岡山県高梁市

*参考資料 『日本城郭体系』

備中松山城(高梁市内山下)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板、正保城絵図などを参考にした。この鳥瞰図では手前の近世城郭部分を大きく描いているが、実際には、背後の天神之丸周辺、大松山城なども、近世城郭部分とほとんど同等の城域を持っている。すべて合わせると、かなり広大な城郭であった。

 日本三大山城というのは、ここと美濃岩村城大和高取城の3つを指すという。どれも近世城郭でありながら高い山の上に城を築いていることが異質な城であるが、備中松山城の場合は、山上の城域も狭く、3つの中でも中世城郭の名残を多く留めているように思われる。急峻な山上にしては、わりと広いスペースを確保してはいるが、やはり大人数が籠城できるような規模ではなく、詰めの城として意識されていたものであろう。これほど見事な詰めの城を築いていても、近世段階では実際にはほとんど使用されることはなかったであろう。

 この城のもう1つの特徴は、近世城郭部分のさらに奥に、中世の山城遺構が延々と残されているということにもある。具体的には近世城郭部分を「小松山城」、古城の方を「大松山城」と呼んでいるということであるから、奥の大松山城の方こそ、中世松山城の主要部分であったという可能性も高いであろう。その時期には、小松山城は、出城のような場所であったかもしれない。

 さらに大松山城との間には、天神之丸と呼ばれるピーク部分もある。大松山城とは別の峰にあるので、これも一種の別城郭といってもかまわないかもしれない。そうやって見てくると、松山城は、3つの山城が複合した城であったというようにも見える。

 松山城は観光地でもあり、場所はすぐに分かるのであるが、車で行った場合、普段は山上まで進入することができないので気をつけたほうがよい。以前来た時(1985年)には車でかなり上まで行けたのであるが、観光で訪れる人が増えたせいであろうか、現在は山麓の駐車場に車を置いて、シャトルバスに乗って上がるようになっている。シャトルバスは中腹のふいご峠までしか行かないので、そこから城址までは山道を20分ほど歩いていかなければならない。けっこうきつい道である。

 しかし、城が見えてくると、その疲れも一気に吹き飛ぶ。いきなり見えてくる重層な石垣は、見るものを圧倒するほどのものである。特に天然岩盤の上に築いた部分は、めくるめくほどの高さと防御力を誇っている。建物がなくとも、かなりの迫力をもって迫ってくる。

 と、このように石垣は立派ではあるが、上記の通り、城域はそれほど広いものではない。近世城郭とは思えないほどの面積しかないが、急峻な山上にあるのであるから、それは致し方がないといったところであろう。

 本丸には天守閣が残されている。現存天守は12しか存在していないわけであるが、このような山中に現存しているという天守はここだけである。あまりに山の中にありすぎて、解体もされずに放って置かれたのが、かえってよかったらしい。ただしそのため、昭和20年頃に修復される前の天守はぼろぼろで崩壊寸前になっていた。

 天守は2層でしかなく、小規模なものではあるが、それでも現存建造物であるというだけでワクワクしてくる。ちなみに現存建造物はこの天守と背後の二層櫓、そして大手門付近の土塀の3つだけであり、以前来た時には実際にそれだけしかなかった。しかし、現在では復元が進んでおり、平櫓や土塀などが再現されていた。この調子だといずれ、山上の城郭は将来的には築城当時の状態のようになっていくのであろうか。そうなったら、また訪れてみたいものだ。

 さて、前回の訪問では、近世城郭部分だけしか訪問していなかったのであるが、今回は、そのさらに背後にある大松山城をも訪ねてみよう、ということになった。近世松山城の北のはずれまで行くと、山道を降りていく道があり、その先に石垣で区画された堀切がある。そこが近世松山城の終点であり、木橋を渡って山道を登っていった先が中世遺構ということになる。観光客の多い近世部分とは異なり、道こそはあるものの、こちらにはまったく人の気配がない。

 境目の堀切から進んだ所には、天神之丸、せいろうの壇、相畑などと呼ばれている曲輪群が存在しており、それだけでもけっこうな規模をもっている。ここで注目すべきなのは、相畑周辺に残っている石垣群である。近世松山城の石垣と比べると、相畑周辺で見られる石垣は、高さが2mくらいのものがほとんどで、石の大きさも小ぶりである。そういったことから、この辺の石垣は、近世松山城に伴うものではなく、中世段階から存在していた可能性が高いものである。山上にはけっこう石材が豊富にあるので、比較的早い時期から石材の使用が行われていたのではないかと思われる。

 天神之丸の脇を過ぎて、西側の山稜に上がって行くと、そこが大松山城跡である。むやみに歩いても自分の現在位置がどこなのか分からなくなってしまいそうだが、途中に標識や石碑などがあるので、かろうじてここが大松山城なのだということが分かる。しかし、大松山城は、その名称とはうらはらに、段郭を並べただけの城で、あまり面白い城ではない。城そのものが高い山の上にあるので、改めて防御構造に念を入れる必要はなかったのかもしれない。上の図は3の郭で途切れてしまっているが、実際にはその西側下に3段ほどの腰曲輪がある。しかし、それだけの城である。

 注目すべきなのは、天神之丸と大松山城との間にある池である。山上ではあるが、10m×20mほどと、かなり大規模な池が存在しており、現在でもかなりの量の水を湛えている。周囲がしっかりとした石垣造りになっているところを見ると、近世段階で手を入れられたものであるらしい。形状は長方形だが、四方に窪んだ部分があり、桟橋のようなものを出して、水汲み場にでもしていたようである。

 この池から下に降っていくと、非常に大きな吊り橋がある。これも意外だ。このような山の奥にこんな立派な吊り橋を造っても、訪れる人はほとんどいないであろう。観光用にしてはあまりにも寂れすぎている。通行上の必要性があったとも思われず、なんのために造ったのか、よく分からない吊り橋である。

 吊り橋入口からさらに降ったところには番所跡があった。わずかではあるが、ここにもそれなりの石垣が残っている。近世段階で、こちら側から敵が来るということはほとんど想定外であったであろうが、一応、こんなところにも番所を置いて警戒を怠らなかったのであろう。近世になっても、このようなところまで城域として意識されていたのである。それにしても、こんなさびしい場所に番で来る人はさぞかし不安だったことであろう。近世松山城そのものが、普段はほとんど人気がなかったであろうから、このような場末の所にいるのは、サルのような獣たちばかりであったに違いない。こんな所で番をしていたくないなあ、と感じたしだいであった。

岡山自動車道の賀陽ICから降りて、高梁市に向かう途中に見えた臥牛山。下からの比高は300mほどある。こんな高い所に築かれた近世城郭には、めったにお目にかかれない。肉眼では天守や石垣が見えたのだが、写真となるとさっぱり分からない。 以前に来た時にはタクシーでかなり上の方まで行けたのだが、現在は下からシャトルバスに乗り換えねばならない。バスはふいご峠までしか行かないので、そこから20分ほど山道を歩いていくことになる。まず最初に見えてくるのは中太鼓丸の櫓台石垣である。
さらに歩いて行くと、大手の入り口が見えてきた。こんな山奥なのに、石垣が厳重に積み上げられていて、見るからに圧巻である。 大手入り口南側の平櫓跡から、大手櫓門跡の枡形方向を見たところ。正面右側は天然の巨大な岩盤の上に石垣が積み上げられている。これではちょっと攻め上れないであろう。
三の丸から厩曲輪と二の丸方向を見たところ。こちらも高石垣が印象的である。 二の丸下の石垣には、折れ部分を埋めるように積み上げた石垣があった。これは本来のものであろうか。どうしてこのように積み上げたのかよく分からないが、実に珍しい積み方である。
二の丸虎口を入ったところから本丸を見る。以前来た時には天守と二重櫓しかなかったが、平櫓や土塀など、けっこう復元が進んでいる。 本丸の入り口。暑い日なのに、けっこう観光客が訪れていた。以前来た時には、俺たち以外には誰もいなかったが、すっかり観光地になってしまったものだ。
本丸から見た天守。二層の小規模な天守ではあるが、派手な派風があったりして、わりと瀟洒な印象を受ける。二層とはいえ、やはり天守というのはスペシャルな建物なのである。ちなみに、本丸では冷たいお茶を無料で飲むことができる。ちょっとしたことだが、真夏ではこれがとてもうれしかったりする。 天守の裏側にある二重櫓。城内には平櫓が多く、二層のものは、これと天守くらいなものである。
後ろ側から見た天守。裏側にも千鳥の張り出しなど、意匠がこらされている。 天守入口の付け櫓内部。
天守一層目にある囲炉裏。南条範夫の『廃城奇譚』では、これが抜け穴につながっているように書いてあったのだが、もちろんそれはフィクションであろう。 天守から見た本丸内部。
天守二層目。神棚が祭られている。 天守を降り、本丸から出て、裏手の大松山城を目指す。側面部の石垣もなかなか堅固である。
裏手に向かう途中にあった搦め手門の枡形。しかし、ここを出ても道らしいものはなかった。崩落してしまったものであろうか。 城の北端部にある平櫓跡。手前には井戸もある。この櫓の下の脇に沿って降っていくと、大松山城方向に続く木橋のところに出る。
北側の郭から見た本丸二重櫓。こちら側から見ると、岩盤の上に石垣を築いているのがよく分かる。よくぞここまで積み上げたものである。 城の裏手にある堀切。近世松山城の城域はここまでといったところか。堀切には石垣が積まれており、深さ6mほどある。
(以前の記述)
 松山城が正式名称だが、伊予の松山城と区別するために、備中松山城とか高梁城などと呼ばれている。松山という名の山は全国に無数にあるから、そこに築かれた城はみな松山城というわけだ。

 この松山城の歴史は古く、鎌倉時代に築かれて以来、幾度となく戦乱を経験している。現在の天守は、天和元年(1681)に水谷氏によって建てられたものである。現存天守としては唯一の現存天守だがこの天守が残ったのは、あまりに急峻な山上にあったため、ずっと放って置かれたためである。そのため古写真で見ると、ぼろぼろで、半分崩れかけて悲惨な状況になっている。よく倒壊しなかったものだと思う。近年では櫓や塀も復原されつつあるらしい。

 松山城と言えば有名なのはなぜか大石蔵助で、元禄年間に水谷氏が廃絶になったときに、城の受け取りに来たのが彼だったのである。それゆえか、山道の途中に「大石蔵助腰掛け石」というのがある。そういえば「危険、猿と目を合わすな」という立て札も山中にあった。野生の猿がけっこう生息しているらしい。私の弟は以前然1人でここで野宿したことがあるが、夜中に猿の大群が天守の上や周りで大騒ぎし、かなり怖かったという。とてもまねできん。


(松山城の歴史)
 松山城の歴史は古い。備中松山は伯備往来の主要な街道沿いにあり、この城を押さえることには大きな意味があったらしく、かなり早い時期からこの山は注目されていたようだ。

 ここに最初に城を築いたのは、鎌倉時代、承久の変で戦功を挙げて備中に所領を得た、秋葉重信であったという。秋葉氏は相模の三浦一族であったというから、関東から遥か山陽までやってきたのである。この時、秋葉氏は大松山城を築いたというが、これはあくまでも詰めの城であって、平素の居館は山麓のどこかに置いていたのであろう。

 正慶元年(1332)頃、備後三好一族であった高橋宗康が松山城に入城した。この宗泰によって城域が拡大され、小松山(近世松山城)の部分まで城として取り込まれたという。その頃からそれほどの城域を持っていたとすると、南北朝期の城としては、かなり広大な城であったといえるだろう。

 室町時代になると、備中守護となった高越師秀が在城する。しかし、足利尊氏に属した秋葉氏が奪還して、再び城主の座に収まった。

 しかし、枢要の地にある松山城ではその後も騒乱が繰り返され、城主はめまぐるしく代わっている。足利家臣上野信孝、庄高資らであるが、やがて三村氏が城主となる。この三村氏こそが、戦国大名としてこの地域に勢力を誇った一族であり、三村国親、元親らの名前が知られている。しかし、三村元親は備前の新興勢力宇喜多直家に明禅寺合戦で破れ、西からは毛利氏の圧力を受け、結局、天正3年(1575)、毛利氏の攻撃によって松山城を脱出、山麓の松蓮寺で自殺した。これによって三村氏時代は終焉を迎える。

 それ以後、松山城は毛利氏の持ち城となり、城には、天野五郎左衛門、桂民部大輔らといった毛利氏の家臣が城代となっていた。

 慶長5年(1600)、関が原の合戦で西軍の総大将に祭り上げられた毛利輝元は失脚し、長門・周防二国に押し込められ、備中の所領を失ってしまう。その後の松山は幕府の直轄領となった。この時に代官として赴任した小堀正次、息子の小堀遠州政一は小松山の城郭の改修を行ったという。

 天和3年(1617)には、鳥取から6万5千石の大名として移封された池田備中守長幸が城主となる。だが、寛永9年(164)には、備中成羽藩の水谷勝家が移封されてくる。水谷氏は城の改修を積極的に行い、現存の天守、二重櫓、土塀といった建造物は、水谷時代に築かれたものだといわれる。

 水谷氏といえば、その先祖は、下野久下田城にいた水谷蟠龍斎であり、チバラギ人としては妙な親しみを感じる。関東からこのような場所に移封されていたとは、ちょっと意外でもある。ところで、水谷氏が関東にいた頃には、城に石垣を用いることなどまったくといっていいほどなかったのだが、この城では見事な高石垣を随所に見ることができる。いったいいつの間に水谷氏は石垣の築造法を覚えたものであろうか。

 この水谷氏は、嗣子なく改易となる。その際の城明け渡しに、赤穂藩の大石蔵之助が訪れたという話はとても有名である。水谷氏の後は、安藤氏、石川氏、板倉氏と続く。5万石の板倉氏時代は8代に渡って安定して続き、やがて明治維新を迎えるに至る。




大松山城

近世城郭の北端部にある堀切の先にも石垣は続いている。しかし、近世城郭らしいのはここまでであり、ここから先は古い山城といった雰囲気の地形が続いていく。 大松山城方面への登りには西側の山裾をめぐる道を通ったので、途中の相畑にある石垣には気がつかなかった。山道を上にあがると、そこは「せいろう壇」と呼ばれる郭であった。
それをさらに進んでいくと、(あ)の郭と天神の丸との間の堀切のところに出た。ここから天神の丸の側面を通って行った先の山が大松山城ということになる。その途中には岩盤むき出しの部分やアベマキの巨木があった。細い山道のすぐ脇は断崖のような急斜面である。そのすぐ先の「←大松山城」の案内板に従って左手の山に進んでいく。 大松山城には1と2の主要な郭があり、その間の部分が緩やかな斜面の谷戸部となっている。写真はその谷戸部から奥の方を見たところ。歩いていても、どこが大松山城なのかよく分からなかったのだが、この谷戸部の入り口に、「大松山城跡」の石碑が建っていたので、かろうじて「ここが大松山城なのか・・・」と分かったのであった。
谷戸部にあった井戸。現在も水をたたえている。石組みで囲まれたしっかりとした井戸である。 3の郭。大松山城は、段郭を並べただけの、単純な構造の山城である。堀切も小さなものしかなく、いかにも古いタイプの山城といった印象である。
1の郭の先端まで行ったら、下に大きな吊り橋が見えた。なんでこのようなところにこのような立派な吊り橋があるのであろうか・・・・。実に意外である。 天神の丸との間の平場には石垣で囲まれた池がある。かなりの水量であり、これだけあれば籠城にも十分堪えられそうだ。これは近世の所産であろう。池の四方には舟入のような形をした窪みがある。水くみ場の跡であろうか。
また石垣の下の方には出張った部分もある。ここには桟橋でも架かっていたのであろう。 池のところから北側に降りていくと、吊り橋に出た。非常に高い所に架かっており、揺らすと楽しい!  しかし、高所恐怖症の人にはちょっと厳しい吊り橋である。
吊り橋から見た風景。見渡す限り山、山、山・・・・本当に山しか見えない。これでは絶景とは言い難い。眺望が利いているというわけでもなく、観光客が来るわけでもない。こんなところに吊り橋を造った理由が本当によく分からない。 吊り橋の入り口からさらに降りて行った所に番所の跡があった。このようなところまで石垣が積まれているとは・・・・ここまで来る人はめったにいないであろう。しかし、このようなきちんとした石垣が残っている。苦労してきた甲斐があったというものだ。
再び近世松山城の方に戻ってくる。途中、今度は、相畑の方の道を通ってきた。すると、途中にこのような低い石垣があちこちに見られる。これは中世段階の遺構なのであろうか。 このように石垣はあちこちに見られる。


根小屋地区

 松山城はあまりにも高い山の上にありすぎ、藩主が居住したり、政庁を置くにはまったくふさわしい場所ではなかった。そこで山麓の根小屋に藩主の居館を置き、実質的な政庁とした。
 現在、その跡は県立高梁高等学校の敷地となっているが、重厚な石垣はほぼそのまま残され、土塀なども見られる。
 鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板や古図などを参考にした。



















高梁高校の周囲には石垣が見事に残されている。土塀もあるのだが、これは復元したものなのであろうか。 大手門を上がったところから西側の曲輪を見たところ。現在はグランドとなっているようだ。
根小屋地区の石段のすぐ下にはJR伯備線の線路が通っている。 根小屋東側の川。この川沿いにも石垣がしっかりと積まれている。この町にはとにかく石垣が多いのが印象的である。




頼久寺(高梁市頼久寺町18)

 頼久寺は、本来は安国寺であり、足利尊氏が全国各地に造らせた安国寺の1つである。

 頼久という名称は、戦国前期に松山城主であった上野頼久から来ている。大永元年(1521)、頼久が死去したことに伴い、頼久の菩提寺となったこの寺院は安国頼久寺と呼ばれるようになったというわけである。

 また、ここには戦国期の松山城主、三村元親とその父、息子の墓がある。松山城の歴史の解説部分でも述べている通りに、毛利氏に敗れた三村元親が、城を脱出した後に切腹して果てたのが、この松蓮寺であると言われる。

 さらに頼久寺の庭園は、近世に小堀遠州によって作庭されたもので、著名なものである。小堀氏が代官としてこの地に赴いた時、松山城はかなり荒れてしまっていたので、小堀氏は松山城に入らず、ここを居館として用いていたという。つまり実質的にも藩主に相当する人物の居館であったということになる。

 寺院であるとはいえ、石垣の造りは見事で、城郭並みであるといっていい。山門の正面には枡形と思われる空間まで設けられている。








頼久寺の山門前面には枡形と思われる空間がある。 下から見た頼久寺。ちょっとした要塞と言っていい構えである。




松蓮寺・薬師院泰立寺(高梁市上谷町)

 
 この辺りには石垣を用いた立派な寺院が多いが、特にこの2つの寺院は見事である。寺院とはいえ、まさに城並みの重厚な石垣を巡らし、参道には枡形や櫓台状の部分まである。半端な近世城郭などよりもよほど城らしい雰囲気を備えた寺院であるといえる。

 松蓮寺は宇喜多氏と関連があったようで、観音堂の内部には、朝鮮出兵の際に、宇喜多秀家が座乗した軍船に使われていた格天井や船戸などが残っているという。
 

 泰立寺は薬師院とも呼ばれ、「男はつらいよ」のロケ地になったこともあるらしく、石垣下の脇にはそのことを示す記念碑が建てられていた。













下から見た松蓮寺。半端な近世城郭よりもよっぽど城らしい立派な石垣によって守られている。こうしてみると、まったく城にしかみえない。 松蓮寺の入り口。参道は折れて枡形のようになっており、途中には櫓台のような構造まである。まさに城である。
松蓮寺の隣にある泰立寺の石垣。こちらも完全に城レベルの石垣である。しかも高い! この寺院は「男はつらいよ」のロケで使用されたことがあるらしく、入口にその記念碑が建てられている。 泰立寺の櫓台の石垣。こちらもどうみても、「城」の構えである。




おまけ

高梁川沿いの市街地の南側のはずれに山中鹿介の墓がある。富田城で降伏して毛利軍に連行された鹿介は、この辺で殺害されたのである。写真は墓のあるところから見た松山城。右手奥の方が大松山城であろう。 山中鹿介の墓。国道沿いに看板が出ているのですぐにわかる。




























大竹屋旅館