本来この城の周囲にはみなこれくらいの石垣が廻らされていたのであろう。それが破城のために、現状のようになってしまったと考えられるわけだが、西曲輪のこの部分にまでは、破城の工事が及ばなかったために、ここだけ高石垣が残された、ということなのだと推測する。


 周山城は石垣造りのかなり立派な城であったようである。明智光秀がこの地の拠点とするために、かなりの手間暇をかけて築いた城だったのであろう。もし、旧状通りの石垣が残っていたとすると、そうとう見事な遺構が見られたのであろうにと思うと、かえすがえすも残念である。しかし、それもまた、この城の運命であったというべきであろう。

 ちなみに、今回は訪れていないが、この西曲輪の尾根をさらに西側に進んでいった所に二重堀切があり、その先に土造りの独立した山城があるということである。周山城の出城とでもいうべきものであるが、同じ尾根の延長線上にそのような独立形状の出城が存在するのは、ちょっと珍しく、その存在理由がいかなるものであったのか、なかなか興味深いものである。

東側から見た周山城。中央奥の山が主郭部に当たる。右側の鉄塔の建つ山が6の郭である。 登城道の入口。未舗装の荒れた道だが、悪路に強い車ならさらに200mほど奥の登城口のスペースまで進むこともできる。そうでなければよほど離れた所に車を置いておくしかない。
わりと歩きやすい山道を歩いていくと、やがて切り通しのターンに出た。6の郭の手前辺りである。これも遺構なのであろうか。 5の郭へ向かう道。道は急ではないが、幅が狭く、下は鋭い急斜面なので、ちょっと気を抜けない。
4の郭の正面城塁。まっすぐに行ける道があるが、ビニール紐が張ってある。急斜面なので、通行は危険ということであろう。左脇に普通の山道もあるので、そちらを進む。 途中の道から下の斜面を見たところ。本当に切り立った斜面で、落ちたら下まで転がっていきそうである。
4の郭の虎口。石垣の痕跡がある。 3の郭正面の城塁。写真だとそうでもないが、実際はものすごい急斜面である。アンテナメンテナンス用の段が付けられているが、ここも素直に左側の巻き道を進んだ方がよい。ただし、この道、途中、一部切れているので、注意が必要だ。
3の郭の虎口。やはり石垣がある。どんな門が建っていたのであろう。 本丸方向を見たところ。通路の両側にはびっしりと石材が転がっている。自然崩落にしては不自然で、おそらく意図的に破壊されているのではないかと思う。
手前の枡形を上がると本丸である。本丸には天守台と思しき方形の区画があるが、だいぶ形態が不明瞭になり、周囲には石材がゴロゴロとしている。これも破城の跡と見るべきであろう。 左側が天守台の一部。北側の隅に井戸のような窪みがある。
西曲輪に向かう斜面。石段が付けられていたようだ。 西曲輪内部にある低い石垣。
西曲輪の先端近くにある石垣。ここだけ破壊を免れたようで、見事な高石垣がそのまま残っている。 さらにその先端の石垣。
西曲輪石垣をアップで見たところ。この辺りが周山城の最大の見所であろう。 本丸に向かう斜面の途中には枡形構造が存在していたようで、石塁にその名残を見ることができる。
再び本丸内部。盛り上がって見えるのは天守台。 本丸土塁と側面部の石垣。
 周山地域は、もともと宇津氏によって支配されてきたが、天正7年、明智光秀によって宇津城(周山城の西3kmほどの所にあったらしい)が攻め落とされると、光秀は、周山街道に近く交通の要衝であるこの地に新城を築く計画を立てた。光秀の城としては、坂本城亀山城福知山城に次ぐ第4の城、といったところであろうか。

 ちょっとしか調べていないのでなんともいえないが、この城を光秀が築いたというのは、『丹波誌』などの地誌や口碑によるもので、ちゃんとした史料によるものではないようだ。しかし、当時の状況から考えて、光秀による築城と考えても間違いはなさそうである。

 「周山」という地名は誰によって付けられたものであろうか。これも光秀によって付けられたものだというが、「周山」とはあまりにも象徴的な名称である。

 「周」とは殷の暴君紂王を滅ぼした武王が建てた国名である。それまで、悪王といえども王は王、配下が打ち滅ぼすことなど考えられないことであったのだが、初めて「悪王の放伐」ということをやってのけたのが、周の武王であった。ちなみに信長の居城岐阜城の名称も、周の武王が兵を練った岐山にちなんだものである。

 教養人なら誰でも知っている古事である。光秀が「周山」という地名を付けたのなら、彼はこの城を築いた時点で、「悪王を討つ」決意をしていたということになる。しかし、それではいかにもあからさまな気がしてしまう。おそらくそれを知った信長が黙っていないのではないだろうか。

信長「光秀よ、お前、城に周山などと名づけたそうだな。俺を悪王とでも思っておるのか」
光秀「とんでもございません。悪王を倒すのは殿のお役目でございます。私は殿の岐山の古事にあやかっただけにございます。殿の天下取りに貢献することのみが私の願いにござりまする」」

 とでも言ってかわしていたのだろうか。しかし、その本心はやはり「信長を討つ」というところにあったのかもしれない。となると、本能寺の変は偶発的な出来事ではなく、すでに数年前からの光秀の計画によるものであったということになる。

 
 ところで、現在、周山は京都市に属しているのだが、京都市内とはとうてい思えないほどの山の中である。どこから来るにしても、ここに到達するのはけっこう大変である。今回私は、舞鶴から高速を通り、大野ダム経由で来て、帰りは鞍馬方面から比叡脇を通って大津に抜ける道を選択した。まともなルートではいったん、京都市内に出るのが一般的であろうが、それでは渋滞するであろうと予測したのである。
 
 ところが、この百井峠越えのルート、なかなかすごい山道であった。雨上がりで霧が出ていたせいもあるが、運転するのにひやひやの連続であった。この道は、もう2度と通るまい・・・・。 





































大竹屋旅館