沖縄県浦添市

*参考資料 『日本城郭体系』 『城』(沖縄県立博物館友の会)

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい  ザ・登城

浦添城(浦添市仲間二丁目)

 (1回目)浦添グスクは、浦添小学校の東200mほどの位置にある。東南に延びた台地先端部を利用したもので、台地下からの比高は50mほどもある。また、山麓部には「浦添ようどれ」があり、地図などにも掲載されている。

 ふもとの国道を走っていると「←浦添城跡」の大きな表示がある。国指定史跡の看板である。それにしたがって住宅地に入り込んでいく。さらに行くと「←浦添城址公園・浦添ようどれ」の案内表示があって、そちらを進んでいった。

 すると駐車場があり、そこから道が付いている。車を駐車場に置いてそこから進んでいったのだが・・・どうにも城址公園らしき場所に着かなかった。途中に展望台があってそこで行き止まりになっていたのである。あるいはどこからか先に進む道があったのだろうか。

 というわけで、どうも城内まで進入できていないような気がするのだが、それでは悔しいので、現地案内板の図を基にしたラフ図だけ掲載しておく。

 しかし、この公園の南側下の平場では大規模な発掘作業が行われていた。これが郭であったとすると、かなりの広さがあったことが分かる。

 (2回目)どうも、前回は場所が違っていたようなので、後日、再度浦添グスクを訪れてみた。浦添公園はかなり広く、遺構が残っていない部分も多いようである。前回はかなり手前の部分に公園駐車場を見つけたのでそこから歩いたので、ようどれ等のある部分がよく分からなかった。しかし、今回は奥まで進んでいったので、本来の城址公園の位置を確認することもできた。途中の道路がちょっと分かりにくいのだが車でこの位置まで進んで駐車するのが正解のようである。航空写真を見てみると、浦添ようどれや浦添城の城塁がしっかりと見えているのが分かる。

 駐車場から公園方面に進むと、脇に「浦添ようどれ」の案内が見えてくる。ようどれは城内ではなく北側の側面部下にある。したがって、案内表示のあるところから階段を比高15mほど降って行くことになる。そうすればすぐその先に、ようどれが見えてくる。

 「ようどれ」とは「夕凪」であり、黄泉の国を表す言葉だということである。そのことから墓所のことを「ようどれ」と呼んでいるらしい。

 ようどれは1番庭、2番庭、前にはの3つの空間から成っていて、それぞれの周囲には見事に積まれた切石の石垣がそびえている。これらの石垣は第2次大戦中にかなり破壊されてしまったのであるが、近年になって復元されたものである。だからまだまだ真新しい。

 一番庭の外側の石垣は三段構造となっており、かなり見事なものである。下から見上げると、この三段の石垣の上にさらに浦添グスクの石垣が重なって見え、西洋の要塞のような重厚感をもって迫ってくる。なかなかの迫力である。城壁には穴倉門も付けられており、まさに城郭構造であったということが分かる。

 ちなみに、ようどれ以外の部分の斜面の多くは琉球石灰岩による断崖となっており、浦添グスクのある台地が天然の要害地形であったことが理解できる。

 再び台地上に戻って、浦添グスクの探索に戻る。南北に細長い台地を南側に向かって進んでいくと、途中には伊波普猷の墓がある。

 それを過ぎると間もなく眼前に立派な城壁がそびえているのが目に入ってくる。これが浦添グスクの主郭内部入口の城壁である。ただし、石積みはかなり新しいものに見える。浦添グスクの石垣は首里城建設の際に取り払われて運ばれた上に、第2次大戦では米軍の攻撃を受けて、ほとんど壊滅状態になってしまった。近年になって復元工事が進められるようになったものであろう。

 主郭内部はかなり広く、長軸で100m以上ある。宮殿を置くには十分なスペースではあるが、内部の半分ほどが平坦な地形ではない。もともとかなり凸凹した地形だったようで、平場造成を行ってもこれだけ傾斜が残ってしまっている。

 主郭内部の北側の斜面に沿いに展望台が設置されている。下の都市部から見ると比高50mほどはあるので、浦添市内を一望することができるようになっており、なかなかいい場所である。のんびりと時間を過ごしたくなるような場所だ。

 城塁下は急斜面になっており城塁状なのは分かるのだが、かなり藪が繁茂していて、石垣なのか石灰岩の断崖なのか判別がつかない。しかし、現地案内板を見ると、南側の尾根も含めて全体に石垣が廻らされているようになっているので、本来は総石垣造りであったものと想像される。

 主郭から東南部にかけては細長い尾根が延びている。しかしこちらは公園としては整備されていない箇所のようで、ロープが張ってあり「ハブに注意」の看板が設置されていた。しかし、先端部にも何か遺構があるのかもしれない。「立ち入り禁止」とは書いてなかったので、その先の道を進んで行ってみた。だが先には尾根とちょっとした平場があるだけで、明瞭な城郭遺構はよく分からなかった。この尾根先には「前田高地平和の碑」が建てられている。

 浦添グスクは、本来なら首里城に次ぐクラスの巨大城郭であったはずなのだが、廃城後の破壊、第2次大戦中の破壊によって、遺構の多くは不明瞭になってしまっているのが残念である。それでも近年少しずつ整備が進められているようだから、将来的には現在よりも城郭らしいたたずまいを見せてくれるようになっていくのかもしれない。

城址公園にある展望台・・・だと思うのだが・・・。 下方の平場では発掘作業が行われていた。
リベンジでようどれも訪れることができた。ようどれは浦添城の北側の斜面下にある。写真はようどれの入口に当たる前庭。 北側下から見たようどれ。こうしてみるとまさに城郭造りであることが分かる。一番上の城塁jは浦添城の入口の石垣である。
一番庭入口の穴倉門。 一番庭にある王族の墓室。
一番庭内部。 ようどれから浦添グスクへ。城内入口の手前脇にある伊波普猷の墓。
城内入口北側の石垣。とても高くしっかりとした構造となっている。 同じく南川の石垣。こちらはやや低く、南側に降りながら回り込んでいる。
城郭内部。展望はとてもよい。 北側側面部の城塁。
南側には尾根が長く延びているが、ハブがいるらしく、途中までしか探索できなかった。 入口の石垣を内部から見たところ。
 首里城に王府が移されるまでの約220年間、中山王の居城であった城である。つまり王家の城であり、舜天王統・英祖王統・察度王統の居城であったという。それゆえ、城の規模も大きく、首里移転の後も、城は維持されていたらしい。

 しかし、その後、石垣の石を解体して首里城に運んだことや、第二次大戦中にこの地域が激戦区になったということもあり、浦添城はしだいにその形態を失っていく。現在では、あまりまとまった遺構の見られない城址になってしまっている。




伊祖城(浦添市伊祖3丁目伊祖公園)

 浦添城の北方2kmほどの所にある伊祖公園が伊祖グスクの跡である。城址は昭和36年には県指定の史跡となっており、以降伊祖公園として整備されている。広い駐車場も完備しているので、まずはこの駐車場を目指していくのがよい。駐車場は東側のこの位置である。

 現地案内板を見てみると、伊祖グスクと呼ばれる部分は、石灰岩で囲まれた北側の伊祖神社のある一角だけであったというようになっている。『城郭体系』も「小さなグスク」といった表現をしていることから、やはり同じような認識を持っているようだ。

 伊祖神社のある一角は南北に細長い郭となっており、鳥居の建つ入口の周辺には石垣が積まれ虎口を形成していた。神社の背後には石組みの井戸があり、またその奥は一段高い岩場となっている。ここが物見台というべき個所であり、ここに立つと浦添市内を一望することができる。

 神社よりも南側の部分にも細長く平場が延びているようだが、ヤブ化しているので内部探索はしていない。何しろこのグスクのあちこちには「ハブに注意」の立札が掲げられており、かなりビビってしまうのである。こんな市街地の中でそうそうハブに遭遇することもないとは思うのではあるが、看板があるくらいだから、やはりどこかにいることはいるのであろう・・・と思ってしまう。

 上記の通り、グスクと言われているのはこの部分だけのようなのであるが、これだけでは『城郭体系』の言うように本当に小さなグスクに過ぎず、宮殿などを建てるスペースを確保するのも難しそうである。

 グスクのある台地はもっと広く、1郭からさらに2の細長い尾根が南に向かって延びており、そこそこの面積を有している。先端部は一段高くなり、虎口状の岩場も見られる。

 また2の西側下には低い城塁のようなものが存在しており、東側下の広場も郭らしく見える部分である。特に東側下の部分3は面積がかなりある上に、城塁が延々と続いており一部には折れも見られる。その部分の上には方形の展望台も設置されている。

 東側の城塁の下は石灰岩の切り立った地形となっており、防御力は抜群である。といったようなことを勘案してみると、2や3の部分もいかにも城域内に見えてしまうのだが、現地の案内板がそうなっていないことからすると、一見城郭遺構と見えるこれらの部分も、実際には公園化の際に造成されたものなのかもしれない。


 伊祖グスクは、英祖王の父親の居城であったと言われているグスクである。英祖王の父、恵祖王は伊祖按司であった。彼は善良な人物で善政を積んでいたが、なかなか子宝に恵まれなかった。晩年に至って、恵祖王の妻が懐に日輪が飛び込んだ夢を見た。そして生まれたのが英祖王であったという。一種の英雄伝説であるが、英祖王が生まれたのはこの城内であったということになっている。英祖王は善政を敷き、人々は安寧な生活を送ることができるようになったという。

 しかし、英祖王の父の居城とすると、やはり神社のある部分だけではいかにも小さすぎるという印象を持ってしまう。有力な王族の居城であるのなら、やはり2,3の部分も城域として捉えたくなってしまうところである。

 『おもろ草紙』には「伊祖伊祖の石ぐすく、あまみきよがたくだるぐすく、また伊祖伊祖の金ぐすく」といった表現が見られ、伊祖グスクの築城にはアマミキヨがかかわっていたとされている。

駐車場の上の公園内にある石垣作りの展望台。 展望台下の城塁には張り出し構造が見られる。
1郭内部には伊祖神社が祭られている。 神社参道わきに積まれている石垣。
神社の背後の岩場が城内の最高所である。物見台として利用されていたところであろう。 神社背後に残っている井戸の跡。
2郭北側の部分。 2郭の西側下には低い城塁が廻らされている。


































大竹屋旅館