沖縄県今帰仁村

*参考資料 『日本城郭体系』 『城』(沖縄県立博物館友の会)

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい

世界遺産

今帰仁城(今帰仁村今泊)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板を参考にした。

 今帰仁城は今帰仁村の北西部にある。世界遺産に登録されている史跡の1つである。googlemapの航空写真で見てみると、城塁の形状までよく分かる。特に外郭部は稜堡式城郭のようなラインを描いているのが印象的である。

 外郭部は破壊されてしまったようで、残存しているのは半分以下で、城塁もかなり低くなってしまっている。しかし、世界遺産に登録されているためか、沖縄のグスクはあちこちで修復工事が行われており、今帰仁城もまた修復されていくのかもしれない。

 外郭部に入るとすぐに目の前に大隅の城塁が延びているのが目に入ってくる。高さ8mほどの城塁が100m以上に渡って続いている様子は、まるでヨーロッパの城のようであり、圧倒される光景である。城塁には曲線状の張り出し部分が見られ、独特の弧を描いている。

 近づいてみると、石垣は天然石を用いた野面積みであることが分かる。しかも、城塁の高さに比して、意外と小さな石を積み上げているのである。この程度の大きさの石をこれほどまで高く積み上げるというのは、並大抵のことではない。グスク築城者は、想像を超える技術力を有していたのである。

 その脇に石門があり、それが城内への入り口となる。入ると正面奥まで石段が一直線に延びており、主郭部分に続いている。登城道としてはあまりにも直線的過ぎるという感じがするが、もともとこのような登城道であったのだろうか。

 関郎門をくぐって内部を見てみると、門の両脇に石室のような長方形の窪みがあった。どうやら矢狭間であったようだ。その脇には石段が付いており、城塁上に上がれるようになっている。平郎門の上にはかつて櫓があり、楼門のようになっていたらしい。

 主郭に続く石段の右手には谷津状の部分がある。「カーザフ」と呼ばれている部分である。その方向にも城塁が続いていたようだが、現状では大半が崩れてしまっており、端の方の一部だけが、かつての城塁の高さを示しているといった程度である。

 石垣が崩れているのは左側の部分も同様であり、廃石の山といった状況になっている。ここにもかつては城壁に囲まれた区画があったようだが、すっかりその形状をなしていない。

 門跡を入ったところが主郭部ということになる。主郭部は大きく3つの区画に分かれており、その間には2m程度の段差がある。このうち、御内原周辺の石垣は特に崩落が激しく、石垣というよりも脇に石がゴロゴロしているといった感じになってしまっている。主郭部は石垣を積み直したのは、わりときちんとした状態になっていた。この主郭に城主の御殿が存在していた。現在も中心部には沖縄のグスクでおなじみの御嶽が祭られている。

 城塁の上に出てみると、上の通路の外側にはさらに低い石積みが置かれている。敵を狙撃する際の障壁になる部分である。しかし、ここも石積みがけっこう雑な印象を受ける。とにかく石をひたすら放り込んだといった印象である。このような積み方でよくぞ崩落しないものだと感心してしまうが、石積みについては秘伝があるのであろう。
 
 再び戻って、今度は平郎門を入った脇にある大隅に行ってみた。大隅内部はけっこう広いが、内部は平坦ではなく、かなり岩が露出している。もともと岩の多い地形であったようで、石材の調達にはそれほど苦労しなかったのであろう。内部には大きな窪みもあるが、これは石材調達のために掘り返した跡であろうか。
 凸凹しているが、それでもこの郭では兵の調練などが行われていたということである。

 主郭の先端近くに門があり、南側下の志慶真門郭に続いている。ここは城主の世話をする人たちが居住していた所であるという。現在、3棟ほどの建物跡が検出されているようである。

 今帰仁城は、北山王の居城であっただけあり、この地域では群を抜いて巨大な城郭である。石垣も高く城域も広く、見ごたえもある。世界遺産に登録されるだけの城である。

入場券売り場から進むとすぐに外郭部の城塁が見えてくる。稜堡式城郭のようなラインを描いているが、かなり崩れてしまっている。周辺では発掘が行われていた。 大隅の城塁。高さ8mほどもあり、曲線を描いて張り出し部分を構成している。
城塁の石垣。意外と小さい石を乱雑に積んでいるのが印象的である。このサイズの石をこれだけ積み上げるためには、かなりの技術力が必要であったろう。 城内入口の平郎門。この上に望楼が建っていた。
平郎門を内側から見たところ。門の両脇には矢狭間が開けられている。 カーザフ周辺の城塁。かなり崩れてしまっている。
大庭入口の門から平郎門の方を見たところ。 左の写真の通路の脇にも城塁が続いていたようだが、現状ではかなり崩れてしまっている。
御内原から見た、大隅の内部。岩がゴロゴロしており、傾斜した地形である。中央部に大きな窪みがある。 大隅の城塁。
主郭から下の志慶名門郭の城塁を臨む。手前の石垣の石も小さい。よくぞこれだけ積み上げたものである。 主郭内部の居館跡の石垣。
主郭の内側の城塁。小さい石をただ乱雑に積んだだけのように見える。 志慶名門から志慶名門郭をみたところ。
志慶名門郭の城塁。3棟ほどの建物跡がある。 志慶名門郭から志慶名門の方向を見たところ。
志慶名門郭の城塁。ただ乱雑に積んであるだけのように見えるが、意外としっかりしている。 志慶名門とその脇の城塁。
再び入口方向に戻って、今度は大隅の内部に入ってみた。内部は傾斜地形で、岩がごろごろしている。また、内部には大きな窪みがある。 大隅内部から見た城塁。
外郭部分から見た大隅の城塁。 平郎門入口。
 今帰仁城の築城の経緯ははっきりしないが、発掘によると13世紀頃には築かれていたのではないかと考えられている。もっとも、その頃は、現在見られるような立派なものではなかったであろう。

 14世紀になると、中国の史書にも琉球国山北王として「?尼芝(はにい)」「a(みん)」「攀安知(はんあち)」といた3人の王の名前が出てくるという。これらの王は琉球国の北部を支配し、中国との交易を行っていた。

 1416年、中山の尚巴志の攻撃によって北山は滅ぼされてしまい、琉球国は統一される。

 北山滅亡後、1422年から、中山王によって今帰仁城に監守が置かれ、監守の居城として使用されていた。しかし、1609年、薩摩軍による攻撃によって城は炎上し落城した。以後は、城は廃城となり、御嶽として信仰の場所となった。





































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