津山城(鶴山城・岡山県津山市山下)

 *現地パンフレットの掲載図面や正保城絵図などを参考にして鳥瞰図を作成してみた。

 津山市の中心部にそびえる津山城は、5層の天守を中心にしてたくさんの櫓を配置した、実に見ごたえのある城郭であった。この城に関しては明治初期の古写真も比較的豊富に残っているので、在りし日の威容を偲ぶ事が可能である。たくさんの櫓や塀を乗せた石垣が何段にもなったさまは、古写真を見るだけでも、立派な城郭であったことがまざまざと理解できる。それに、本丸に至るまでに何度も折れ曲がって迷路のようになった登城路を通らなければならないといった構造からは、プチ姫路城とでもいいたくなるほどの風情がある。もっと建造物が残っていたなら、日本を代表する城の1つになっていたはず、と言い切ってもいいくらいのすばらしい城郭であった。

 天守の4層目の屋根には瓦もなく、申し訳程度に庇が巡らされているだけであり、変わった構造をしている。どうしてこのようになったのかというと、それには次のようなエピソードがある。壮大な5層の天守を築いたのはよいのだが、築城当時、そのことが幕府に聞こえて問題になってしまった。「外様大名の分際で、5層天守は生意気だ」とでも思われたのであろう。外様大名いじめの一種である。そこで城主の森忠政は幕府に召還されて、そのことについて問いただされることとなった。「やばい!」と思った忠政は、急いで天守の4層目の瓦を引っ剥がして、庇だけにしてしまった。

 これによって忠政は「天守は5層ではなく、4層である」と主張しきったのである。まあ、無茶な事をしたものだが、それで「あくまでも4層である」と言い切った忠政も只者ではない。そんなわけで、津山城の天守の屋根は変則的な形をしているというわけである。天守は独立式のものであるが、その入口に至るまでの道は何度も折れては門をくぐるようになっており、そう簡単には接近できないようになっていた。

 本丸の南側には備中櫓が復元されている。これは1604年の築城から400年たった2004年、築城400年記念として復元されたものである(実際に工事が完了したのは昨年の2005年)。この櫓は2層ではあるが、城下からもとても目立つ位置にあり、内部が御殿構造になっていたということもあって、400年記念に復元されたものなのだが、どうせなら、まず天守から復元して欲しかったものである、天守が復元されただけで城のイメージはずいぶんと変わってくるものだ。しかし、今時天守など築くのは費用がかかって大変であるというのも事実だ。ましてや5層(4層?)の壮大な天守なのだから。昨今の地方公共団体の財政事情からでは、天守の復元などはおぼつかなかったものだろう。備中櫓が復元されただけでも、城の雰囲気がだいぶ華やかになったとは思う。できれば今後も、少しずつでも復元が進んでいってほしいと願っておく。

 森忠政は20万石ほどの大名であったと思うが、20万石大名の城としては、過ぎたるほどに、津山城は壮大な城郭であった。石垣の高さもけっこう高い。図面にしてみると全体にコンパクトな城郭であるような印象を受けるが、実際に歩いて見ると、城内はかなり広く、一回り歩いただけでもけっこう疲れてしまった。夏の暑い気候の中の遠征であったということもあるのだが、やはり近世城郭は大きい!ってことだろう。でも、やはりこのくらいの城は見ごたえがあって、歩いていても楽しいのであった。

城址公園の入り口。左右の土塀は復元されたものなのでしょうか。 入場料210円を払って、三の丸に上がる所の枡形。近世城郭の枡形はあきれるほどにでかい!
2の丸あたりの石垣。多聞櫓のように見えるのは、実際はおみやげ屋さんである。暑いので、ここでかき氷を買って食べた。 表中門のあったところ。この門も大きかったようだ。ここを上がると2の丸である。
本丸の石垣。結構高く、10mほどもあるだろうか。 切手門から続く石段。
三の丸の動物園と旧藩校を見たところ。 本丸南隅に復元された備中櫓。かなり立派なのだが、どうせなら、天守を復元してほしかったものである。
本丸石垣に開いていた穴。水抜き穴であろう。 備中櫓に続く本丸の高石垣。
備中櫓の内部。生活できそうな小部屋がたくさんあった。 天守台に続く道は折れ曲がり、かなり複雑になっている。
天守台の方向から見た備中櫓。 天守台の脇の石垣。塀のように積まれており、石垣の内部と外部の高さは同一である。
天守台の登り口。 天守台内部。穴蔵部分がけっこう深い。
搦め手方面の石垣。折れが見られる。 搦め手の枡形。枡形が何重にもなって構成されている。
本丸西側の石垣。 本丸南側の石垣。
 津山城を築いたのは森忠政である。森氏といっても、それほど一般的に走られていないが、彼の父は信長の小姓として有名な森蘭丸の兄、森武蔵守可成であった。森可成は、天正12年の長久手の戦いで、徳川軍と戦い、討死した事でも知られている。

 可成の6男であった忠政は、豊臣秀吉に仕え川中島13万7千石の大名となっていたが、関ヶ原の合戦では東軍に味方し、戦後、美作18万6千石の国主として封ぜられた。この地にはかつて山名氏の城があったというが、そこに13年もの歳月をかけて城を築いたというわけである。 森氏は4代長成まで続いたが、元禄10年(1697)、長成の没後、嗣子がなかったため、森家は改易となった。

 次いで津山城に入国したのは、越前松平家(結城秀康の家系)の一族であった松平宣富であった。松平氏は9代続いて、明治維新を迎えることになる。

 ところで、作州津山藩というと、個人的にはちょっとした思い入れがある。昭和49年、「斬り抜ける」という時代劇をやっていた。このドラマ、けっこう好きで欠かさず見ていたのだが、主人公の楢井俊平(近藤正臣)というのが美作藩士という設定なのであった。さて、この「斬り抜ける」だが、どうしてはまったのか? それは通常の時代劇とはあまりにも異なる異様なムードに引き込まれてしまったというのがその理由である。あらすじをざっとまとめると、次のとおりである。

 美作藩主松平丹波守のじきじきの命令で俊平は、親友森千之介を切り捨てねばならなくなってしまった。なんのために親友を討たねばならないのか、その理由すらも「上意」の一言により、知らせてはもらえない。苦悩の末に俊平は、親友を斬った。しかし、死に間際の親友から、俊平は上意討ちの真の理由を知らされる。親友の妻の菊(和泉雅子)の美貌にほれ込んだ藩主が、彼女を自分のものにするために、テキトーな理由をでっちあげて、友の俊平に討ち果たさせたのである。なんとむごい・・。
 それを知った俊平は、お菊と子供の太一を連れて、藩主の非道を幕府に訴え出るべく、江戸へと旅に出るのであった。それを追うのは、俊平を息子の仇と狙う、森千之介の父、嘉兵衛(佐藤慶)と彼の妾の子伝八郎(岸田森)。俊平一行を討ち取るために、藩主は追っ手もかけた。「親友の妻に懸想したあげく、親友を殺害して妻を奪って逃げた不義者俊平」としての手配書が回される。また、各地の松平氏に連絡を取り、ターゲットにした者が領内に入るとたちまち討ち取るという、通称「松平はずし」の網が張り巡らされる。そんな中で危険な旅を続ける、俊平とお菊、お菊は最初、俊平を憎むべき夫の仇と思っていたが、やがて真実を知り、心を開いていく。そして二人はいつしか愛し合い、俊平はかつての親友の妻といけない関係になってしまう・・・・。道中、俊平たちを助ける(利用する)のは、弥吉(火野正平)や鋭三郎(志垣太郎)といった面々。って、今思ってもなかなかいいキャストを使っているよなあ。

 さて、こう書いてみると、それほど変わった事もないドラマのような気もするが、何が変わっていたのかというと、どうでもいいようなことに、マメに時代考証を行っていたという点であった。たとえば一例を挙げると、活劇の最中に「どんな名刀でも3人も斬れば人の脂(あぶら)が付いて、まったく斬れなくなってしまう」といったナレーションが入ったりする。実際に3人斬った後は斬れなくなってしまうといったシーンがあり、持っている刀を捨てて、別な手段を使って闘わなければならないといった展開となるといった具合で、通常の時代劇のアンチテーゼのようなリアルさがあった。こんな、普通の時代劇ではあまり問題にしないような時代考証(問題にしていたら時代劇にならない)が毎回あるのである。

 各話のタイトルも「男は待っていた」とか「女が愛に燃える時」だとか「女は揺れていた」だとか、やたらと男と女をテーマにしていたのも変わっていた。不倫がテーマっていうのも当時は珍しかったのかもしれない。エンディングの曲も、時代劇とは思えない歌で、これまたけっこう好きで、昔はよく歌っていた。

 番組中盤、江戸で、お菊が殺害されてしまい、独りになった俊平は、復讐を誓って今度は美作に戻っていく。その辺りから話はだんだんぶっ飛んでいき、木枯らし紋次郎と競演したり、駿府城や大阪城で暴れまくったりと、次第に荒唐無稽になっていく。そして最終回、美作に帰った俊平はついに藩主と対決。藩主を刺し殺し、たったひとりで美作藩を壊滅させる、とまあ、なんだかめちゃくちゃなラストになっていった。でも、このドラマ、けっこうはまったのであった。といったわけで、このドラマの舞台ともなった津山城はぜひ来てみたかったのである。ただ、ドラマの美作藩の城のロケは確か彦根城が使われていたなあ。(津山城には当時、建物がまったくなかったのだからしかたがないところである。)

 最後に、今でも歌える、このドラマのエンディングの歌詞を掲載しておく。(いい歌だったなあ!)

  風が吹き荒れる荒野の果てに
  日は昇り沈む 月日は返らない
  燃え尽きた愛の命に
  どんなに愛しても なぜかむなしい
  やがて白い雪 すべてを溶かす
  この愛のために故郷は捨ててきた
  故郷は捨ててきた
  




備中高松城((岡山県岡山市高松)

 秀吉の水攻めで有名な備中松山城には以前から一度来てみたかったのだが、なかなかその機会がなかった。今回、四国まで車で行った帰りに、岡山付近を通るので、途中下車してここによって見ることにした。

 高松城は歴史上非常に著名なので地図などにも必ず記されているし、現地案内板なども出ているので、場所を探すのはそれほど難しくはないであろう。しかし、遺構はたいして残っていないので、「えっ?ここがそうなの」といった感じである。

 遺構の大部分はすでに耕作化などによって失われてしまったようである。現状では本丸と二の丸の一部とその周囲の堀が残っているだけであり、これではどのような城であったのかもよく分からない。そこで「城郭体系」の図を参考にして鳥瞰図を描いてみることにした。図の本丸、二の丸の色が付いている部分が、城址公園として残っている部分である。実際にはこの2つの郭を中心として、それを囲むようにして、西を除く三方向に家中屋敷と呼ばれる外郭部が存在していた。その外側には北沼、東には東沼、東南には八反堀、西側には西沼と沼田、北東部には大池があった。つまり、城の周囲はみな沼や池によって囲まれていたのである。遠くから眺めるとまさに沼地にかろうじて浮かんでいる島のような形態の城であったものだろう。

 しかし現在ではこれらの沼はすべて消滅してしまっている。したがって、往時の城の様子をうかがい知ることはできない。でも、この城に清水宗治を大将とする2000もの毛利軍が籠城し、それを秀吉軍が水攻めをもって攻撃したというのは事実なのである。そう考えると、遺構そのものがしょぼくても、それなりの感慨はあるものなのである。

 それにしても、この城に本当に2000もの城兵が籠もることができたのであろうか。まずそれがどうも信じられない。城の規模は、外郭部を想定してみたとしても、それほど多くの兵をこめられるほど大きなものだったとは思われないのである。しかし、考えても見ると、城というのは戦国も本当に末期になって大城郭化するものであって、たとえ信長や秀吉が攻めた城とはいえ、天正10年くらいまでの城というのはそれほど大きなものではなかったのかもしれない。そのことは、播磨の上月城や遠江の高天神城を訪れたときにも感じたことである。

 ところで、現在、城址の最高所は堀面よりも1.5mほどの高さとなっている。これが往時のままであったとするならば、水位を2mほど高くすれば城内は完全に水浸しになってしまうという計算になる。実際、この様子を見て、秀吉は築堤を造る計画を立てたものであろう。

 その築堤も現在ではほとんど残されてはいない。これも耕作化によって失われてしまったもののようである。そのように考えると、この城を築いた人の労力や、秀吉の使った労力よりも、耕作化を推し進める人々のパワーの方が協力であるのかもしれない。

駐車場のある北の家中屋敷から本丸に架かっている木橋。 二の丸にある城主清水宗治の首塚。
三の丸の南西側から城址方向を見たところ。 三の丸に架かる木橋。
 天正10年(1582)、秀吉軍はついに毛利氏と直接接する備中高松の地まで進軍してきた。毛利氏もここで秀吉軍を食い止める覚悟で、高松城の城将として清水宗治を送り込んだ。

 高松城は沼地の中の島のような部分を利用した水城であり、城に続く道は、どの道も細い一本道でしかなかった。どのような大軍を有していても、隊を一列縦隊でしか進めることができなければ、前の列から鉄砲で順番に撃たれてしまうだけで有効な攻撃を加えることはできない。そこで秀吉が考えたのが、城を巨大な築堤で包んで水没させてしまおうという計画であった。一見無謀な計画のように見えたが、予定通りに築堤を築けたことと、折からの梅雨空で雨が多く降り出したことで、予定通りに高松城は水没しつつあった。

 しかし、その時、秀吉軍に急な知らせがもたらされた。「6月2日、本能寺において、織田信長、明智光秀のために討たれる」
 その知らせを聞いた秀吉は、急遽、毛利軍との間に和睦を結び、上方へ向かって、天下取りの戦をするために中国大返しをするのであった。

























大竹屋旅館