沖縄県

*参考資料 『日本城郭体系』 『城(ぐすく)』(沖縄県立博物館友の会)

世界遺産

首里城(沖縄県那覇市首里当蔵町)

*鳥瞰図の作成に際しては、 『城(ぐすく)』(沖縄県立博物館友の会)、現地案内板の図などを参考にした。

 首里城は沖縄を代表する城(ぐすく)であり、つい近代まで日本帝国陸軍の司令部として用いられていた。しかし、そのために太平洋戦争末期の沖縄戦に際して、陸空から米軍に攻撃されて、正殿はもちろん、石垣の多くもひどく破壊されてしまった。しかし、昭和の末期から平成にかけて復元工事が順次行われることにより、次第に往時の雰囲気を取り戻しつつある。沖縄の人が誇りとする城らしく、城内はきれいに整備され、地元の人々に大切にされている城であるという印象を受ける。

 ただ、実際に現地を訪れてみると、石垣があまりにもきれいに整備されすぎているのがちょっと気になる。もともと沖縄のグスクの石垣は隙間なく石灰岩を積み上げるというものなのだが、首里城の石垣はあまりにもきちんと、それこそレンガのように同じ大きさの方形の石によって組まれている。他のグスクでもこのような石積みが見られることはあるが、これほどまで統一的に積まれているといった感じはしなかった。それが首里城の場合はあまりにも近代的に積み直されているといった印象を受けてしまうのである。琉球王朝の城であるのだから、もともとそのくらいきちんとした積み方をしていたのだ、といってしまえばそれまでであるが、どうも近年の積み直し作業が、石垣を旧状以上にきれいに修復しているのではないかという気がしてならない。実際のところ、どうなのであろうか。

 近世の頃、沖縄の石高というものがどのくらいであったのか知らないが、島の規模からするとだいたい20万石ほどはあったろうか。だとすると、首里城は20万石の大名の城、ということになる。確かにそれだけの規模は備えている城であり、沖縄本島に200か300はあるというグスクの中でも最大のものである。現在は世界遺産にも登録されている。ただし、首里城については上記の通り、近年の復元部分が多いため、この城単独では指定されず、今帰仁、中城城等々と併せて「グスク群」という指定となっている。

 城の構造は基本的には、他の中小の城とそれほど変わらない。石垣は立派だが、堀は掘られていない。ただ、城域が広いことと、石垣の高さが高く、積み方もきれいな布積みになっているところがその特徴であるといえるだろう。城塁のラインの折れ部分が、直線ではなく、曲線となっているのが、本州の城とは大きく異なっている点であり、本州の城と比べてみると、かなり「異国の城」イメージを感じさせてくれる。
 西側が大手口となり、歓待門から進入していくと、登城路は何度も折れ、いくつもの櫓門、穴倉門を通り抜けないと正殿までは達しないようになっている。そうした意匠については、本州の城と発想は似たようなものである。

 沖縄には実にたくさんのグスクがあるが、それらは石垣のみしか残っていない。それに比べて首里城には近代まで建築物が現存しており、近年はそれらの古写真などに基づいて、建物の復元工事が順次行われている。灰色の屋根瓦に真っ赤に塗られた壁のカラフルな建物が立ち並び、いやが応にも異国情緒が漂ってくる。このように、建造物が多く復元されていることもあり、叢に埋もれている他の多くのグスクと比較しても、非常に「立派な城」であるという印象を受ける。近世には薩摩藩によって制圧されてしまったとはいえ、かつて独立国としての表の顔を示す城であったという風格を感じさせるに十分な城であるといえる。

 首里城を築いたのは、中山の盟主であった尚氏である。この尚氏によって、14世紀頃には首里城の祖形は出来あがっていたのではないかといわれる。15世紀までの琉球は、北山(今帰仁城)、中山(首里城)、南山(島添大里城)の三大勢力によって分割支配されていた。いわば琉球における三国時代であり、この3つの勢力は仲が悪く、抗争が絶えなかったが、15世紀に入ると統一の機運が高まっていった。そして北山と南山を攻め滅ぼして琉球を統一したのが中山の尚巴志であった。現在見られる首里城の遺構の多くはこの尚巴志によって築かれたのではないかといわれている。その後も尚氏一族の居城として、ひいては琉球王国の王宮として、屹然としていたのがこの首里城である。













駐車場から土産物の並ぶ中を進んでいくと、まず見えてくるのがこの守礼門である。 歓待門。実質的な大手門である。
門の脇の石垣。石垣は布積みで実にきれいに積まれている。石垣のラインが曲線になっているのが、本州の城の石垣とは異なっている。 上の門を抜けると石段を登って瑞泉門がある。
下の門や城塁を見たところ。門も城塁も新しく、近年積み直されたものである。 すぐ下には園比屋武御嶽や龍潭などがある。はるか彼方には沖縄のエメラルドグリーンの海が広がっている。
奉神門。櫓門ってわけである。ここを入ると正殿前の広場になる。 正殿。公式行事などはこの前で行われていた。
正殿脇の南殿。 内部には王の玉座の間などがある。
北殿脇の右掖門。帰りはこちらを通るコースとなっていた。 石垣の積み方が変わっている部分。左側は乱積みになっているが、隙間のないぴっちりとした積み方である。
これも石垣の積み方が途中から変わっている部分。数次に渡って築かれているからなのか、それとも上の布積みは、近年の積み直しによるものなのか。 下の城塁。高さ10mほどで、城域をぐるりと取り囲んでいる。折れは曲線のラインとなっている。




世界遺産

中城(なかぐすく)城(中城村字泊)

*鳥瞰図の作成に際しては、 『城(ぐすく)』(沖縄県立博物館友の会)、『日本城郭体系』、現地パンフレットの図などを参考にした。

 中城城も沖縄を代表するグスクの1つである。乱積みながら隙間なく詰まれた石垣が曲線を描きながら延びているさまにはグスク特有の美しさがある。ただ、城の構造そのものは、1の郭、2の郭、3の郭を並列させたもので、本州のいわゆる直線連郭式の城郭とたいして変わりがない。ただし、3の郭、2の郭、1の郭と順に通る進入路になっているわけではなく、3の郭は奥部に入る際に経由しないようになっている。この郭だけ独立性が高いのが、いわゆる直線連郭式の城郭とは異なっている。

 幕末に日本を訪れて江戸幕府を震撼させたペリーは、実は本州に来る前に琉球に立ち寄っている。その際に中城城も訪れており、ペリーの滞在記を見ると「この石垣のラインが非常に見事である」と、中城城の石垣に感動している様子が伺える。

 中城城を築いたのは護佐丸である。護佐丸というのは、首里の中山王が、琉球を統一するのに非常に貢献した武将であり、築城の名手とも呼ばれていたが、その統一後に、勝連城主であった阿麻和利という、陰謀好きの男の讒言にかかって、殺されてしまったという悲劇の人物であり、沖縄の人にとってはおなじみの人物である。ただし近年の評価では、護佐丸=善玉、阿麻和利=悪玉といった図式は、多分に後世の演劇などの影響を受けており、必ずしも阿麻和利が悪辣な人物であったとは限らないといった解釈もなされている。
 
 (この記述は1998年訪問時のもので、2009年に再訪した時には、ここで述べている資料館はなくなってしまっていた)。
 中城城を訪れたら、手前にある資料館に入館することをお勧めする。展示自体も面白いのだが、ここの管理人のおばさんの話がなかなか面白い。非常に早口でまくし立てるのだが、要領を得ていて実に分かりやすいのである。「沖縄の歴史を、ちょっと説明しようか」と話しかけてきたおばさんが、ざっとまくし立ててくれただけで、私の友人は「すごい!15分で沖縄の歴史がすべて理解できた。なるほど、これじゃあ、護佐丸は暗殺されてしまうわけだよなあ」と妙に納得していた。今は亡くなってしまった友人なので、そういうことを思い出すのも懐かしい・・・。
 この資料館に置いてあった、「水を満タンにしてしまうと、注げなくなる水差し」(名称は忘れてしまった。ここでなくてもどこでも買えるものである)などの文物についての解説も面白かった。「満ち足りないことを教訓とする」儒教の教えに基づいているそうで、なるほど、琉球は中国の影響を強く受けているのだなあと感じた。ところで、この水差し、サイフォンの原理を用いたものだということだが、この原理がどういうものなのかは、よく知らない。

*以下はだいぶ昔に、ある冊子のために「グスクと護佐丸」について書いた文章です。とりあえずそれを転載しておきます。

*グスクとは「城」すなわち沖縄の城のことです。本州の城とは雰囲気が異なり、屈曲した石垣の城壁を巡らせているのが特徴です。沖縄独特の石灰岩を使った城壁の積み方や穴蔵門は、本州はもちろん、朝鮮や中国とも違った独特のものとなっています。沖縄には大小合わせて300以上のグスクがあると言われていますが、代表的なのは、首里城、今帰仁城、中城城、座喜味城、勝連城、知念城、糸数城、玉城といったところで、国の史跡に指定されているものもいくつもあります。現在、沖縄のグスクを世界文化遺産に登録しようという運動が起こっており、数年後には、文化遺産として世界中に知られる存在になっているかもしれませんね。(注 現在では世界遺産に認定されている。)

*護佐丸と言うのは、尚巴志に仕えた勇猛な武将でした。尚巴志とは15世紀に、三山(当時沖縄を分割支配していた、北山、中山、南山の三大勢力)を統一し、沖縄に初めての統一王朝をもたらした人物のことです。護佐丸はこの尚巴志を補佐して、今帰仁城にいた北山の攀安知を急襲して滅ぼし、一大勢力となりました。

 この護佐丸が、現在の読谷村に築いたのが座喜味城です。座喜味城は村や海を見下ろす標高127mの小高い山の上に築かれているので、ここからは、海や遠くの島々象の檻なども一望することのできる景勝地となっています。座喜味城は規模はそれほど大きくありませんが、優れた築城法で築かれた城と言えます。護佐丸は有能な治世家であったようですが、座喜味城を築く際には遠くの島々まで人夫を調達しに行ったので、今でも与論島では、子供が泣き続けていると「泣いてると護佐丸がちゅんどー(来るぞ)」と言っておどすそうです。この城も戦前は、旧日本陸軍の高射砲台となったり、戦後にはアメリカ軍の通信施設が置かれていたりしました。

 *さて、その後の護佐丸は、当時勝連城にいた阿麻和利を牽制するために、現在の北中城村に中城城を築き、そちらへ移ってきました。この中城城は沖縄の城(グスク)の中でも規模の大きいもので、こうした城を築いたことから護佐丸は名築城家と呼ばれています。しかし、護佐丸の栄華は長くは続かず、亜麻和利が、当時の王・尚泰久に「護佐丸が反乱を起こそうとしている」とありもせぬことを告げ口したことにより、王の軍隊に攻められ、自殺してしまいました。中城城もその時に炎上してしまったのです。そのせいか、現在でも中城城の石垣には焦げた跡があちこちにあります。こうして護佐丸は死にましたが、その後、沖縄の歴史上の悲劇のヒーローとして、演劇などでよく上演されています。本州での源義経や楠木正成のような存在と考えて良いでしょう。

広大な馬場曲輪から見た3郭の城塁。馬場曲輪は外郭部に当たる。 3郭城塁。両脇が張り出しているのが目立っている。
3郭城塁脇にある裏門。護佐丸の城ではおなじみの石門である。 石門脇の城塁。かなり崩されてしまっている。
北の郭脇にある井戸曲輪へ降りる部分。井戸は10m以上降った内部にある。 3郭から見た2郭城塁。やはり両脇が張り出している。この城の正面はどの郭も両脇が張り出す構造となっている。
3郭内部から城塁に登る石段。 2の郭に行く途中の門の跡。天井部が破壊されてしまっている。
2郭内部から見た2郭城塁。 1郭入口の石門。旧態のまま見事に保存されている。
2郭城塁から見た井戸曲輪。 2郭の城塁。曲線を描いているのが分かる。
2郭城塁を上から見たところ。上から見ると、けっこうな高さがある。 2郭城塁から見た平安座島。ここへ渡るために海中道路が付けられているのだが、これを車で走るのが楽しかった!
2郭城塁から見た1郭虎口。 1郭内部では発掘が行われていた。
1郭内部の城塁。 崩された部分では復元工事が行われ、その部分が白く新しい石垣になっていた。内部には細かな中込石がたくさんつまっている。
1郭南側の石門。保護のために木枠が設置されていた。 南の郭内部は拝所などの石組みが乱雑に置かれている。
正門脇の石垣。とにかく高い! 正門跡。
正門から南郭に続く通路。 井戸曲輪内部にある井戸。湧き水が溜まるシステムになっているようだ。




世界遺産

座喜味(ざきみ)城(読谷村字座喜味城原)

*鳥瞰図の作成に際しては、 『城(ぐすく)』(沖縄県立博物館友の会)、『日本城郭体系』を参考にした。

 中城城のところで触れている、護佐丸の築いた城である。やはり見事な石垣によって曲線のラインが描かれ、死角がないような構造を目指している。石垣は乱積みに近いが、隙間なくきちんと積んでいるのが印象的で、すぐれた構築技術を感じさせるものである。護佐丸の出自についてはよく分からないことが多いのだが、もともと読谷村あたりにいた豪族だったのではないかといわれる。北山征討に協力して功績を挙げた護佐丸は、あためてこの地を与えられ、この座喜味城を築いたのだといわれる。さらに後、中城城を築いてその勢力は絶大なものとなるが、後に阿麻和利の陰謀にあって殺害されてしまうこととなる。

 意外なのは、城内がかなり狭いということである。1の郭、2の郭の2郭構造となっているが、両方あわせても面積はさほどなく、たいした人数を収容することもできなさそうである。イメージ的には本州の単郭方形館くらいの収容能力しかなさそうに感じてしまう。護佐丸は沖縄を代表する武将であるとはいえ、それほどの動員兵力を持ってはいなかったというように理解していいのだろうか。

 城内に通じる門はみな穴倉門となっている。通路の上にアーチ上に石を載せ、その上にさらに石垣を積んでいるという構造だが、これにもなかなか高い技術力を感じる。こうした構造は中城城とも共通しており、いずれも名築城家護佐丸の面目躍如といったところであろうか。

 1の郭には、10m×6mほどの礎石建造物の跡がある。これが主殿に当たる建物であったと思われる。しかし、これも、それほど広いものではない。1の郭が城主居住区、2の郭が政庁だったとして、家臣団などを置くスペースなどは存在していないといっていい。石垣が見事な割りに「小さいなあ」と感じてしまう城である。

座喜味城2郭石門脇の城塁。 2郭石門。沖縄のグスクで最古の石門であるという。
石門内部。アーチ状に石が組まれている。 2郭内部の城塁。
1郭の城塁と石門。 1郭の城塁。
1郭石門入口から見た2郭石門の辺り。 1郭石門を内部から見たところ。
1郭内部から見た城塁。 1郭の主殿跡。
1郭城塁から見た2郭内部。 1郭石門を1郭城塁の上から見る。
1郭城塁。 城塁から見た1郭内部。
2郭から見上げた1郭の石垣。 2郭が帯曲輪状になっている部分。




伊江島城山(伊江島タッチュー・伊江村字城山)

 沖縄本部町の本部港からフェリーに乗れば、30分ほどで伊江島に到着する。伊江島は、珊瑚礁の隆起によってできた島で、東西6km、南北2km、人工5千人ほどのわりと小規模な島である。
 島は平坦な地形となっているが、その中央東寄りには、城山(ぐすくやま)と呼ばれる山がそびえ、島を象徴している。タッチュー(突き出した場所を示す沖縄語)とも呼ばれるこの山は、標高172mほど。真下からの比高は100mほどの岩山である。それほど高い山でもないが、平地に1つだけ飛び出しているので、沖縄本島からでもその形状を遠望することができ、かなり目立っている。

 城山といっても、この場合のグスクは、信仰上の場所を示す名称であるようで、いわゆる城とは違っている。しかし、ここには籠城伝説があり、また、山麓にはAの平場もあることから、実際に、緊急時が発生した場合には島民の避難所になっていた可能性はある。といったわけで、一種の城であったことには違いないであろう。

 城山の登山口は、南山麓にある南登山口と、北東側の北登山口との2つがある。どちらからでも登れるわけだが、北登山口の方が、売店のあるAの平場まで一気に行けるので、比較的楽である。Aの登山口からの比高は40mほどであり、石段を上がっていけば10分ほどで山頂に到着する。

 このような岩山であるから、山頂にも曲輪を置くようなスペースはない。せいぜい物見に使用する程度のものであろう。ここにはタンナーバの足跡と呼ばれるものがある。
 伝説によると、昔、隣村との争いが起こった時に、ここに籠城したタンナーバという大力の男は、山頂から岩を下に投げ落して敵を攻撃したという。その際に足を踏ん張ったところ、足跡がそのまま残ったのだという。実際にどれが足跡なのかよく分からなかったが、岩のくぼみがそのように見えることから生じた伝説なのであろう。

 山頂部はそれだけのものであるが、南側の中腹に、Aの平場がある。30m×60mほどの広さがあり、籠城用の曲輪として使用するとすれば、ここがその場所であったであろう。この周囲も急峻な地形となっている。島はとても平坦な地形なので、合戦などが起こった際に島民が避難する場所としては、ここがもっともふさわしいといえる。










伊江島に向かうフェリーから見た城(ぐすく)山。タッチューとも呼ばれている。標高は172mほどある。 南側の山麓から見た城山。みるからに険しい岩山である。ここからの比高は100mほど。
Aの平場から見た城山。lここからの比高は40mほどである。とても登れなさそうに見えるが、山頂まで石段があり、10分ほどで登れる。 山頂から見た景色。東南の伊江ビーチの方である。奥に見えるのが沖縄本島の国頭半島。
北側を見たところ。伊江島が平坦な島であることがよく分かる。正面奥にかすかに見えているのは伊是名島であろう。 山頂。山頂は岩ばかりで、曲輪を置くほどのスペースはないし、建物を建てるのも不可能である。かろうじて物見に使用することができるくらいのものである。
山頂から北東側の岩場を見たところ。まさに断崖絶壁! 落ちたら即死間違いなし。 これも山頂部分。タンナーパの足跡と呼ばれるものがあるらしいが、どれがそうだかよく分からない。
下の売店のあるAの平場を見下ろしたところ。城の曲輪を置くとしたらここであろう。 城山を降りて、北海岸の湧出(わじー)展望台にやってきた。緩やかな珊瑚礁の南海岸と違って、北側は断崖絶壁である。
断崖絶壁の下に降りてみた。ちょうど正面上に見えるのが、右上の写真を撮影した場所(湧出展望台)である。かなり高い断崖だ。 今度は南岸のニャティヤ洞にやってきた。洞窟の中には力石と呼ばれる石がある。これを持ち上げて軽く感じたら女の子、重く感じたら男の子が生まれるという。
ニャティヤ洞窟近くの海岸。岩の下部が波によってえぐられるように削られている。 ニャティヤ洞窟上から見た海岸。珊瑚礁のきれいな海だ。正面奥に沖縄本島が見える。




























大竹屋旅館