広島城(広島市基町)

 広島城は広島市外の中央部に位置している。市街地であるために、本丸と二の丸以外の部分については、ほぼ隠滅してしまっているが、現在公園となって残されている本丸、二の丸(といっても実際には馬出しである)の2つの郭だけでも、それ相応の規模があり、往時の威容を忍ぶには十分なほどであるといっていい。

 鳥瞰図は「正保城絵図」に基づいて復元したものである。本丸は100m×200mほどの長方形の郭であり、北側半分が一段高くなっている。この北西の角に天守閣が建っていた。天守は戦前、国宝に指定されていたが、周知の通り、原爆の爆風によって吹き飛ばされてしまった。現在、天守は鉄筋コンクリートで復元されているが、実際にはその南側と東側には三層の小天守が接続するという連結式の天守群が形成されていた。

 本丸の形状そのものは単純な長方形であるが、その城塁にはかなり複雑な折れがあり、櫓もたくさん建ち並んでいた。毛利氏が新たな居城として織豊期に取り立てた城郭にふさわしい巨城であったということができるであろう。堀幅も実に広く、西側の一番広い所では、100mほどの堀幅を誇っている。この堀の大きさだけでも、とにかく広い!という印象を受ける城である。

 上記の通り、二の丸と呼ばれている郭は、実際には馬出しである。なぜ馬出しと呼ばずに、この部分を二の丸と呼んでいるのかが不思議である。だいぶ以前にここを訪れた時には、天守以外の復元建造物はまったくなかったのだが、その後、この二の丸では、二層櫓、多聞櫓、櫓門などが復元されていて、城らしい景観をしだいに取り戻しつつある。できれば、本丸の櫓や塀、枡形門なども復元してくれるととても嬉しいのであるが。

 さて、今回(05.12.28)、広島に着いたのはすでに5時を過ぎていた。広島城は翌日ゆっくりと回る予定であったのだが、これだけの城がライトアップされていないわけがなかろうと思って、夜景を撮影するために、暗くなってから城を訪れてみた。夜の広島城址公園は、街頭も少なくて、人もほとんどいないが、時間によって閉鎖されるという事はなく、暗くなってからも自由に出入りする事ができた。というわけで、闇の中を歩いて、天守の下までたどり着くことも問題なくできた。ところが・・・・天守のライトアップなどはされておらず、暗闇の中にはただ巨大な天守のシルエットが浮かんでいるだけであった。いくらデジカメ(しかも手ぶれ防止機能つき)であっても、この暗さで天守の写真を撮ることは不可能である。しかたがないので、諦めてホテルに帰る事にした。そこでとぼとぼ歩いて、二の丸の大手門を出て堀を渡った瞬間、6時のチャイムが聞こえてきた。すると・・・遠くに小さく見えている天守が、ゆっくりと輝き始めたではないか! なんと、ライトアップは6時からなのであった。しかし、12月下旬では、5時過ぎに暗くなってしまう。つまり、この時期は、日が落ちてからライトアップされるまでに、1時間近くの時間差があり、その暗い時間に天守を訪れてしまったというわけである。この日は雪の津和野城を登ったり、津和野から延々車を運転してきたりして疲れていたので、いまさら天守のところまで引き返す気力もなく、結局、ライトアップ天守を撮影する事はできなかったのであった。しかし、これもまた1つの運命というものであろうか・・・・・・。

 広島城を築いたのは毛利輝元であるが、毛利氏は、関が原合戦後の処置によって、中国地方の両国の大半を没収され、萩に引きこもる事になる。替わって広島城に入城したのは福島正則であった。彼は広島城をさらに改修し、太田川の氾濫を抑えるための堤防を築いたりしたという。しかし、徳川家康の死後、そのことが口実となって、「幕府の許可を得ずに勝手な城の改修を行った」という言いがかりを付けられ、安芸40万石を没収されてしまう事になる。

 替わって入城して来たのは浅野氏で、その後、浅野氏が城主として12代続いて明治維新を迎えることになる。

二の丸の大手門。二の丸ということになっているが、実質的には馬出しといった方がぴったりとくる。 二の丸大手門を正面から見たところ。近年復元されたもので、以前来たときにはなかった。
本丸大手虎口の石垣。石垣になんとなく焦げている跡が見えるような気がするのは、原爆の影響であろうか。 本丸にある大本営の跡。これも原爆で吹っ飛んでしまったものだろう。
南側から見た復興天守。本物は原爆で吹っ飛んでしまった。鉄筋コンクリート製とはいえ、板張りに本物の板を使用しているので、なんとかく本物っぽい天守である。 本丸西側の堀はとても広く、幅100mはありそうだ。
東側から見た天守。本来は南と東にそれぞれ三層の小天守をはべらせていた。 本丸城塁の石垣。図を見ると単純な直線に見えるが、実際にはこのような複雑な張り出しを各所に持っている。
天守曲輪の石垣の東端には角が円形になった珍しい石垣がある。 二の丸(馬出し)に復元された櫓。
(以前の記述)広島城の天守は昭和20年8月5日までは確かに存在していた。しかしエノラゲイの運んできた世界で最初の原子爆弾が広島の街を吹き飛ばしてしまった。当時国宝に指定されていた天守は、爆風によって倒壊してしまったのである。平時であれば、地震で倒壊してしまった丸岡城の天守のように復活させることも可能だったかもしれないが、状況が状況ゆえに、天守であった木材はすべて処分されてしまった。現在の天守は昭和33年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、外観は旧状通りとなっている。広島城は毛利輝元、福島正則の2氏によって拡張されてきたが、かつては小天守を2つ構えた壮大な造りだったという。大手門、隅櫓等、少しずつ復原されつつある。




宮尾城(広島県宮島町要害山)

宮尾城の位置はここ

 厳島合戦で有名な宮野城は、JRの連絡線乗り場のすぐ背後の比高10m余りの低い山の上にある。城といっても、ほとんど人工的な城郭構造物は見られず、船乗り場を押さえるための、ごくごく簡素な砦であったという印象である。

 城は先端の1の郭周辺と、その奥の2の郭の周囲の削平地からなる。といっても今回は2の郭の方には行かなかったので、そちらは「城郭体系」の図を参照して描いてみた。しかし、地形はだいぶ改変されているようで、このとおりではない部分もある。

 先端の1郭は、10m×20mほどの楕円形の郭で、神社や東屋があるが、削平もきちんとされておらず、周囲の切岸加工も十分であるとはいえない。とりあえず尾根の上に柵を並べて城の体裁を整えたといった程度のものであったと思われる。1の郭は低い段差で2段に分かれて、東側が一段低くなっている。そこに斜めに登ってくる道の辺りが、虎口であったろうか。尾根の基部には小規模な堀切もある。また、北側には細い尾根が延びているが、これらの削平地すべてを合わせたとしても、たいした面積にはならず、多くの兵を篭める事などは到底できそうにない・・・と現在のわれわれも思うくらいであるから、陶晴賢も当然、そう思ったのであろう。この程度の城を宮島に築いて、橋頭堡にするなど、まさに笑止千万であり、こんな城、ひともみに攻め落としてやろうとついつい出陣してきてしまったというわけである。

 しかし、それこそが毛利元就の仕掛けたトラップであり、2万以上の陶軍に対して、5000ほどの兵しかいない元就にしてみれば、大軍をなるべく身動きの取れない狭隘地に押し込んで、そこを奇襲するしかなかった。そのために、宮島にこんなちっぽけな城をわざわざ築いたのである。

 わずか300の兵は陶軍の攻撃によく耐え、その夜、ついに陶晴賢の本陣の攻め込み、大将の首を上げるという大金星を獲得するのである。それほどの一大歴史的合戦の舞台になった城としては、宮尾城はあまりにもお粗末な城であるという印象を受けてしまうのだが、それこそが、この城の持つ本来の機能であったといえる。

フェリー乗り場のすぐ脇にある要害山の登り口。要害山という名称のわりには意外と低い山である。 先端の尾根部分。
堀切跡と思われる部分。 先端の郭への登り口。
先端の郭はこんな感じである。たいして遺構らしいものはまったくない。小さな城である。 宮島を訪れたのはもちろん厳島神社を見学するためであった。日本三景の1つだけあって、とても美しい。
神社西側の石垣の上の高台には五重塔と千畳閣がある。 千畳閣の内部。秀吉の命令で安国寺恵瓊が建造したものだという。城郭といってもいいくらいの堅固な建造物である。




因島水軍城(尾道市因島中庄町)

水軍城の位置はここ

 水軍城・・・・この名称には何か心惹かれるものがある。以前観光ガイドブックでこの水軍城の記事をみて、城そのものはいかにもわざとらしい建造物であることは知っていたし、この模擬天守を見るためにわざわざ因島まで行くこともないだろうと思っていたのだが、今回、今治から尾道に抜ける際に近くを通ることから、この機会に村上水軍の本拠地をぜひ訪れてみたい、と思ってここにやってきたというわけであった。

 駐車場に着くと、すぐ目の前の山の上にあやしい城がそびえている。いよいよ村上水軍の本拠地に着いたのかあ。そう思うとちょっとした感慨があった。・・・・しかし、上の水軍城の所まで来てみて、私は大きな勘違いをしていたことに気がついた。実のところ私は、この水軍城というのが、村上水軍の本拠地であった青影城のことだと思っていたのだった。しかし、現地の案内板(そこには因島各地の城址の場所一覧が載っていたのだが)に、水軍城と別の場所に青影城が描かれていた。つまり青影城はここではなかったのである。ここはあくまで仮想の「水軍城」に過ぎない、ということを知って、私はがっくりきてしまった。かといって、あらためて青影城を探している時間もなかったので、今回はこの水軍城だけでがまんすることにしたのだった。まあ模擬天守を1つ見ることができたということだけでもよしとしよう。

 といったようなわけで、ここには実際の城はなかったのかもしれない。ただし、山麓に村上氏の菩提寺である金蓮寺があり、その背後には村上水軍の墓が多量に残されているということからすると、村上氏にとってこの場所はスペシャルな所であったことは間違いないであろう。この寺院と墓地を見下ろす水軍城の位置に、物見の砦程度は存在していたのかもしれない。

 しかし、この日は12月29日。年末のために伯方島の木浦城も休館であったが、水軍城も年末休館に入ってしまっていた。そういったわけで、中の展示を見ることはできなかった。そう思うとなかなか思い通りにいかないものなのだが、金蓮寺裏の村上水軍の墓を見られただけでも、来た甲斐はあったと思う・・・ことにしよう。





下の駐車場から見た水軍城。なるほど、見晴らしのよさそうなところにある。しかし、人っ子一人いない。売店も閉まっていて、いかにも場末な雰囲気が漂っている。 登っていく途中には刈り込みで「因」のマークと水軍の文字が・・・・。こういう主張ってなんだかほのぼのとするよなあ。手前の脈絡のない碇もなんともいえない味を出している。スピーカーも置かれているが、開館日であれば、水軍のテーマでも流れているのであろうか。
これが城内。隅櫓は展望台になっているらしいが、ここまで上がってくれば、このような櫓の中に入らなくても十分に展望が利いている。壁に意味もなく貼られた舵がなんともいえない。とても村上水軍の舵とは思えない。 案内板によるとこの建物が本丸ということで、水軍資料館になっている。ちなみに隣に二の丸の建物があり、そこも資料館である。村上水軍はこのような建物に住んでいたのかな。
金蓮寺に降る尾根の途中から見た水軍城。こうしてみると、なかなか立派なお城である。写真がちいさくて分からないだろうが、斜面は一面のみかん畑になっており、たくさんの実を付けていた。水軍城にはみかんがよく似合う。 村上水軍の墓。ずいぶん数が多い。村上水軍って、たくさん人数がいたんだなあ・・・。城そのものはあやしい城であるが、これは本物である。これを見るだけでも来る価値があるだろう。墓もこれだけあると、なんだか一族の執念のようなものを感じてしまう。

青影城の位置はここ

Aさんからいただいた図を元に鳥瞰図を作成してみた。真の青影城はこんな城らしい。































大竹屋旅館