沖縄県糸満市

*参考資料 『日本城郭体系』 『城』(沖縄県立博物館友の会)

具志川城(糸満市喜屋武字具志川)

具志川城は、喜屋武岬の西800mほどの所にある。海に突き出した小さな岬を利用したもので、海面からの比高は20mほどある。岩盤の上に石垣を積み上げた小規模な城郭である。

 具志川城は、国道からかなり入り込んだ所にあり、道も分かりにくいが、国指定史跡となっているということもあり、要所要所に案内表示が出ている。これにしたがって進んでいけば城址の入口に到達することができる。

 城の入口脇には駐車場もある。ただし、09年12月に訪れた際には、修復工事のための重機が置かれており、車を停めていい場所なのかどうか、ちょっと分かりにくくなっていた。修復事業がおこなわれている最中であり、数年後には、現在よりもかなり整った姿を見せることになるのであろう。

 入口の両脇にはかなり高い櫓台のようなものがある。実際ここには、城門と櫓とが存在していたのであろう。ただし、この石垣、かなり崩落してしまっているので、本来の形状とはだいぶ異なっている。この辺も、今後、修復工事が行われていくのだと思われる。

 本州の城とは異なり、石垣の手前に堀が掘られていない。防御的に心もとない気がするが、その分石垣を高く積み上げているので、それで十分という発想だったのであろう。

 正門の脇から下の浜辺に向けて工事用の道が付けられていた。どうも下の方から修復を行っている様子である。しかし、この日は工事を行っていなかったので、どこをどういう風に修復していくつもりであるのか、よく分からない。

 海に突き出した地形になっているので、城の門はこの正門1つだけである。正門を入ると、城内の地形はけっこう傾斜している。内部もあまり広くない。しかし、両脇には石垣がきちんと積まれているのが印象的である。石垣の石は、周辺の断崖と同じサンゴ質の石灰岩のようであり、石材の調達には苦労しなかったのであろう。

 先端部が主郭ということであろうが、地形なりに低い位置にある。主郭の方が2郭よりも低い位置にあるのは違和感があるが、この地形では致し方がないといったところであろうか。

 1郭は喜屋武岬と同様、断崖上にあるので、周囲見渡す限りの大海原であり、海を監視するのには適した位置にある城である。景色はなかなか良い。
 
 具志川城は規模は小さいが、海に突き出した地形といい、石垣がそこそこよく残っているということといい、それなりに見どころのある城郭である。しかし、城域は狭い。他の沖縄の城もそうなのだが、石垣こそは立派だが、城内の面積はわりと狭いものが多い。もともとそれほど多くの人数が籠城することを想定していないようである。

具志川城入口の石垣。かなり崩壊が進んでいる。手前に堀はなかったようである。 入ったところの2郭北側の石垣。修復工事が行われている。
1郭先端部。周囲は天然の断崖である。 2郭南側の湾曲した城塁。
 具志川城という名称のグスクは沖縄地方に3箇所ほどもある。伝承によると、久米島の具志川城主真金声が他の按司に攻められて城を放棄して脱出、この地に来て城を築いたのだという。その際に故郷の城と同じ具志川城と名づけたのだといわれる。

 城内からは13世紀中頃〜15世紀中頃の中国製陶磁器が発掘されており、長い期間に、ある程度の権勢を持った領主の居城であったことが推察される。




米須城(糸満市米須304)

 米須城は、米須小学校の西側にそびえる比高20mほどの山稜上に築かれていた。したがって米須小学校を目印にしていけばよいのだが、小学校の周辺は道が狭くて難儀する。東側の小学校からアクセスするより、西側の少し広い道から接近した方が簡単だと思う。登り口には案内板があり、登城道も整備されているので場所は分かるはずである。車は近くの空き地に停めさせていただいた。

 整備された道をまっすぐ北側に進んでいくと、やがて右手に石垣が見えてくる。その辺りから登城道は石段となり、右に左に曲がって行く。坂道が曲がるのは普通のことだが、その要所要所には石積みが見られ、単なるカーブではなく、防御意匠を組み合わせたものであったと考えらてよさそうだ。

 そして虎口を抜けたところがグスク内部ということになる。現在、グスク内は長軸30mほどの部分が草刈りをされており、訪れやすくなっている。南西側や北西側には高さ2mほどの石垣の城塁が配置されており、グスクらしさを見ることができる。

 地形図を見ると、尾根は東西に長く延びている。したがって、この図の右側にも長く郭が延びている可能性があるが、残念ながら、ここから東側は一面のヤブ状態である。沖縄のヤブはハブと遭遇する可能性が高くなるから、ちょっと入りたくない。というわけで、ヤブ部分の中身はまったく確認していないのでよく分からない。実際には城域はもっともっと広いのかもしれない。現地案内板では「石垣によって2つの郭に仕切られ」と書いてあり、『城郭体系』の図では、東南側の下に「下グスク」という区画が設置されていることから、実際には上グスク・下グスクと2段構えの構造のグスクであったようである。

 
 南山グスクは、14世紀から15世紀にかけての三山分立時代における山南王の居城と伝えられているグスクであり、糸満市内ではよく遺構を残しているグスクである。

 現地案内板には米須按司にかかわる面白いエピソードが書かれてあったので、ここにも紹介しておこう。

 米須按司には美しい奥方がいた。あまりにも美しかったので按司の家臣が奥方にほれ込んでしまい、家臣はなんとか自分のものにしたいと思うようになった。そしてどういう方法でか分からないが、ついに按司を暗殺してしまった。

 按司の死後、その家臣があまりにもしつこく言い寄ってきたので、奥方は「こいつが主人を殺したのだ」と悟るに至った・・・というが、主人を殺したのがばれるほど露骨な迫り方をしたんだろうか。だとしたら、何とも迂闊な男である。

 奥方は復讐を誓い、一計を案じた。家臣に向かって「あなたの両腕で一抱えできるほどの木で柱を作り家を建ててくれたらお嫁になります」と言った。それを真に受けた家臣は、適当な木を探し当て、奥方をその木の所まで案内した。「これでどうだ」といって両腕で木を抱きかかえたところ、奥方は用意してあった釘で家臣の両手を木に打ち付けた。そして主人の仇を討つことができたというのである。何とも突っ込みどころ満載のエピソードであるが、ひとまずそういうことがあったらしいというように理解しておくことにしよう。

南側にある米須グスクの入口案内板。この舗装路をまっすぐに進んでいけばやがてグスク内に到達する。 米須グスクの虎口。ここまでの登城路は2度折り曲げられている。
虎口内部西側の城塁。 1郭北西側奥の城塁。




南山城(糸満市大里1901)

 高嶺小学校と南山神社のある微高地が南山城の跡である。したがって、神社を目指していけば場所はすぐに分かる。南端下あたりには道路の余白があるので、車はこの辺りにちょっと停めさせていただいた。

 車を降りてみると、すぐに城塁が目に入ってくる。高さは2mほどだがしっかりとした切石の石垣である。石垣は南山神社の周囲を廻るように築かれている。南側と西側は切り石だが、東西側の部分は野面の石垣が長く延びている。東西側の石垣は小学校への取り付け道路に接続して延びているのだが、こちらの野面積みの方が石垣の高さは高く3mほどはある。

 もっとも『城郭体系』によれば、神社周辺の切石の石垣は、大正時代の小学校建設に伴って積み直されたものであるという。確かに近代的な感じがしないでもない。本来の石垣というのは北西側側面に積まれている野面積みの石垣であったというべきか。

 古図や地形などからして、小学校の敷地もすべてかつての城域内であり、周囲には石垣が廻らされていたようだが、現在では石垣が取り払われ、近代的なコンクリートに変貌してしまっている個所が多くなってしまっている。しかし、地形的には一段高いところにあり、城郭らしさを残しているとは言えるだろう。

 南山グスクは、籠城用の城というよりは、日本でいう陣屋のイメージが近い。総石垣造りであったとはいえ、石垣の高さはそれほど高く構築されてはおらず、そもそも築かれている地形そのものが防御に有利な要害地形ではない。あまり防御を重視したグスクであるとは言えない。

 とはいえ、周囲は水源(北東側の嘉手志ガー)の豊富な水田地帯であり、この豊饒な土地を支配するためには、ふさわしい立地条件であったというべきかもしれない。


 南山グスクは、三山鼎立していた14世紀ごろに栄えたグスクであったという。山南王は明国と積極的に交易を行い、貿易によって富を得ていた。また明国の文化を積極的に取り入れ、南山文化と呼ばれる文化の中心地点となった。近年の発掘調査では、中国産陶磁器、グスク系土器、備前焼すり鉢、鉄鏃、ガラス製の勾玉などが出土しており、明国のみならず、本州とも交易をしていた様子がうかがわれる。

 ただし、南山の中心地がこのグスクであったかどうかということについては異説もある。そもそも山南王の系譜については不明なことも多く、100年ほどの間に何人もの王が暗殺や政変によって交代しており、山南王の居城は大里城であったという説もある。確かにこのグスクよりも大里城の方が要害もよく、山南王の居城としてはふさわしい印象を受けるのである。(ただし、このことは、山南王が山里按司と呼ばれていたということと混同されている可能性がある。)

 15世紀初頭、佐敷から興った尚巴志は、山南王承察度を滅ぼし、南山を奪取した。その後、直巴志は、中山王を倒し、さらには山北王をも滅ぼすことによって琉球国を統一するに至った。

南山城の南側虎口。石垣は切り石を用いたものだが、高さは2m程度である。 南山神社入口の石段。
神社背後にある円形に積まれた櫓台状の石垣。 グスク内部には低い石垣で段が築かれている。奥に見えるのが南山神社。
城内を区画する石垣。 左の石垣は北側に回り込み、高嶺小学校の取り付け道路に沿って長く延びている。































大竹屋旅館