京都府長岡京市

勝竜寺城(長岡京市東神足)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地パンフレット等を参考にした。図のカラー部分が、おおむね現存している地域である。現在残っているのは、本丸と沼田丸の2郭だけである。この2郭周囲以外の堀は市街地化によって埋め立てられてしまっている。

 勝竜寺城は、JR東海道本線の「長岡京駅」の南400mほどの所にある。この駅、私が訪問した時には「神足駅」という名称であったが、知らないうちに名前が変わってしまったらしい。

 私が勝竜寺城を初めて知ったのは、昭和48年の大河ドラマ『国盗り物語』においてであった。このドラマの最終回、明智光秀は山崎において、秀吉軍と対戦して敗北する。光秀はいったん背後にあった勝竜寺城に退却して兵をまとめた。
 勝竜寺城の櫓の中で、光秀が雨を見つめながら、「勝てる戦であった。この雨さえなければ・・・・」とかなんとかつぶやいていた場面が印象的であった。その直後、小来栖の街道を馬で落ちていった光秀は、土民の竹やりにかかって、落命してしまうことになる。

 この大河ドラマ、私が歴史に興味を持つきっかけを作ってくれたドラマであり、この作品によって、私は戦国武将や城の印象を強く植えつけられたのであった。そんなわけで、この作品に出てきた「勝竜寺城」という城の名前は深く脳裏に印象付けられることとなった。
 その後、歴史の本でこの城のことを調べてみると、そこには勝竜寺城の堀の写真が掲載されていた。半ばヤブに埋もれそうになった堀の写真で、「なるほど、勝竜寺城は今では忘れられた古城になってしまっているのだなあ」と感慨深く思ったものである。

 平成と年号が変わってしばらくしてからのこと。その勝竜寺城に天守らしきものが建った、という情報を得る機会があった。もちろん模擬であろうが、天守が建ったとあっては行ってみないわけにはいかない。さっそく、青春18切符を買って大垣行き快速に乗り込み、京都を目指していった。
 上記の通り、当時駅名は「長岡京駅」ではなく「神足(こうたり)駅」であった。駅を降りるまで、私のイメージにあった勝竜寺城は、田舎の林の中に埋もれている古城といったものであった。ところが城址公園に着いてみてびっくり! そこにはきれいに近代化された公園があり、周囲はすっかり開発されて宅地となっていた。荒地にある城のイメージはいっぺんに消し飛んでしまった。半分埋もれかかった堀ではなく、きれいすぎるほどに整備された堀が目の前にあった。
 城の虎口には小規模な枡形があり、そこから本丸に入ると、二層の管理棟があった。模擬天守というのはどうやらこれのことであるらしい。しかし、この建物はいかにも管理棟といった趣のものであり、さすがの模擬天守好きの私も「これはちょっと違うな」と感じたものであった。それでも、かつて光秀が落ち延びてきた城を訪れることができたので、けっこう満足したものであった。

 
 勝竜寺城の歴史は古く、南北朝時代には細川氏が城主となっていたという。戦国期になると、京を席巻していた三好方の拠点の1つとなっていた。
 織田信長が京都に上洛すると、三好勢力は一掃され、勝竜寺城は細川藤孝に与えられることとなる。藤孝は明智光秀と姻戚関係にあり、山崎の合戦後に光秀がこの城を訪れたのには、そうした関係もあって、当時、この城を借り受けていたということなのだと思われる。
 その後、勝竜寺城はいったん廃城となり、城にあった資材は、淀城の築城に使用されることとなる。これによって城は荒れていった。
 江戸時代になった寛永10年(1633)、永井直清が2万石を与えられて、山城長岡藩を興す。この時に、勝竜寺城は再建され、長岡藩の居城となった。しかし、16年後の慶安2年、永井氏は摂津高槻に転封となり、勝竜寺城は再び廃城となった。

勝竜寺城の枡形門と櫓(管理棟)。堀はきれいに整備されすぎていて、ちょっとわざとらしい感じがする。





































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