岡山県総社市

鬼ノ城(総社市黒尾)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地パンフレットを参考にした。

 以前から古代の山城なんてたいしたものではないと思っていたから、鬼ノ城を訪れるという話を聞いた時も、「あまり面白くなさそうだ」といった気持ちでいた。ところが、実際に現地を訪れてみてびっくり! これはすごい城跡である。いわゆる中世城郭とは趣を異にしているが、土塁や石垣による防御思想は、やはり城として相通ずるものである。石垣や土塁の規模も半端ではない。古代山城に対する認識を改めるに十分なものであった。

 場所は総社市の北側の比高310mほどの鬼城山である。総社市黒尾の砂川公園辺りから案内板に沿って3kmほど山中に入っていくと、かなり広い駐車場と鬼ノ城ビジターセンターがある。ビジターセンターは入場無料で、中には発掘された遺物や門や櫓の模型などがある。パンフレットなども置いてあるので、ここでパンフレットをもらっておくと良いだろう。城域はかなり広いので、パンフレットに掲載されている案内図を持っていないと、どう散策すればよいのか、自分がどこにいるのかも分からなくなってしまう。

 ビジターセンターから遊歩道を通って歩き始めると、15分くらいで西門に着く。ビジターセンターからの比高は50mほどである。途中に西門が遠望できるスポットがあるのだが、遠目に見てもこの門が非常に大きいことが分かる。

 城は、中世城郭のように、山上に郭を置いているわけではなく、鬼城山の8合目から9合目辺りの側面部に城塁を延々と築くといった構造をしている。こうした構造は古代山城の特徴の1つなのであろうか。この城塁は一周すると2,8kmにもなり、城域は半端じゃなく広い。この日も、あちこちの城を歩いた後最後にこの城に到着したため、「途中の見所のありそうなところまで行って引き返そう」などと話をしていたのだが、遺構がけっこう面白くて、結局、一周してしまった。そのため思いのほか時間もかかってしまったし、最後は足が棒になるくらいに疲れてしまった。

 この城塁に沿って、4箇所に大規模な門の跡がある。このうち西門には櫓門が復元されている。そしてこの西門の周囲には石垣ではなく、版築の土塁が築かれている。これは土塁とはいえ、粘土質のかなりしっかりとしたもので、けっこう堅くなっており、角度もほぼ垂直なものであり、とうてい登れるようなものではない。高さも6〜8mほどある。昔の中国の城塞都市の城壁も、このような版築土塁によって固められていたものだというから、この版築土塁の城壁は、大陸渡来の技術によるものであるのかもしれない。

 また、西門の近くには角楼もある。こちらは楼状部分は再現されていないが、それでもかなり豪壮なものである。前面にはかなり大きな石を積んだ石垣があり、そこに柱をはめ込んでいるのが印象的であった。

 城塁に沿って歩いていくと、途中のあちこちに石垣が見られる。この山には岩石が非常に多く、そうした天然の素材を用いて石垣が構築されているのである。東の突出部辺りでは、石垣に屏風折れが見られ、高さも6mほどある。これらは本格的な石垣であり、古代の日本にこれほどの石垣を構築する技術があったというのが意外なほどである。

 またこの山にはあちこちに水源もあり、山中にいくつもの池がある。池から水が流れ落ちていく部分には水門が築かれているが、これは「水門」と呼ぶほどの大規模なものではなく、要するに排水口の一種である。

 延々とめぐらされる城塁の真下は天然の急斜面となっている。このように斜面の途中に城塁をめぐらせたのは、まさに地形を防塁に取り込むという発想によるものである。

 逆に、城塁から上の部分は地勢が緩やかになっており、この内部が居住区画ということになろう。といっても、城塁の内側も平坦な地形になっているわけではなく、3つの小山とその間の尾根に囲まれた谷戸部といった構造になっている。

 このうち、中央部のやや低くなった平坦地に礎石建物群が検出されている。この辺りが実際の居住区であったものだろう。
 
 城塁を巡るには1時間ほどかかるのだが、時間があれば、実際に一周して歩いてみることをお勧めする。この城の規模の大きさと、各所に点在する遺構をすべて見ることができる。想像以上にすごい城である。実際、この城を見ることによって、古代山城というものに対する認識が一変したのであった。

西方から遠望した西門。まるで模型のように見えるが、実際はとにかくでかい櫓門である。 西門に向う途中にある角楼。これも妙にでかい。石垣の間を柱が通っているのが珍しい。櫓部分が復元されていないのは、正確な考証ができなかったせいであろうか。
西門内部の枡形を見たところ。門の両脇にはしっかりと石垣が積まれている。古代の石垣である。 外側から西門を見たところ。とにかくでかい! ところで、上に並べられた盾に描かれた模様はいったいなんであろう。古代の大和朝廷が用いた模様なのか。それにしては、あまり日本っぽい印象を受けない。
西門脇は、石垣ではなく版築の土塁で固めてあった。古代中国の城壁のようでもある。土塁といってもこれだけしっかり固めてあれば、石垣に匹敵する防御力を発揮するであろう。 もう一度、後ろ側から西門を見たところ。
西門から石畳の通路を通って南門の方に向かっていく。城塁は、山頂に沿ってではなく、少し降った斜面部に沿って築かれているという点が、中近世の城郭とは異なっている。 途中の何箇所かには、このような石の祠のようなものがあった。これも古代信仰にちなんだものなのだろうか。
途中にある第一水門と第二水門のある石垣。 これがその水門。水門といっても、要するに、ただの排出口であったようだ。
南門に向う途中の高石垣。ちゃんとした石垣である。このような石垣が千数百年も崩れずに残っているというのもすごいことで、それだけちゃんとした記述で積まれているということでもある。 南門付近から、山麓部を見たところ。とにかく眺望はとてもよい。下が急斜面なので、縁部に立つのが怖いほどである。
南門跡。これも枡形を伴った埋門形式の門であったようである。 南門からさらに進んだ所にある高石垣。石垣の下も急峻な岩場である。
第三水門の先にある突出部。櫓でも建てたくなる場所である。 東門の辺りの石垣・・・だったと思う。
東側の突出部。その手前には折れを伴った屏風石垣がある。なかなか技巧的である。 屏風石垣を近くから見たところ。
突出部の上の様子。上にある石が礎石のように見えなくもない。 突出部の北側。天然の岩盤と石垣とをうまくミックスしている。
その先にあった土塁。 北門。やはり同様の、内枡形を付属した埋門である。
内陸部に入り込んだ所にある礎石建物群の跡。この辺が居住区だったのであろうか。 1時間近くかけて、やっと振り出しに戻ってきた。写真は角楼の上。
 鬼ノ城に関する記録はない。しかし、この遺構の規模と状態から、古代山城の1つであったことは間違いないと思われる。この城には巨石が多く散らばっており、石垣の構築にもこうした天然の石材が役に立っている。このような巨石をもちいた雄大な構造を見た後世の人が、「鬼の城であったにちがいない」という印象を持ち、それがこの城の名称となったものであろう。

 660年、朝鮮半島には新羅、百済、高句麗といった国家があったが、このうちの新羅は唐と結んで強大となり、百済を攻撃して滅ぼした。百済と親交のあった大和朝廷は、百済救援のため、大軍を朝鮮半島に送り込んだ。663年、百済・大和朝廷の軍勢は白村江で、唐・新羅連合軍と決戦を行った。いわゆる白村江の戦いである。この戦いで大和軍は大敗し、日本に逃げ帰り、百済は滅亡してしまうことになる。

 日本に帰った大和朝廷軍は、唐・新羅の軍勢の強大さを説き、さらにかの軍勢が日本に攻め寄せてくる可能性をも指摘した。これに危機感を抱いた大和朝廷は、西国の各所に山城を築いて、朝鮮軍の襲来に備えることとなった。鬼ノ城もそうした時代に、国家防衛の要の1つとして築かれた城であると想定されている。


































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