沖縄県うるま市

*参考資料 『日本城郭体系』 『城』(沖縄県立博物館友の会)

世界遺産

勝連城(うるま市勝連南風原)

*鳥瞰図の作成に差しては現地案内板を参考にした。

 勝連城は、中城湾に突き出した半島の付け根近くにある。比高70mほどの独立丘の頂上部に築かれおり、この一帯では一番高い位置にあるため、四周すべてが見渡せ、非常に眺望の良い場所にある。

 城は丘の頂上部にさらに石垣を高く積み上げて築かれている。そういう形状のため、石垣を高く積み上げた沖縄の城の中でも、群を抜いて目立った形状をしており、近くに来てこの城の石垣を見上げると、思わず「かっこいい!」と叫んでしまう。とにかく、数ある沖縄の城の中でも、一番かっこよく見えるのが、この勝連城である。

 東側の山麓にかなり広い駐車場があるので、そこに車を置いて、西側の丘に登り始める。途中、切岸状の部分があって、そこに崩れてしまったような石垣の跡が見られる。これも城塁の跡である。現地案内板を見ると、外郭にあたる4郭の城塁であったようである。ちなみに南側のかなり広大な部分に4郭と東郭とが営まれていたようだが、4郭・東郭の城塁はほとんど破壊されてしまっているようである。

 ただし、世界遺産に登録されているためか、現在も石垣の修復工事が行われており、私が訪れた際にも、4郭北側の城塁が修復されている最中であった。数年後には、最初に述べた、丘の入口の崩れた切岸状部分にも虎口が復元されているのかもしれない。

 城址碑が3郭下に建っているので、現状ではここからが城内のように見える。3郭の石垣は高さ10mほどもあり、堅固にそびえている。ここから城塁の斜面をなぞるようにして登城道が延びている。登城道の石段は非常に歩きにくい形状のせいか、上には木でできた段がずっと続いている。

 3郭に入ると、すぐに正面には1郭の石垣が高くそびえて見える。その間にあるのが2郭であるが、2郭と3郭との間は2mほどの石垣で区画されているだけである。

 2郭に上がってみると、そこには主殿と思われる建物の礎石が残されていた。おそらくこれが城主の居館であったものと思われる。その背後には御嶽のようなものも残されている。

 2郭から再び坂虎口で登った所に1郭がある。1郭は20m×40mほどの規模で、それほど広くはないが、非常に眺望の聞いている場所である。居住のための空間というよりも、物見台、あるいは戦闘時の指揮所に当たるような場所であろう。

 1郭にも御嶽と思われる拝所のようなものが存在している。また、1郭の周囲は高さ1mほどの城塁が巡らされている。城塁の上幅は広い所では2mほどもあり、複雑な曲線を描きながら延びている。


 勝連城も世界遺産にふさわしく、見事な石垣を残している城である。その石垣は切石を積み重ねたもので、築城もかなり新しい時期のものに属するようである。ぜひ一度は訪れてみたい城である。

城址碑のある4郭から見た3郭の城塁。非常に見事でかっこいい! 3郭への通路。
3郭の門跡。 3郭城塁から下の城塁を見たところ。
3郭から見る1郭城塁。 2郭にある御殿跡の礎石。
1郭城塁。左側の城壁の下はかなり高い石垣となっている。 1郭城塁下から見る3郭。
1郭の虎口。この城の虎口は坂虎口になっているものが多い。 1郭虎口から見る3郭内部。
1郭内部東側の城塁。複雑な曲線を描いている。 同じく西側の城塁。海が間近に見えている。
2郭への石段から見た1郭城塁。 下では4郭の城塁の復元工事が行われていた。
3郭から見た2郭石垣と1郭城塁。 3郭から下の4郭内部の石垣を見たところ。
4郭では城塁の復元工事が続けられている。 3郭城塁。下から見上げると、かなりの威圧感がある。
 勝連城は阿麻和利の居城として有名である。阿麻和利については、面白いエピソードヶあるので、以下に簡単に記してみる。

 阿麻和利は、西海岸北谷(ちゃたん)の農民の子で、元の名前を加那と言った。生まれつき身体が弱く、手も利かず、歩行も困難な未熟児であったため、親はこれを見捨てて、山の中に打ち捨てられた。

 山の中で絶望し、死に掛けた加那であったが、、山で蜘蛛が巣を張るのを見ているうちに、打ち網を作ることを思いついた。それから這うようにして勝連の浜辺に出て、打ち網を使って漁を始めた。打ち網の効果は抜群で、たくさんの魚を得ることができた。

 その後、加那は勝連城に馬の世話人として仕えるようになったが、生来、賢明な人柄であったらしく、勝連按司の茂知附から次第に信用を得るに至った。

 勝連城に仕えるようになってからも、加那は、浜辺に降りて行っては、打ち網を使って漁を行い、地元民らに魚を分け与えていた。これは一種の人心収攬術であったようで、人々は加那に感謝し、次第に加那の恩義に報いたいと感じるようになっていったという。

 ある時、民衆たちは、いつも魚を分けてくれる加那に対して「何かお礼をしたい」と申し出た。そこで加那が言ったのは、
「それでは1つお願いがあります。里の繁栄のために次のような儀式を行ってほしいのです。○月○日の夜、みなさん一同が勝連の西の浜辺に集まって、松明を掲げて、東側に向かって行進するのです。村の繁栄のために、できるだけたくさんの村人でこの行進を行ってください」といったものであった。里の人々は、いつもお世話になっている加那の頼みであるから、みんなで協力して行進を盛り上げよう!という話になった。

 その行進の夜、勝連城では茂知附按司が重臣たちを集めて酒宴を開いていた。茂知附は酒乱気味であったようで、しょっちゅう、酒盛りを催しては乱痴気騒ぎを繰り広げていた。この日も重臣たちも含めてすっかり酔ってしまっていた。

 その時、加那が進み出ていった。
「按司様、一大事です。勝連城を攻撃するための軍勢が、城に近づいてきています」

 茂知附が城外を見てみると、確かにたくさんの松明が浜辺付近を移動しているのが見えてきた。さらにそれをよく見ようと城壁に身を乗り出した所、加那はその背中を押して、茂知附を転落させた。城塁から落ちた茂知附は全身打撲で死んでしまった。

 加那は重臣たちに向かって言った。「按司は城塁から転落してお亡くなりになった。軍勢は城に近づきつつある。みな我にしたがえ!」

 こうして加那は勝連城を乗っ取り、名前を阿麻和利と改めたのだという。

 これは口碑に基づくものであり、多分に創作が入っているものと思われる。しかし、阿麻和利が勝連城を乗っ取ったのは事実であろうし、それには中山王の意向が絡んでいたものと思われる。勝連城主となった阿麻和利は、善政を布いて、人々の信頼を得たという。

 1485年頃、阿麻和利は、中城の護佐丸に反逆の疑いありと尚泰王に讒訴して、国王軍を率いて中城を攻め、護佐丸を攻め滅ぼした。ところが、これが阿麻和利の陰謀であることを、阿麻和利の妻が知るに至る。阿麻和利の妻は、尚泰王の娘であったのである。彼女は急ぎ首里城に赴き、阿麻和利の陰謀について訴え出た。

 そこで尚泰王は阿麻和利討伐令を出した。しかし、先手を打って阿麻和利は、首里城に攻め寄せた。ところが、首里城の守備は堅く、集結してきた国王軍によって、阿麻和利は大敗してしまうことになる。

 退却した阿麻和利は、勝連城に籠城して国王軍を迎え撃ったが、多勢に無勢、終に敗れて、勝連声は落城、阿麻和利は殺害されてしまった。
 これ以後、勝連城は廃城となったという。




安慶名城(うるま市安慶名)

*鳥瞰図の作成に際しては『城』(沖縄県立博物館友の会)を参考にした。

 安慶名城は、安慶名中央公園の南側にそびえる比高20mほどの山にあった。東側には闘牛場があり、この闘牛場の案内があちこちに出ているので、これを頼りに探すとよいと思う。

 公園の東側には駐車場もあるので、車をそこに停めて上の広場に上がっていった。正面に見える比高20mほどの独立山が城址であることには間違いない。

 ところが、登り口がどこなのかがよく分からない。右手の方に階段が見えたのでそちらに向かっていくと、そこには闘牛場があった。しかし、その辺に登れそうな所はなかった。

 そこで、登り口を探しながら、城の北側の山麓を歩いてみたのだが、どうにも見つからない。現地の方数人にも伺ったのだが「分からない」とか「上は荒れていて登る道なんかないよ」などと言われてしまう始末。地元にもこの城のことはあまり知られていないのであろうか。

 さらに西側に回りこむが、やはり入口は見当たらない。しかし、南側に回りこむと、林の中に石碑らしいものが見える。登り口はここであった。最初にまっすぐ正面の山に向かっていけば登り口がすぐに分かったはずなのだが、結局一周してしまったのであった(xx)。
 この城の登り口はここ一箇所しかないので、とにかく下の写真にある木の間に分け入っていくのが正解である。石碑が林の外側にあれば、遠くからでも入口が分かるのだが、とにかく林の中に接近していかないと場所が分からない。

 安慶名城は、連郭式の城が多い沖縄のグスクの中では珍しい環郭式のグスクであるという。確かに、主郭の周囲に腰曲輪をめぐらせたグスクは珍しいように思う。しかし、周囲の郭といっても、細長い帯曲輪にしか過ぎないものであり、これを環郭式というにはちょっと違うなといった印象を受ける。どちらかというと、環郭式の縄張を意図したというものではなく、地形なりに城塁をめぐらせたらこのような形状になった、という方が合っているように思われる。

 しかし、この腰曲輪にもけっこう立派な石垣が積まれている。特に東側に張り出した部分では、高低差のある城塁が山の斜面に沿って長く延びている。

 登城道を登って行くとやがて主郭部の虎口に到達する。これが、天然の岩をくり抜いた虎口となっている。主郭への虎口はこれ1つしかないので、城に侵入するのはかなり難しい構造である。守りの堅い城といってよいだろう。

 主郭内部には岩があるので、内部は2つの郭に区画されているようにも見える。広さは長軸50mほどである。城内には石垣による城壁が巡らされている。

 他のグスクと比べると、地元での認知度も低いようだが、これも国指定史跡の1つである。岩盤をくり抜いた虎口や、腰曲輪の城壁など、それなりに見どころの多いグスクである。

 城内からは青磁器が発掘され、城主にそれなりの威勢があったことがしのばれる。

東側の広場から見た城址。非常に分かりにくいが、写真左手の所に登り口がある。 1郭内部に入る虎口。岩をくり抜いたもので、人一人がやっと通れるほどの狭さである。右手には石積みがある。
郭内部の石垣。 東側の帯曲輪の石垣。
 安慶名城の城主は安慶名按司である。安慶名按司は、伊波按司の三男、もしくは五男といわれ、最初兼箇段に築城を計画したが、当地の方がより城地に適していると考え、この地に城を築いたのだという。14世紀の後半くらいのことと考えられている。

 安慶名按司はその後も勢力を拡大し、次男を屋良城に、三男を喜屋武城に置いたという。




伊波城(うるま市石川伊波)

 伊波城は、国道329号線の石川バイパスがトンネルとなっている部分の上の山頂部に築かれていた。城址は整備されており、入り口には案内板も設置されている。途中の道路は狭いが、近くまでくればなんとなく場所は分かる。駐車場はなかったので、近くの道路の余白に停めさせていただいた。

 案内板の所から鳥居をくぐって坂道を登って行く。登って行く途中にも右手には石垣が積まれているのが見えている。このグスクは琉球石灰岩の上に築かれているが、要所要所には石垣を配置していたようである。

 進んでいくと登城路が右手に折れて石段となる。城塁の切れ目が見えてくるが、これが西門ということになる。左側には城塁が北に向かって延びているのが見えているが、上の方が崩れてしまっているのか、現状では高さ1mほどしかない。

 門から進入した内部は長軸40mほどのたいして広くもない空間だが、基本的にこれだけの単郭のグスクである。この中に2箇所の拝所が設置されている。

 北側は石灰岩の断崖となっているようで自然地形のままであるが、その他の三方向にはそれなりに野面積みの石垣が構築されているようだ。

 かつての発掘調査では、郭内からは多数の柱跡が検出されているということで、郭内部はかなり居住性の高い空間であったようだ。また国産や中国産の土器も採取されており、ここでの生活ぶりを垣間見ることができる。13世紀から15世紀にかけてのものが多く出土しているとのことで、かなり長い期間にわたって生活空間として用いられてきたグスクであったと考えられる。

 正面奥には2段構造の高台が見えている。ここが物見台とでもいうべき個所で、この上にも拝所が設置されていた。物見台の上は石灰岩質の平場となっている。ここからの眺望は素晴らしく、山下の集落やその先の海などかなり遠くまで見晴るかすことができる。また、すぐ下を通っている高速道路や国道バイパスもよく見えている。

 物見台の下は高さ10mほどの城塁になっているようだが、草木がびっしり生えているので石垣があるのかどうかよく分からない。

 物見台から南側に向かって城塁が延びており、東南下あたりに開口部が見られる。こちらが東門である。東門を出ると緩やかな坂道になっており、すぐに下の道と接続していた。意外にも東側はあまり要害ではなかった。また、こちら側にも案内板が設置されていた。 

伊波グスクの入口。城址碑の脇には案内板も設置されている。 西門入口。左側には城塁が延びている。
1郭内部。正面奥には物見台がある。 物見台にある拝所。
西側の城塁。かなり雑な積み方のものである。 東門を内部から見たところ。
 伊波按司の祖先は今帰仁城主であったという。1322年に滅ぼされた今帰仁城主の子孫が伊波の隣の嘉手刈の洞窟に隠れている所を伊波の住民たちが慕い衰退して、後に伊波按司となったというのである。その後、伊波按司は、このグスクを中心としてその勢力を拡大していった。

 安慶名按司の父親は伊波按司であり、この一族の分流であった。その点からも、伊波按司が有力な按司であったということが想像できる。

 伊波按司は山北王と対立し、中山王を頼っていたが、その関係で第2尚氏が首里を拠点として琉球全土を支配するようになると、伊波グスクを廃し、首里に移り住んでいったという。




兼箇段城(うるま市兼箇段)

 兼箇段城は、沖縄自動車道沖縄北ICの東側1kmほどの所にある。比高30mほどの独立した小山である。この辺りは他に目立った山がないので、近くまで来ると「おそらくあれだろう」という山が見えてくる。

 城址の案内などはないので場所は分かりにくいが、1の広場まで車道が付けられており、これがナビの地図にも出ている。ただし、この1の広場まで車で進むのにはちょっと滑りそうな通で、登り口付近に車を何台か停められるスペースがあるので、そこに車を置いて歩いていった方がよいと思う。そこには拝所もあった。

 1は直径20mほどの円形のスペースである。このグスクで郭といえるような空間はここしかないので、ここがグスクの本体というべき箇所であろうか。周囲を天然岩盤の城塁が取り囲んでおり、それなりの防御性を有している空間となっている。墓所らしいものも何ヵ所かに見られる。

 見ると、北側に高さ10mほどの岩山がそびえている。もしかしたら、その上に本来の主郭があるのかもしれない。そう思ってよく見てみると、何となく人の踏み跡のようなものが見えている。ということで、それをたどって岩場の間を登って行った。わりとすぐに登ることができた。

 しかし、頂上部には郭と呼べるようなスペースはなかった。岩の間に挟まれたわずかな空間があるだけである。とはいえ、そこはいかにも神聖な場所に思われ、このグスクの拝所がここであったのだろうと思われた。(しかし、後でネットでこのグスクのことを検索してみたら(グスクみち兼箇段グスクのページ)、この先にちょっとしたスペースがあるということを知ることができた。ちょっとヤブのようになっていたので進入ははばかられたのである。そここそが主郭というべきであったかもしれない。あるいは物見台的な場所なのかもしれないが)

 ざっと見た兼箇段グスクの印象は以上のとおりである。この周辺部にもっと遺構が存在している可能性もあるとは思われるが、何しろほとんどがヤブの中である。ハブに遭遇するのが怖いので、沖縄ではヤブの中に入ってまで遺構を見る気にはなれない。基本的には、だいたいこれだけのグスクであったと思っておこう。

 兼箇段グスクについて、その歴史等詳細は不明である。一説によると安慶名大川按司が、当初この地にグスクを構えようとしたが、やめて安慶名グスクを築いたという。となると、造りかけのグスクであったということなのかもしれない。

西側から遠望した兼箇段グスク。けっこう目立って見える山である。 1の広場までは車道が付いている。1の広場の北側には岩場が迫っているが、よく見ると登り道らしいものも見えるので登ってみた。
城内最高所。ここが拝所であったものだろう。とがった岩が2つあり、虎口のようになっている。この先に三角点になっている物見台のような広場があるらしい。 岩場を降りていく途中から下の広場を見たところ。




























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